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第六話  吹き抜ける風になりたい

 それは、三年生の卒業を翌日に控えた放課後だった。美術室には、久しぶりにたくさんの部員が集まっていた。これから美術部の恒例行事が行われる。卒業生をモデルにして、一年生がデッサンをするのだ。

 わたしたち一年生は、誰が誰をデッサンするのかくじ引きで決めた。それが一番公平なやり方だと思われた。

「…だめだ……」

 くじを引いた直後だった。わたしはすぐ隣でかすれた声を聞いた。見上げると、春樹の顔は蒼白だった。

「どうしたの」

 わたしは小声でわけを聞いた。

「……あの人は……描けないんだ…」

 春樹の持っていた小さな紙には、美月先輩の名前が書かれていた。長くてさらさらの髪と、甘い感じのするきれいな顔立ちに、わたしは初めて会った時からずっと憧れていた。あの先輩が描けないなんて、あり得ないことだった。

「あんなにきれいな人なんだから、春樹ならきっと……」

「きれいだから描けないんだよ」

 わたしは、春樹の両手が固く握りしめられていることに気づいた。その手は小刻みに震えていた。

 ああ、そうか。

 わたしは春樹の心を覗いた気がした。春樹が描けないのは、彼女があまりにも美しくて、その美しさに惹かれているからだ。

 わたしは黙ったまま、春樹の手の中にある紙を取り上げ、自分のものと取り換えた。

「麻奈……」

 わたしは、自分の唇に人差し指を当て、息だけで「しーっ」とささやいた。もしも『ありがとう』なんて言われたら、わたしはきっと立ち直れない。そう思った。



 気がつくと、七瀬の長いまつげが、わたしのすぐ目の前にあった「急にこんなこと聞いて、ショックだったよね。大丈夫?」

「……すみません、ちょっとぼんやりしちゃって」

 わたしは慌てて立ち上がった。壁の時計はもうすぐ九時になろうとしている。いつお客が来てもおかしくないだろう。

「…わたし…もう帰ります」

「ねえ、麻奈ちゃん」

 七瀬の目が、まっすぐにわたしを見た。

「花宮にはしばらくいるの?」

「……はい、多分……」

「こっちにいる間だけでいいから、うちで働かない?」

「え……?」

「学校さぼって故郷に戻ってきた後輩ちゃんを、元部長のわたしがほっとけると思う?『なにがあったか話しなさい』なんて言わないよ。でも、その気になったらいつでも相談できる所に先輩がいると、何かと便利でしょ」

 わたしは、体中の力が抜けて行くような気がした。わたしにとって、七瀬はいつまでも『部長』だった。強さと明るさを備えたリーダー。気がついたら引っ張っていってくれて、時々お説教したり、おごってくれたり、笑わせたりしてくれる存在。

少しの間だけ、彼女に甘えてもいいだろうか。あの頃と同じように。

 わたしの脳内を読みとったように、七瀬は大きくうなずいてみせた。

「よろしくお願いします」

 わたしは深々と頭を下げた。

「頭なんか下げないで」

 七瀬はそう言って、わたしの肩をたたいた。

「お店が忙しくってバイトを探してたっていうのも事実よ。だから、結構こき使っちゃうかも。ただし、しっかりバイト代は出すから安心してね」 

 七瀬は笑いながら片目をつぶった。『雪だるまの雪ちゃん』と呼ばれていた頃と同じ、可愛い笑顔だった。

「さあ、働かなくっちゃ。麻奈ちゃん、今日はなにか予定ある」

「いえ。なにもありません。今から働けます」

「よし。いい返事だね。じゃあ、まずこれをつけてくれる?」

 わたしは黒いカフェエプロンを受け取って、それを身につけた。腰のあたりできゅっと紐を縛ると、心まで引きしまったような気がした。



 三時過ぎにハロルドを出た。

 店は繁盛していて、客足はほとんど途切れず、わたしはほぼずっと立ちっぱなしだった。久しぶりに酷使した足は、ふくらはぎが張っている感じで、歩きだすとかかとが痛んだ。

 それでも体を動かしている間は、いろいろな事を忘れていられた。そして今、屋外で浴びる午後の太陽が、凍らせていた思いをゆっくりと解凍していく。

 この世から消えてしまった美月先輩。大学をやめた春樹。そして春樹は、いつのまにかあの家に戻ってきている。昔の友達に連絡をすることもなく、隔離された一人の世界に閉じこもっているのだろうか。

 わたしは、白く光る坂道を下り始めた。春樹のために自分がなにかしてあげられるとも思えない。それでも、行かずにはいられなかった。

 しかし春樹の家が近づいてくると、わたしは急激に速度を落とした。春樹が窓を開けていたら?外をのぞいていたら?家の前に立っていたら?

 傷心の春樹に、わたしはどんな言葉を掛けてあげられるのだろう。いや。こんな時、言葉なんて意味を持たないのかもしれない。開いたままの傷口は、どんな風に触れたとしてもきっと痛い。

 それでもわたしは、坂を下り続けた。わたしの中で小さな火が燃えていて、それがわたしを動かしているようだった。

やっと春樹の家が見える場所までたどり着いた時、わたしの心臓はどうにかなりそうなほど鳴っていた。わたしはそれを両手でぎゅっと押さえつける。おずおずと目を凝らすが、春樹の姿はどこにもなかった。

 わたしは少しだけ落ち着きを取り戻し、改めて二階のあの窓を見つめた。きっちりと閉まった窓。そのガラスを一枚隔てた向こう側に、きっと春樹はいるのだ。けれどこんなにも近い距離なのに、そこは遥かに遠い。夜空に浮かぶ星みたいだ。

 その時、屋根の上でになにかが動いた。わたしは思わずそれを目で追った。

―……猫…。

 それは、今朝わたしの家に来たのと同じ、真っ白な猫だった。大きさも同じくらいだ。よく見ると、首に巻かれたピンクのリボンがちらりと見えた。

―……リリィだ……。

リリィはあの窓の下に駆け寄り、愛らしい声で「にゃあ」と鳴いた。すると窓が少しだけ開き、リリィはその隙間にするりと入り込んだ。

―すごいな、リリィは。何億光年も彼方の星に、一瞬でたどりついちゃった。

 わたしはリリィがうらやましかった。まるで吹き抜ける風のようだ。あんな感じで春樹の前に立つことができたなら、どんなにいいだろう。

―でも……よかった。リリィが行ってくれて。

 少なくとも今、春樹は一人ではない。リリィと一緒だ。リリィは傷口に触れたりしない。ただ、そっと寄り添ってくれる。

「ねえ、リリィ。春樹を頼むよ」

 わたしは、絶対に聞こえない小声でそうつぶやくと、降りてきた坂を走って上った。

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