第1話 貧しくも平和だった過去
紅花という少女は貧民街に住まう元娼婦の腹から生まれた。
父の顔は知らず、日々食べるものにも困るような生活だった。
母はかつて得意だった踊りと芝居で何とか金を得、娘を養った。
戦乱の世。国が大きく傾いた時勢で、母親は万が一自分が命を落としても娘が食い扶持を繋げるようにと、芸を叩き込んだ。
母の血を引いたからなのか、子供特有の吸収の速さが功を奏したのか。
紅花は芸の才を開花させ、貧民街ではちょっとした有名人となり、また路上に出て自ら金を稼ぐ程の腕前となる。
さて、大人の真似事が出来るとは言っても年相応の童心を抱える紅花には芸以外の外遊びにもお熱だった。
紅花は母の手伝い以外の時間を同年代の少年、浩然との遊びに当てた。
浩然は気が強く明るい紅花とは打って変わり、穏やかでやや弱腰な少年だった。
少女のような中性的で美しい顔を理由に、近所の子供達に揶揄われてきた事も、彼の自信を損なわせる要因だったのだろう。
しかしそんな浩然も、紅花と遊んでいる時は底抜けの明るさを見せた。
「待ってよ、紅花」
器用にするすると木を登る紅花を見上げる浩然が地上から声を掛ける。
「やーだよ! 浩然が遅いのが悪い!」
浩然の呼び止める声を無視し、太い枝に辿り着いた彼女は腰を下ろす。
近くにあった果実に手を伸ばしていくつかもぎ取ると、その一つに嚙り付く。
「浩然も早くおいでよ。全部食べちゃうよ」
「あ! 待ってってば」
紅花は挑発的な笑みを浩然に向ける。
急かしてはいるが、きちんと果実は残してあげるつもりではあった。
だが言葉を投げられた当の本人は不服そうに顔を顰めるとすぐに幹に足を掛けてよじ登り始める。
毎日のように泥だらけになるまで走り回っているのは浩然も紅花も変わらない。
紅花程器用ではないものの、浩然も器用に木を登ると、紅花が座る枝に手を伸ばした。
しかしその時。彼は足を滑らせてします。
「うわ、わっ!」
「っ! 浩然!」
紅花が咄嗟に手を伸ばし、浩然がそれを掴む。
しかし子供の力では相手を引き上げるなどと言うことが出来る訳もなく、二人は共に落下してしまう。
地面にぶつかる鈍い音が二つ、響き渡った。
「ぎゃっ」
「いだぁいっ!」
幸い、そこまで高所でなかった事に加えて打ちどころも悪くはなく、二人は擦り傷や痣を作る程度で済んだ。
互いにぶつけた所を手で摩りながら涙目になる紅花や浩然。
「この、おっちょこちょい!」
「ご、ごめん……」
申し訳なさそうに顔を曇らせる浩然だったが、一方の紅花は少し間を空けてからくすくすと笑いだす。
「もー、びっくりしたぁ!」
紅花が大して気にしてもいないらしい事を悟った浩然はぱちくりと瞬きをしてから遅れて吹き出す。
無邪気な笑い声が夕焼けの下で響く。
それから二人は紅花が落としてしまった果実を回収して、齧りながら帰路に就く。
「はーあ、早く戦争終わらないかなぁ」
「どうしたの、急に」
紅花のぼやきに浩然が首を傾げる。
今は戦によって王朝が変わって十年に満たない時期。
不安定な世に、民の期待に堪えられない皇帝による統治。
そのせいで元号が変わって間もないというのに、既にあちこちでは反乱が起き、いつ今の王朝がひっくり返ってもおかしくない情勢であった。
「だって、戦のせいでみんなお金がないってお母さんが言っていたんだもん。そのせいで、私やお母さんにお金をくれる人も殆どいないの」
「ああ……。母さんも困ってたかも……。おれも中々仕事見つからないし」
そのような詳しい事情までは十歳の二人に理解できずとも、民にとって今が生きづらい世の中である事は大人達の会話や空気感から察せられていた。
「でも、家が戦に巻き込まれてないだけでマシだって言っていたよ。戦に巻き込まれた土地はとても住めるような状態ではなくなるんだって」
「ふーん」
瓦礫と廃墟に囲まれたような狭い路地裏が近づいてくる。
そここそが二人の居住区だった。
「でも……どうして戦いなんてするんだろうね。皆、おんなじ人間だし、痛いのも嫌いなはずなのに」
浩然は長い睫毛を伏せて呟く。
見ず知らずの土地で命を落とす見ず知らずの者達を心から悼んでいるようであった。
浩然は貧民街で生きる子供には珍しく学もあり、思慮深い人物だった。
自分や母親等、自分の周りの生活だけで手一杯で、それ以外に対しては存外淡泊な紅花とは違う、心優しく繊細な浩然。
紅花は自分には持ち合わせない感性を持っている浩然を素直に尊敬していたし、彼の穏やかな一面に触れる時間が好きだった。
「うーん、よくわかんないや」
「紅花には難しかったね」
「あ、馬鹿にしてる!」
頬を膨らませる紅花の様子がおかしくて、浩然はくすくすと肩を揺らして笑う。
その笑いが余計に自分を馬鹿にしていると感じたらしい紅花は暫く口を尖らせる事となった。
「まあ、私は浩然みたいな考えは出来ないけど」
家が近づき、別れの時間が迫った頃。
機嫌が直った紅花は浩然の顔を覗き込んで笑みを深める。
「お母さんや浩然、あとおばさんとか……私が知ってる人たちが痛い思いをしないままが良いなーって思うよ」
どこか男勝りで快活な紅花だが、その容姿は異性の心を射止め続けた母に似て端正だ。
そんな彼女ににこりと微笑まれた途端、浩然の顔はじわじわと赤くなっていった。
「浩然? 何か顔赤い?」
「え、な、ななな何が!?」
彼の顔が紅潮した理由に全く思い至らない紅花と、慌てふためく浩然。
この時の二人は互いに、相手へ抱く特別な感情の正体に気付いていなかった。
――浩然が姿を消したのはそれから数日後のことだった。




