二日目 浴場
薄灰色の日光が葉緑体に染みる。活性化した葉緑体はアデノシン三リン酸の生産を始める。大きく気孔を開き、二酸化炭素を吸い込むと、半透明の意識が急速に覚醒していった。わたしは浴槽の中にいる。水は塩素臭く、ミネラルウォーターと比べると苦みも強い。けれど湯船のサイズは『わたし』のためにあつらえたとしか思えないほどピッタリで、寝心地は悪くなかった。三つ折りになったバスタオルを広げ、肌にしたたる水滴を含ませる。そして昨日と同じ服を着る。
カーテンを開けるが、窓の外は相変わらずの雨模様。雲に切れ目は見つからず、陰鬱な灰色が延々と続く。異形の頭が動きまわる珍妙な世界だ。天気という概念自体が存在しないのかもしれない。このまま雨が止まなければ、わたし達は永遠に館を彷徨うことになるのだろうか。
雷鳴が轟く。興奮した雨粒が、窓ガラスに襲いかかる。その滴はガラス伝い、わたしの胸に流れ込む。胸の中の小瓶はすぐに一杯になり、入りきらなかった心細さが、溜息となって外に溢れた。わたしは館の住人を探すため、花畑の部屋を出た。
玄関ホールの柱時計が10時を指す。さがしモノを始めて、すでに2時間が経っていた。10回ものけたたましい鐘の音はむしろ、わたしを孤独にする。こんな時間だというのに、食堂にも、娯楽室にも、厨房にも、もちろん玄関ホールにも、誰もいない。ふと、昨日の賑やかさを思い出す。シルクハットの軽口、理容鋏の囁き、シャンデリア嬢のヒステリックな金切り声すら、愛おしく感じた。
「この館に『わたし』を置き去りにして、みんな何処かへ行ってしまったのではないか」
声に出してみると、本当にそう思えてくる。鐘の残響が消えた。わたしはソファーから立ち上がり、よれたスカートを整える。まだ調べていない場所は、廊下に並ぶ個室と二階のみ。個室には鍵が掛かっていて、どれだけ扉を叩いても返事はなかったので、二階に向かうほかない。カーペットを辿って、大理石の階段の前まで行くと、そこで足を止めた。
『立入禁止』の看板があるわけではないけど、知らない家の二階に行くのは緊張する。若干の後ろめたさを感じながら、新入生が初めて校門をくぐるときのように、一歩を踏み出す。二段、三段、四段……、十段目の次には、広々とした踊り場があった。ステンドグラスの色に染められた光が、滑らかな床に画質の粗いバラの絵を映しだす。
色彩豊かな踊り場から、二階へ続く階段が左右に伸びる。なんとなしに右に進むと三枚の扉。それぞれ一枚ずつ、キャンバスを引っかけている。左のキャンバスには艶やかなテーブルに載ったティーセットの絵。三階建てのケーキスタンドには、マカロン、タルト、ミルフィーユ、色とりどりのお菓子が溢れる。おそらくティーポットの部屋だろう。
わたしには水と肥料と日光しか必要ないはずなのに、美味しそうに見えるのは不思議だ。真ん中のキャンバスには『浴場(男)』と癖のある字で書き込まれていて、右のキャンバスには『浴場(女の子)』と記されている。右の扉の向こうから、微かな音とモノの気配を感じて、扉を開けてみる。
その部屋は、まるで歴史ある劇場の楽屋みたいだった。五枚の丸鏡が、それを取巻く裸電球から光を浴び、月のように輝いている。壁の一辺を占める一枚板の化粧台には、大人びた化粧品、リボンの巻かれた香水瓶、お菓子みたいなマーブル柄の石けん、ケーキのようなウレタンスポンジが洒落たインテリアように配置されている。
そんな美しい世界の中で、懸命に首を振る扇風機、保健室にあるような首の長い体重計、唸りをあげるドラム式洗濯機が、妙な生活感を醸し出していた。僅かに開いた曇りガラスの隙間から、水の流れる音が聞こえる。扉を全開にする。
湯気の漂う部屋の真ん中には、泳げそうなくらい巨大な浴槽。円形のそれは、古代ギリシャの神殿みたいな柱に囲まれ、重苦しい威厳を放っていた。大理石の湯船に水は張られておらず、乳白色の風呂底に、まばらな泡が張りついている。それを散らしていくのはティーポット。浴槽の縁にしおらしく斜めに腰掛け、モップをかける。彼女の姿を見ると、ココアのように甘い安堵が心のうちに広がった。やっとモノに会えた。わたしは、ひとりぼっちではなかった。
「おはようございます、ユリ様。お早いお目覚めですね」彼女はわたしを見つけると、蓋の隙間から汗のように流れる紅茶を、チェック柄のハンカチで拭き取る。そして、スカートの裾を摘まみ上げてたおやかな挨拶をする。掃除のために『つぎはぎ』だらけの前掛けを着けてはいるが、彼女の優美さに変わりはない。すり切れたエプロンが、シンデレラのドレスに見えてくる。
「おはようございます」わたしも制服のスカートを摘まもうとしたが、なんだか恥ずかしくなって、会釈だけに留めた。
「申し訳ありませんが、ただいま掃除中でして。ご入浴を希望でしたら、準備いたしましょうか?」
「いえ、大丈夫です。どんな感じなのか、気になっただけなんで」一人でいることが寂しくなった、なんて言えないので嘘をつく。
「承こまりました」彼女は背筋を伸ばし、腹の前に手を置いたまま微動だにしない。その立ち姿は物語に出てくるような、主人の道具に徹する使用人そのもの。凜々しくはあるが隙がなくて、近寄りがたい。
「綺麗なお風呂ですね」沈黙を埋めるための言葉だったが、改めて浴室を見渡すと、その豪壮さに驚く。高い天井を支える巨大な六本の柱には渦紋が刻まれ、部屋の奥に立つ女神の彫刻は複雑に水瓶を担ぎあげる。普段は水瓶からお湯が流れるのだろうが、いまは髪の毛ほどの水も出ない。
「お褒めいただき、恐悦至極に存じます」
「そんなに畏まらなくても……。ため口でいいですよ」
「じゃあ、そうするね!」わたしに耳なんてついていないが、耳を疑う。さっきまでの冷たい声とは似ても似つかない明るい声。呆然と立ち尽くす立ちす『わたし』をよそに、彼女は悪戯っぽく肩をすくめる。
「引いてる?」ティーポットは苦笑交じりに言った。
「引いてません」本当はちょっとだけ引いてた。さっきまでと別人のようだ。
「でも、ちょっと驚いてます」
「だよねぇ。お嬢様の前ではキャラ、作ってるの。仕草とか言葉遣いにうるさくてさ。自分はすぐヒステリー起こすのにね」彼女は揃えた脚を、だらしなく崩した。
「なら、どうしてあんな堅苦しい言葉使いを?ここにはシャンデリア嬢はいないのに……」
「あの口調から急にタメにすると、みんな豆テッポウ食らったみたいな顔するから楽しくてさ」ティーポットの蓋が、おかしそうにカタカタと鳴る。おそらく、笑っている。
「面白かったですか?」
「うん」ティーポットは満足そうに頷いた。いったい『わたし』は、どんな顔をしていたのだろうか。
「他のみんながどこにいるか知らない?」わざとらしく口調を崩してみる。
「たぶん、寝てるよ」
「もう10時ですよ!」意識していないと、すぐに、ですます調に戻ってしまう。
「この館に長くいると、みんな生活リズムが狂ってくるんだよね。鳩時計は割ともったほうだけど、今は昼夜逆転してるし」
時計が逆転してどうするんだよ、と思ったが、ちょうど12時間ずれるのなら問題ないのか。アナログ時計だから午前も午後も関係ないし。
「ねぇ、今から予定ある?」
「ないです」当然だった。この空間に学校なんてあるわけないし、やらなければいけないこともない。毎日が日曜日だ。
「なら、一緒に遊ぼう」ティーポットは白磁器のようにしなやかな指を、わたしの指と絡める。いまいち距離感が掴めない。
「みんな賭け事ばっかでつまんないんだ。たまには、女の子らしい遊びもしたくてさ」
「いいよ」圧に押されて頷くと、彼女は嬉しそうに手を打った。ガラスの澄んだ音がした。
「ほんと!やったぁ!お風呂掃除と洗濯だけ終わらすから、部屋で待ってて。すぐ終わらせるから」
「分かった」返事をかえして、浴室を後にする。よほど早く掃除を終わらせたいのだろう。振り向きざまに見た彼女はもう、モップを手に握っていた。




