第七話 プチ同窓会
「来ちゃったあ」
家の前に立って、鞄の中で行方不明になっている鍵を探していると、突然後ろから抱きしめられた。わたしはぎょっとしたが、その声にはちゃんと心当たりがあった。
「理沙、突然すぎるよ。びっくりした」
「突然じゃないよ。何度も連絡したんだから」
「えっ」
わたしは鞄から携帯を出して調べてみた。確かに、理沙からの電話やラインがたくさん来ていた。
「ごめん。朝から携帯全然見てなかった」
「そんな女子大生いないよ。でも、そういうところが麻奈らしくていいんだけどね」
さらにぎゅっと抱きしめられて、胸が苦しくなる。わたしはじたばたして腕を振りほどき、ようやく後ろを振り返った。
「理沙、力の加減ってものが……」
その時わたしは、理沙が一人ではないことに気づいた。そのひょろりとした長身の男を、わたしはよく知っていた。
「友也……」
「来ちゃった」
友也は理沙の口調をまねてそう言った。同じ言葉なのに、わたしは少し動揺する。でも、ここは笑うところだ。
「それは女子のセリフだよ、友也」
「そっか。二人が楽しそうだったからつい」
友也が笑う。少し垂れ目がちの目が、笑うとさらに角度をつけてしまうのだけれど、わたしはこんなに優しく笑う人をほかに見たことがなかった。この笑顔にすがろうと思ったことが、昔確かにあったのだ。
「友也に麻奈が帰ってきてるって連絡したら、どうしても今夜会いたいって言うのよね。明日からしばらくバイトのシフトが詰まってるんだって。孝太は無理なんだけど、わたしも今夜なら空いてるし、急遽三人でプチ同窓会しようかなと思ってさ」
「うん。善は急げって言うだろ」
友也はそう言って、わたしの顔を覗き込んだ。少し心配してくれているように見えるのは気のせいだろうか。
友也には、わたしが悩みを抱えてここに戻ってきたことまで分かってしまったのかもしれない。昔から、よく気がつく人だった。わたしの春樹への想いも知っていて、それごと全部わたしを受け入れてくれようとした。本当に、わたしにはもったいない人だ。
「ってことなんだけどね、麻奈。今夜は空いてる?ああ、用事があったら無理しないで。またみんなの都合を合わせるからさ」
「ううん。大丈夫。今夜は暇だよ」
「ほんと?よかった」
「じゃあわたし、急いで準備してくるね。ちょっと待ってて」
わたしは二人を残して、家の中に入った。暗い家の中で、二人の残像だけがまだちかちかと光っているようだった。
◇ ◇
「連れて行きたい店があるんだ」
友也はそう言って、わたしたちを花宮大学のある通りに連れて行った。ここは花宮大の中でも、理系学科のキャンパスに近い。もう日が暮れていると言うのに、通りは大学生と思われる若い男女でいっぱいだった。
わたしが通っていた大学も、周辺はこんな感じだった。朝でも夜中でも、常に何割かの人が活動していて、町は眠らなかった。
その店は大学キャンパスの真裏にあった。店の上に『ラーメン道草』というのれんが下げられていたが、それはところどころ破れ、ひどく色褪せている。のれんの下のガラス戸は燻したようにくすんでいて、中の灯りがどんよりと見えた。
「え?ここに入るの?やめようよ」
店構えのおどろおどろしさに、理沙はあからさまな拒否反応を示している。
「ここ…大丈夫?」
わたしも遠慮がちに友也の袖を引いてみた。こういう小さな店は、一度入るとすぐに出るなんてことはできそうにない。しかし友也は、笑いながら肩をすくめた。
「心配いらないよ。僕の行きつけなんだから」
そこまで言われて、踵を返すわけにも行かなかった。友也が戸をガラガラと開けると、わたしたちも続いて中に入った。
「いらっしゃい」
声につられて、カウンターの中に視線を向ける。そこに立つ中年の男は、コック服やエプロンではなくなぜか白衣を着こんでいた。今手に持っている丼よりもフラスコやビーカーが似合いそうだった。
店は狭く、座るところはカウンターの前の椅子だけだ。それでも中はきれいに片付いていて、以外にも清潔感があった。
「友也。今日はお姫様を二人も連れてきてるんだね。珍しいじゃないか」
男は眼鏡を押し上げてにっこり笑った。
「たまには僕も、華やかに登場しようかと思いまして」
「なるほど。確かに十分華やかだよ」
わたしたちは空いていたカウンター席に並んで座った。男はすぐにおしぼりと水を置いてくれた。
「どうぞ」
「ありがとうございます、先生」
わたしも理沙も、『先生』という言葉に反応して顔を見合わせる。『先生』と呼ばれた男は、照れたような顔になって肩をすくめた。
「ほら、友也。ここでその呼び方はやめた方がいいって、言っただろ」
『先生』は真顔でそう言ったが、友也は頑なに首を振った。
「僕はそう呼びたいんですよ、田中先生。だって、今更『大将』なんて言うの、気持ち悪いじゃないですか」
「相変わらず強情だな」
口ではそう言ったものの、田中先生の表情は穏やかだった。とっくにそんなことはわかっていて、すべて受け入れているような顔をしていた。
「きょうはなにを食べるんだい?」
「もちろん、スペシャルラーメンです。それでいいよね?」
友也の迫力に負けて、思わずうなずき返す。
「スペシャルラーメンが三つだね……あっ、ちょっと待ってて」
先生は別の客に呼ばれて場所を移動する。その隙に、理沙が友也の方に身を乗り出して来た。
「あの人、先生なの?」
「うん。去年まで、理学部の教授だったんだよ。僕は『数理論理学』の授業を取ってた」
「なにそれ?聞いただけで頭が痛くなってくるよ」
わたしも理沙と似たようなものだ。高校の時に勉強していた数学よりさらに難しいことなど、教えられたところで頭に入るはずもなかった。
「で、そのすごい教授が、なんでラーメン屋さんになっちゃったの?」
「別にすごくはなかったんだけどね」
いつの間に戻って来たのか、わたしたちの目の前に白衣の先生が立っていた。わたしも理沙も、思わず顔を赤らめた。
「どうしても確かめてみたくなったんだよ」
「なにをですか」
理沙は赤面してもなお、質問をする意欲は失われていないようだった。その根性には頭が下がった。
「この手でも、現実のものをしっかりと作り出せるってことをね。数学ってさ、何と言うか、目に見えないものだろ?それを追い続けていると、どんどん不安になってくるんだ。頭の中にあることだけが現実で、この肉体がある世界は虚像なんじゃないか。そんな妄想に追い立てられてしまう」
「先生。難し過ぎてよくわかりません」
理沙が片手を上げて抗議する。わたしも隣で手を上げた。「わたしもわかりません」
「そうかい?つまり、『僕にも人を笑顔にすることができる』っていう証が欲しかったんだよ。それならわかってくれるかな」
先生はそう言うと、わたしたちの前に次々とどんぶりを並べた。スープから立ち上るいい香りが、体の中に染み込んでくるようだった。
「あ、わかる気がします」
理沙の反応が正直過ぎて、わたしも友也も笑ってしまった。
「今日は僕がおごるから、二人とも遠慮しないで食べてね」
友也はそう言うと、わたしたちにウインクをしてみせた。あまり慣れていない、不器用そうなウインクだった。
「……ありがとう」
「やった。じゃあ、いただきまあす」
わたしたちのやり取りを見守りながら、先生は笑顔でうなずいた。
「友也、今日は一段と男前だね。僕が教えた甲斐があったよ」
「僕は先生から『男前になるこつ』なんて教えてもらってませんよ」
「あれ、そうだったかな」
先生は軽口を言って笑っていたが、ふいにその笑顔を曇らせた。
「……友也、引っ越しても、たまにはこっちに顔を出してくれ。君が全然来ないと、僕も寂しくなってしまうからね」
先生の手が再びラーメンを作り上げ、カウンターの中を移動する。先生が行ってしまうと、わたしたちの間に微妙な空気が流れた。沈黙を破ったのは、やはり理沙だった。
「友也、いまのどういうこと?」
理沙の口調は少なからず尖っていた。友也は困った顔で苦笑いした。
「弱ったな。これからゆっくり話そうと思ってたのに」
「なに、友也。まさか学校をやめるつもり?」
理沙が詰め寄ったが、友也は慌てたように首を振った。
「違う、違う。理学部から法学部に転科するんだ。うちの大学は、文系と理系の校舎が三駅も離れてるからね。通学に無駄な時間を掛けるわけにも行かないから、引っ越すことにしたんだよ」
「友也、数学が好きだったから理学部の数学科に行ったんだよね」
わたしはためらいがちに口をはさんだ。
「うん、そうだよ。でもね、好きなだけじゃだめなんだ。数学科はね、数学的な理論を追及する科なんだ。残念ながら、僕はそんなタイプじゃなかった。今頃になって、そのことにやっと気づいたんだ。僕は、もっと人間の行動に沿った事が好きなんだよ。その点法律は、その裏に人間の心が感じられる。学問としてとても面白いし、将来的にも人間の生活に根差した場所で仕事ができる。自分で勉強してみたら、すっかりはまってしまった。こうなったら、本格的にやってみるべきだと思ってね。今から勉強し直すのは大変だと思うけど、それでもやってみたいんだよ」
昔から、友也は友達が多かった。きっと『人間』というものが好きなのだろう。彼にはそんな将来が似合っているのかもしれない。
わたしは、隣に座っている友也の横顔を盗み見た。彼の顔は、三年前よりもずっと大人びて見えた。
「ふうん。友也ものんきそうに見えて、いろいろ考えてるんだね」
理沙は割った箸を指先でもてあそびながら、そんなことを言った。きっとわたしと同じことを考えているのだろう。
「のんきそうって失礼だな。そういう理沙はどうなんだよ。留学の方は結局どうするって?」
「留学!?」
わたしは思わず声を上げた。一瞬、周りの喧騒が静かになって、わたしは身を縮めた。
「麻奈、そんなに大げさな奴じゃないよ」
理沙は慌てたようにそう言った。
「わたし一応英文科だからさ。三ヶ月とか半年とか、そういう短い期間で留学できるプランが大学で用意されてるわけ。一応、ツアーコンダクター目指してる身としてはさ、留学の経験とかって結構大事だと思うわけよ……でも、正直迷ってるんだ」
「……どうして……?」
理沙の目標はぶれていない。高校の頃から、理沙は『ツアーコンダクター』という職業に憧れていた。いろんな人と海外を旅して、その感動を分かちあうのだという。だから大学も、英語が身につくように英文科に進んだくらいだ。
そんな理沙が、目標にさらに近づくための『留学』をためらっている。わたしにはその理由が分からなかった。
「だよね、やっぱ変だと思うよね。でも、孝太がね……」
「孝太?」
ここで、なぜ孝太の名前が出てくるのだろう。わたしの怪訝な顔に、理沙が小さくうなずいてみせた。
「うん、孝太。あいつのことがちょっと心配なんだ」
「孝太が反対してるの?」
「そんなことはないんだよ。『すげえな、留学。行ってこいよ』とか言ってくれてる。でもね……あいつはいま、大学にも行かずにマンガを描いてるんだ。『在学中にデビューするんだ』って言って、必死になってる。でも漫画家って、がんばればなれる職業ってわけじゃないじゃない。今の時代にあってるかとか、運とかもあるしね。なんか、焦ってるのが見ててわかる。突然変なこと言ったり、自棄になったりするし……。わたし、不安なんだよ。今のあいつを、何カ月も一人にしとけない」
「……そうなんだ……」
美術部と漫画研究会を兼部していた孝太は、どちらかと言えば絵よりマンガを描く方を得意としていた。いつも肩の力を抜いて生きているように見えた孝太が、いまそんな状態に陥っているということがひどく意外に思えた。
「留学、行っていいと思うよ」
二人の会話に、友也が穏やかな口調で入ってきた。
「もし理沙が留学を諦めて、それが自分のせいだって分かったら、孝太はもっとつらくなるだろ?僕が孝太だったら、それは絶対に嫌だよ」
「そうかもしれないけど、でも……」
「孝太は、一度一人になってみるべきだと思う。そうやって自分をさらに追い詰めることで、人間は強くなるんだからさ。その機会を奪っちゃいけないんじゃないかな」
理沙はうつむいて唇をかみしめる。その目にはいつの間にか涙が浮かんでいた。
「友也は自分が強いからそんなこと言えるんだよ。孝太は友也みたいに強くない。もしわたしが留学に行って、その間に孝太がおかしなことしたら、そしたら友也責任とってくれるの」
「それは……」
突然、理沙が椅子をガタリといわせて立ち上がった。
「わたし帰る」
「理沙……」
理沙はわたしの方に顔を向けた。こわばった、蒼白な顔だ。笑顔をなくした理沙は、とても痛々しかった。
「麻奈、ごめん。……でも、わたしやっぱり帰るよ。これ以上ここにいると、本気で友也と喧嘩しそうだし。それに本当のところ、今も孝太のことが心配なの。あんまり一人にしておきたくない。麻奈、また連絡する。時々は携帯を見てよね」
わたしは、店を出ていく理沙を茫然と見送った。
理沙のおひさまのような笑顔の裏にも、悩みは隠されていた。そんなことに今更気づいた自分が、情けなくて仕方がなかった。




