吹雪の中で、ですわ!
雪は、ひどい吹雪に変わっていった。
気負ったミシェルの表情にも、流石に不安が覗いている。
「どうやら、アーサーとはぐれたらしい」
兵の姿は見当たらない。
完全にホワイトアウトする前に、安全な場所を見つけなくてはならない。
「銃声で知らせたらいいんじゃないのか?」
「アマデイの部下に見つかってもよけりゃな」
主人の仇を取ろうと、すぐさま追ってきているだろう。悠長にしてはいられないが、この視界の悪さで、やすやすと見つかりはしないはずだ。
ロスは地形の合間を探し、そして見つけた洞窟にミシェルを引っ張っていった。
「ざまあみろって感じだ」
落ち着いたところで、ミシェルが言った。一瞬、ロスに対して言ったのかと思ったが、続いた言葉でどうやら違うと分かった。
「偉そうにふんぞり返っているから痛い目会うんだ。貴族なんて、みんな死んじまえばいい」
先ほど殺した男に対するものだ。
ほんの一年前までは、ロスもまた、ミシェルのように考えていた。貴族などくだらぬ人間ばかりだと。
だが、シドニア・アルフォルトという名門貴族の死に様は、あまりにも理解が及ばないものだった。
ロスには分からなかった。衣食住に困らないどころか、暇を持て余し、幸運の上に幸運を重ねた上澄みのような人間が、何もかも捨て馬鹿げた復讐に身を投じたのが。
そうせねばならない性急な理由は一体何だったのだろうと、考えずにはいられなかった。
無言をどう受け取ったのか、ミシェルはまた言った。
「貴族も平民も、上っ面一枚剥げば、大して変わりはしないんだ。アーサーが、よく言ってるよ」
「あいつはお前によくしているか?」
問いかけると、ミシェルは目をロスに向け、それから、横に逸らし、頷く。
「……おっかねえ時もあるけど、本当のことを言うとさ、感謝してるんだ。飯も食えるし、文字も教えてくれた。オレがどんな格好しててもヘンな顔しないし。もしあいつに出会ってなかったらって思うとぞっとする。オレが死んでないのは、あいつのおかげだよ」
「あいつは貴族にしては変わってるからな」
かつてアーサーはただ一人だけ、ロスの身の潔白を信じた。ロスにとっても彼は新鮮で、正しく公平な人間に思えた。だが彼は変わっていった――。
「社会は単純じゃない。貴族も様々だ。ヴェロニカも貴族だが、あんな感じだろう。
下層に生まれた奴も皆が悪人ではないように、あらゆるところに、あらゆる人間がいるというだけの話だ。偏りはあれど、つきつめれば、そいつ個人の問題だ」
聞き入っている様子のミシェルに、ロスは言う。
「現にお前もアーサーのところにいるが、善人だ」
しかし少年の表情は暗い。
「どこが? オレは盗人で詐欺師で、おまけに今日からは人殺しだ」
「罪人の中にも善良な人間はいる。矛盾はしてないさ」
ミシェルはなおも頑なにロスの言葉を否定する。
「今更、無理だ。さっきあんたはその道を進むなって言ったけど、とうの昔に歩いてる。もう引き返せない場所まで来てるんだ」
「遅くはない。今からでも、最善を進めばいい」
「ヴェロニカにも、似たようなことを言われたよ」
初耳だった。
お前とヴェロニカは、それほどしょっちゅう顔を合わせているのか――とっちめたい気持ちを抑え、問いかけた。
「ヴェロニカが好きか」
「うん。好きだ」
外の嵐の音が穴の中に響き渡る。
あまりにもまっすぐな回答に、むしろロスの時が止まった。
ミシェルは、目の前に大切なものがあるかのように柔らかく微笑んだ。
「笑いかけられると、心臓が止まりそうになる」
ロスもまた、ヴェロニカの笑顔を思い浮かべた。
あの無防備な表情が他の男の前にも表れると初めて知った時には、腸が煮えくりかえりそうになったものだ。
耐えきれず、ロスは笑った。
「ヴェロニカの顔に傷跡があるのを知っているか?」
「ううん」
ミシェルは首を横に振る。
「今はほとんど分からないが、治るのに、かなり時間がかかった。
治りかける度に、ヴェロニカが頬の傷を引っ掻くからだ。あいつは俺がそれに気付いてないと思っていたらしいがな。俺は当然知っていたが、あいつには知っていると言わなかった」
「なんでだよ? かわいそうじゃん」
「治らなければ、あいつはその傷を見る度に、俺のことを思うからだ」
あの傷は、ロスが付けたも同然だった。
ミシェルは戸惑ったような表情を浮かべる。
「それって普通の感情なのか?」
普通が何か知らないロスに、答えられるわけがない。ミシェルは興味を惹かれたらしく、体をこちらに向け、更に尋ねてきた。
「どんな感じだった?」
「何が」
「結婚した時だよ。オレには多分、一生訪れないから」
純粋な好奇心を前にして、ロスは当時を思い返す。
隣でヴェロニカが目覚め、ロスを見て微笑んだ朝のことを――。感じたのは、幸福と罪悪感だった。
「……何かが、激しく間違っている気がした。あいつが俺に笑いかけるなんて、あっていいはずがない、と思った」
「でも、ヴェロニカはあんたに熱烈に焦がれてる」
「ああ、およそ正しい感情じゃない」
清く正しく、間違ったことなど一つもしたことのなかった世間知らずの若い娘は、悪い男に騙されて、生まれて初めて間違った選択をした。
ミシェルはぽかんと口を開けた後で、そのまま言葉を発した。
「姉さんは――」
言いかけたミシェルは、自分の発言に驚いたように目を丸くし眉を寄せ、まるでロスを前に姉のことを口走ったのを後悔したような苦悶の表情を浮かべた後、意を決したように結局は最後まで言った。
「――姉さんは、本気であんたを好きだったんだと思うよ。あんたはどうだったんだ?」
含みなど無い、純粋な問いだ。
ロスは、慎重に言葉を選ぶ。
「俺の人生は、惨憺たるものだった。オリビアが光をくれたが、それもすぐになくなった」
オリビアによく似た、しかし彼女ではない瞳を見つめながら、答えた。
「だが好きだった。それは確かだ」
ミシェルは息を吐くと、前のめりだった体を引き、洞窟の岩壁に背を付け、天井を仰ぐように顔を上げた。
「……アーサーに初めて会ったのは、姉さんの墓の前だった。姉さんがいなくなって、生きる目的もなくなったオレに、アーサーは希望をくれた。暗い光だけど、オレにとっては、全てだった」
ミシェルの視線の先にあるのは黒い岩だけだ。
「平等で公平な社会。誰もが自分の幸福を突き詰めることができる世界。見ることさえ憚られるような夢を、あいつは平気で口にする。だから強烈に惹かれたんだ。だってオレみたいな人間も、幸せになって良いって、言われたような気がしたから。
でも、もう分かんないや。アーサーが夢見る世界を作るには、今日みたいなことが繰り返される訳だろ。あそこに、夢なんてなかった。あるのはただの血まみれの死体だけだ。正義や理想なんて、あんたの言うように、猛毒なのかもしれない。本当のことを知りたいんだ。アーサーは正義か。従うオレは、正しいのか……」
ほとんど独白のようだった。
少年にかけられた強固な魔法が、解かれつつあることをロスは感じた。
「他人は真実を教えてはくれない。誰にも支配されるな。自分の支配者は、自分だけだ」
「皆、狂ってるんだ。オレもアーサーもシャルロッテも、誰も彼も、おかしいんだ。まともなのは、あんたとヴェロニカだけだ。だけど、まともでいるには、まともな神経じゃ到底無理だ」
ミシェルは唇を噛んだ。
「姉さんが、ここにいてくれたらいいのに。そしたら、オレはどんなことにだって耐えられる。
……毎日、姉さんを思い出してた。でもこのところ、気がつくと一度も考えない日があるんだ。そうすると焦る。自分が裏切り者みたいに思えるんだ。忘れたくないのに」
「オリビアを忘れたことは一度もない。思い出さないのは、忘れることとはまた別だ」
そうかな、と言ってミシェルは膝を抱えた。
「変なの。なんでオレ、あんたとこんな話してるんだろう――」
それから、二人の間に会話はなかった。
横殴りの雪が、洞窟の外で暴れている。
(確かにな――)
と、ロスは思った。
今日だけで、一体何人殺したんだろうか。彼らにも人生はあっただろう。愛する人もいただろう。今日死ぬと、思っただろうか。
(――狂わない奴の方が、狂っているのかもしれない)
ミシェルは今日、人殺しになると考えただろうか。
洗脳を、解く必要があった。
ミシェルはアーサーに支配されている。時に暴力を用い、時に優しさを用い、巧みに利用可能な駒として育て上げられた。
敵を倒すには団結することだ。だが団結をする、そもそもの持ち駒が、ロスにはなかった。ならば、奪い取るまでだ。
今日吹雪くことは知っていた。
だからミシェルを連れてきた。雪に紛れ、偶然はぐれたのだといえば苦しいながらも言い訳が立つ。幸いミシェルは疲れている。この状況に、疑念はなさそうだ。ロスはミシェルと二人きりになる必要があった。
洗脳を解くのは容易いことではない。ならばその上から別の暗示をかけるだけだ。――お前は善人だ。正しいことをするべきだ、と。
アーサーへの疑念を抱かせ、こちらが味方だと思い込ませなくてはならない。食事の席で多少強引にでも洗脳の話を持ち出せたのはよかった。まずは一手だ。
オリビアが見ていたらきっと罵倒しただろう。大切な弟を利用するのだから。
だが何よりも、生かしたい女がいる。
そのためには、どんな悪魔にだって魂を売り渡す。とはいえ元々大した値はつかない、くず鉄のような命だろうが。
許しはいらない。どの道、自分が死んでも、行き着く先は彼女たちとは違う場所だろうから。




