36…惑わす者
暗い暗い闇の中、大切な人たちに告げられた言葉が、頭の中を何度も何度も無意識に反芻していた。
涙は止めどなく肌を伝い、滴り落ちる涙はドレスを濡らしてゆく…どれだけの時が過ぎたのかセシリアには考えすら及ばない。
――私はアイが現れた日前世を思い出した。
大好きだった小説が頭の中に流れ込んできて、自分が悪役令嬢セシリアだと知りショックを受けた。きっと生前の善行が足りなかったのだろう、沢山の自分の≪やらかし≫を幾つも並べあげ後悔した。
それでも自分はセシリアとは性格も違うから、ハリアスに執着しなければ運命を変えられると思った。それがこの世界が滅亡しない最善だと思ったから。――死にたくなかったから。
ソレは自分本位な考えだったなんてその時の自分はちっとも考えていなかった。それで傷つく人がいるだなんて思いもしなかった。
ハリアスがどんなセシリアであっても婚約者として、真摯に向き合い愛を育もうとしてくれていただなんて考えもしなかった。
何故生きたいと願った時、この世界を救いたいと願った時、ちゃんと彼と向き合わなかったのかと…
そんなのわかりきったことだった。
【怖かった】
前世でも恋愛なんてまともにしなかった。向き合うことだってできていなかったはずだ。
それでも自分は自分がやると決めたことには責任を持とうと努力を積み重ねたからこそ、この世界でも魔法を修得し、知識を身に着けわかりやすい評価を得ることはできた。
――だからなんとかなるとおもってしまった。
本当は向き合うことのできない自分の弱さともっと早く向き合うべきだったのに…
アイはセシリアの足りない部分を気づかせてくれた。仲間たちは自分を慕ってくれた。
何年もかけてやっと向き合うことができたと思った。ハリアスとも、アイとも、父とも…
でもどうやら遅かったらしい…彼らを散々苦しめたのは自分だった。
やり直したいと思っても、もう女神様もやり直しはできないと言っていた。
正義感の塊でどんな時も自分を慈しむように優しく微笑んでくれていたハリアスの眼差しは、自分のせいで消えてしまった。そして彼はこの世界を見捨ててしまったのだ…
頭の中には別れを告げた彼の冷酷な眼差ししか思い出せない。
生まれてから今に至るまで、私を大切な娘として育ててくれた父の信頼を裏切ってしまった。
…役目を果たせず、失望させてしまった…
この1年父との距離は更に縮まったようにさえ感じていたのに、私の浅はかな行動が父に≪あんな事≫を言わせてしまった。
アイは私の同志だった。同じ日本で育った優しく明るい少女は28歳で死んだ私よりも大分幼いのに、この世界で懸命に毎日を過ごしていた。
嘆きたくなるような未来を知らされても共に頑張ろうと支え合える親友になってくれた。
どれだけ救われただろう。――とても計り知れない。
華奢な身体で、聖魔法の習得に励み、勉学だって必死で頑張っていた。彼女の言っていた日本での彼女の印象は今では全く感じられない。
努力の甲斐もあり、今では頼りになるお姉さんのように皆を引っ張りサポートしている。
いつも明るく微笑んでくれていたアイは、私に何の期待も見せない冷たい眼差しで【必要ない】と知らしめた。
女神様に頼られて…いい気になっていたのだろうか
…私だからこの世界を守れるなどと驕っていたのだろうか…
女神様にもあわせる顔がない…
ごめんなさい…
ちゃんとできなくて…ごめんなさい…
向き合えなくてごめんなさい…
私が消えれば…魔神は復活しない…ハリアスも私の事をもう愛していないから…
――もうおしまい…
「――何を言っている?お前は1人ではない。我がいるではないか」
突如頭の中に声が響く。
―――…誰…もう…放っておいて…
「我の事すらもうわからなくなったのか?哀れな奴よのう。ふふふ」
「・・・・・」
「――お前の願いはわかっておる。もうやめたいのであろう?この世界で生きることを。女神の願いも。
大丈夫だ。気にする必要などない。
我が代わりに女神の真の願いを叶えられる。
――だがお前にもまだできることはあるのだ。」
「…できる…こと?…こんな私に?」
魔神の言葉が頭の中に静かに広がってゆく。
流していた涙はいつの間にかおさまりその声に耳を傾けていた。
「そうだ。お前にしかできない。
我を助けよ。お前の代わりに女神を助けよう。その為にもお前は私の手を取るのだ。
悪いようにはせぬ。ほんの一瞬で闇がすべてを覆いつくしお前を開放してやれる。
お前の大切なものたちも、皆等しく闇の中で苦悩に悩まされず、≪穏やかな夢≫に満たされるのだ。」
「――夢?」
「そうだ、もうこんな苦しみを感じたくはないだろう?
お前は十分に苦しんだのだ。女神の為に世界の為に努力したことを、我だけはちゃんとわかっている。
だが現実はお前を受け入れはしない。冷酷な眼差しでお前を見捨てるであろう。
そんなものたちは捨て置けばよい。我がお前の代わりにあの者たちも≪穏やかな夢≫に導いてやる。」
「――幸せに…なれる?」
頭に響く声の主を判別すらできないまま、セシリアは提案に一縷の希望を見出す。
心は声の主に救いを求めたいと願うのに、体は凍えるように寒い。乾いたようななくしてしまったような…それが何なのかわからない。
「幸せになれるとも。
――もう悩むことなどない。我に委ねよ。お前は考えなくて良いのだ…」
―――もう…考えなくて…いいの?
まるで救いかのように見えない宙に手を差し出そうとしたその時、胸にぱぁぁあっと暖かい光が灯るのを確かにセシリアは感じ取った。
――暖かい…女神さま?…ううん…これは…ハリー?
小さな温もりは、先ほどまで凍えるように冷えていた身体さえ包み込むように、じわじわと沁み込んでいくようにさえ感じる。
言葉には言い表せない多幸感。もう自分は感じることはできないと思っていた暖かい気持ちに止まっていた涙が再び溢れ出す。
「――なんで?…私は…私はこんな暖かさ…もらえるような…人間じゃない‥のに…」
言葉など必要ない。
セシリアの中にはまぎれもないハリアスの愛が届いていた。言葉にならなくても、その灯が彼の代わりにセシリアを愛していると伝えている。
――あんなに冷たい目で…侮蔑の眼差しで見つめられたのに…どうして?
セシリアの瞳には光が戻りつつあった。失いかけていた信じる気持ち。
見捨てられたのだと…もういらない存在なのだと諦めかけた私を、優しい光の灯は灯り続ける。
「――なんというしつこさよ!…女神よ…まだ抗うというのか…我は許さぬ…決してこの世界を許しはせぬ。
お前は私のモノ…どこにも行かせぬぞ!!」
聖魔力に気づいた魔神はすぐに魔力の源を見つけ出した。
「――この魔法石がお前にいらぬ感情を与えようというのだな!
もうお前を惑わせたりはせぬぞ!我の下へ来るのだ!!」
魔神は涙を流し困惑するセシリアの心を黒い靄が包み込んでゆく。
「我の下へ来るがよい。そこで我らは一つとなるのだ。
――さぁセシリアよ。早く来るがよい!」
響く声の主がひと際大きい声を最後にセシリアは意識を手放した。
「――もうすぐだ…もうすぐお前を取り戻すぞ…女神よ・・・」