第三話 見えない敵
その夜は、やけに静かだった。
風の音すら届かない。
閉ざされた空間の中で、息を潜めるような静寂。
お雪は、布団の中で目を閉じていた。
だが、眠れるはずもない。
昼間の出来事が、何度も頭をよぎる。
頬の痛みは、もう引いていた。
それでも、あの女の声だけは、耳に残っている。
「次は、あなたかもしれない」
——消える。
その言葉が、重くのしかかる。
隣を見る。
空いている。
昨日まで、お鈴がいた場所。
綺麗に整えられた布団が、そこにある。
まるで最初から、誰もいなかったかのように。
お雪は、ぎゅっと目を閉じた。
そのとき。
——コト。
小さな音がした。
思わず、目を開ける。
障子の向こう。
かすかな気配。
誰かが、立っている。
息を殺す。
音は、それきりしない。
ただ——いる。
確かに、そこに。
お雪は、動けなかった。
声を出したら、何かが終わる気がした。
時間が、ゆっくりと流れる。
やがて、気配はすっと消えた。
足音もなく。
最初から存在しなかったかのように。
——今のは、何?
誰だったのか。
何をしに来たのか。
考えようとした瞬間、ぞっとする。
“見られていた”。
その感覚だけが、はっきりと残っている。
翌朝。
何事もなかったかのように、日常は始まった。
女たちは、相変わらず笑っている。
美しく、穏やかに。
だが、その笑顔の奥に何があるのか——
もう、お雪には分かり始めていた。
朝の支度をしていると、不意に声をかけられた。
「昨日、よく眠れた?」
振り向くと、若い女が立っていた。
柔らかな表情。優しげな声。
初めて見る顔だ。
「……ええ」
少しだけ迷ってから、答える。
女は、にこりと笑った。
「それはよかった」
その笑顔は、あまりにも自然だった。
だからこそ——怖い。
「ここ、慣れないでしょう?」
「……はい」
「最初はみんなそうよ」
女は、少しだけ距離を詰める。
「でも、大丈夫」
優しく囁く。
「いい子にしていれば、何も起きないわ」
その言葉に、違和感が走る。
——何も起きない?
では、お鈴は?
あれは“何も”ではないのか。
問いかけようとして、やめた。
聞いてはいけない。
そんな気がした。
「あなた、名前は?」
「……お雪です」
「そう。いい名前ね」
女は微笑む。
「私は、お咲」
その名を、心の中で繰り返す。
お咲。
この人は——味方なのか?
分からない。
分からないから、怖い。
「ねえ、お雪」
お咲が、ふと真剣な目になる。
「誰を信じるか、ちゃんと選びなさい」
空気が変わった。
「ここではね——」
一瞬の間。
「間違えると、消えるの」
背筋が凍る。
その言い方は、あまりにも自然だった。
まるで、当たり前のことを話すかのように。
「……どうして、そんなことを……」
「知っているからよ」
お咲は、静かに言った。
「見てきたもの」
それ以上は語らない。
だが、それで十分だった。
この女もまた——
この場所の一部なのだ。
「気をつけて」
最後にそう言って、お咲は離れていく。
再び、柔らかな笑顔に戻っていた。
お雪は、その背中を見つめた。
信じていいのか。
信じてはいけないのか。
分からない。
誰も、信用できない。
ふと、昨夜の気配を思い出す。
あれは、誰だったのか。
もしかして——
今、笑っている誰かが。
何気ない顔で、隣に立っている誰かが。
あのとき、そこにいたのかもしれない。
そう思った瞬間。
すべてが、怖くなった。
笑い声が響く。
優しい声が交わされる。
その一つ一つが、偽物に見える。
ここでは、誰もが仮面をかぶっている。
本当の顔は、誰にも見せない。
見せた瞬間——
消されるから。
お雪は、そっと視線を落とした。
足元だけを見て歩く。
余計なものを見ないように。
余計なことを考えないように。
だが、それでも。
背後に、誰かの気配を感じる。
振り返らない。
振り返ったら、何かが壊れる。
そんな気がした。
ここは——
敵が見えない場所。
そして。
味方も、存在しない場所。
——大奥。
すべての女が、誰かの敵になる世界。




