エピソード4.5:里穂と仁義の楽しい試験勉強
土曜日の午前中、時刻は10時30分を過ぎたところ。
休日用の身支度を終えた里穂は、自宅1階のリビングにあるダイニングテーブルに教科書とノートを広げ、30分ほど集中して勉強を続けていた。髪の毛はいつもより低い位置、首の下でラフに1つにまとめ、少し首元がくたびれたグレーのロングTシャツと、中学校時代のジャージに足元は裸足という、「今日は外に出ないぞ!!」と宣言しているような服装である。
広げているのは数学A。数学Ⅰと並んで、里穂が若干苦手意識を持っている教科である。週明けのテスト初日の1限目、と、入学したばかりの1年生の心を全力で折りにきた時間割に、教諭側の悪意をヒシヒシと感じているところだ。
4人がけのテーブルには、里穂の他にもう1人。彼女の目の前に座って、同じく学校からの課題をこなす柳井仁義がいる。
シルバーの髪の毛には少し寝癖が残り、今日は眼鏡をかけてはいない。黒いTシャツと、トレーナー地のグレーのズボン、足元はやっぱり裸足。彼からもまた、今日は一歩たりとも家の外へは出ないぞという強い意志を感じる。
小学生の頃から――出会って一緒に暮らすようになってから、2人はこうしてリビングで宿題やテスト勉強をしてきた。それは単純に、分からないことがあれば里穂が仁義から教えてもらえるということもあるけれど、里穂は誰かが見ている方が集中力を発揮する。1人だとどうしても甘えがでることがあるため、仕事や地域の行事などで忙しい両親にかわり、仁義が里穂の監視役として抜擢された、という事情もあったりする。
おかげで里穂は宿題を忘れなくなり、テストでもそこそこの点を取れるようになり、憧れていた私立高校にも合格することが出来た。
そんな里穂の両親は、本日不在。県北にある透名総合病院へ、里穂の祖母――里穂の母親の母親――のお見舞&荷物の入れ替えに出かけていた。里穂が住んでいる石巻から病院がある登米市までは、車で約1時間程度かかる。9時過ぎに出発して、様子を見たり頼まれごとをすませたりして、食事を食べて帰ってくるため……帰宅は早くても15時過ぎくらいだろう。それまではこの家で2人きりだが、こんなシチュエーションは日常茶飯事なので、2人は特にドキドキもワクワクもすることなく、ただ、目の前の課題を何とかすることに集中していた。
「……あー、わっかんないっすー!!」
そんな集中力が途切れた里穂が、ノートを教科書ごとひっくり返しそうな勢いで大声を出す。
目の前でビクリと肩を震わせた仁義は、「またか」という顔で、里穂をジト目で見つめた。
「里穂……もうちょっと静かに叫んでくれない?」
「静かに叫ぶという意味が分からないっす!! そして目の前の問題も分からないっす!!」
そう言ってシャーペンを持て余す里穂に、仁義は一度ため息を付いてから……少し身を乗り出して、彼女のノートを覗き込んだ。
「どこ?」
「ここっす!! この問題が分からないっす!!」
彼の位置から見ると、問題文は反対方向になっている。仁義は注意して問題文を読み……「ああ」と、どこか納得したような声をもらした。
「応用問題だね。里穂、本当に基礎しか出来てないからなぁ……」
「さり気なくヒドいことを言われたっす!? じゃあ、ジンにはこの難問が解けるっすか!?」
ノートと教科書を彼に向けて正しくセットし直した里穂が、試すような瞳で彼を見つめる。
こう言われると、ちょっと頑張っていいところを見せたくなるわけで。
「じゃあ、この問題を僕が解けたら……今日の昼食は里穂が作ってね」
「望むところっす!!」
鼻息荒く首肯する里穂に対し、仁義は口元に不敵な笑みを浮かべて――
「……里穂」
「どうしたっすか?」
「……ゴメン、これ、僕も分からない」
10分後、健闘むなしく白旗をあげた仁義に……里穂はどこか勝ち誇った顔で、離れた場所に置いておいたスマートホンを手繰り寄せる。そして、無料通話アプリを起動すると、テレビ電話のモードにして、誰かを呼び出した。
「――あ、うち兄おはようっすー!! ちょっと数学で教えて欲しいことがあるっすけど」
元気に手を振る里穂に、画面の向こうにいる統治が訝しげな顔になる。
元々自頭が良い統治は、前途ある若者の家庭教師として、度々里穂に呼び出されることがあるのだ。
「仁義がいるんじゃないのか?」
「え、いるっすよ? ただ、2人してお手上げの問題なんっすよ」
里穂が肩をすくめると、統治もまた浅く息をつき……彼側のスマートフォンをどこかに固定すると、ノートとペンを用意した。
「問題を見せてくれ。やってみるから」
「ををっ!! さすがうち兄、頼りになるっす!!」
そう言って仁義にスマホを手渡し、2人にとっての難問が記載されている教科書を、統治に見えるようにカメラへ向けてかざした。
「里穂、もう少し近づけてくれ」
「了解っす!!」
「里穂、ちょっと近すぎる」
「分かったっす!!」
そして、こんなやり取りが数回続いた結果……。
「……問題をカメラで撮影して送ってくれ。解答が出来たら連絡する」
そう言って統治は通話を切った。
2人で協力して、統治へ写真を送信した後……里穂が立ち上がって、仁義に向けてこう宣言する。
「うち兄の答えが出来るまで、ちょっと休憩っす!!」
すっかり集中力が切れてしまった里穂に、間髪入れずに仁義がジト目を向ける。
「それまで他の問題をやったらいいんじゃない?」
そんな彼の提案に、里穂は真っ向から反論した。
「嫌っす!!」
「そんなはっきり言わなくても……」
「だって、今日は9時過ぎから頑張ってるっすよ?」
「確かに、9時過ぎにはココにいたけど……最終的に勉強を始めたのは10時からでしょう?」
「それは……とにかく休憩っす!! 糖分取らないと無理っす!!」
里穂は仁義から逃げるようにリビングの引き戸をあけて、隣にあるキッチンへ引っ込んでしまった。
仁義はそんな彼女の背中を見送りつつ……ため息をついて、課題が途中でストップしてしまっている自分のノートに、シャープペンシルを挟んでパタンと閉じる。
そして立ち上がり、キッチンにいる里穂に追いついた。
「ジンは何か飲むっすか?」
キッチンの中央にある作業台を兼ねたテーブルで、お湯を注ぐとすぐに飲めるスティック型の飲み物を持っていた里穂が、追いついた彼に問いかける。
仁義は一瞬思案して……いつもの優しい笑顔で返答した。
「じゃあ、里穂と同じミルクティーで」
数分後、パステルカラーのオレンジとブルーという色違いのマグカップを持った2人は、いつもの食事のときのように、里穂は先程の自分の位置、その隣に仁義が腰を下ろした。
「あつっ……」
カップの中身をすすってビクリとする里穂に、仁義は「気をつけてね」と声をかけつつ、自分は火傷を回避するために息を吹きかける。
そんな彼を里穂は横目で見やると……ボソリと、呟いた。
「ココちゃん……うち兄に必要とされてないって、ずっと思ってたっすね……」
それは一昨日、里穂が初めて触れた、心愛の小さな背中には重すぎる苦しみ。
「心愛は……お兄様にとって、必要ないんだよねっ……!!」
彼女は『縁故』として、兄に匹敵するほど類まれ無い才能を持っている。それは同じ『縁故』である里穂や仁義もよく分かっていた。ただ、彼女が抱えるトラウマが重いため、それらが解決してから、徐々に修行を始めるものだと思っていたけれど。
心愛はずっと1人で焦って、誰にも言えずもがいて、苦しんで……ずっと、泣きたかったんだと知った。
それを気付けなかった統治や家族に若干の苛立ちさえ感じるが、心愛の性格やあの家の体質を考えると、とても、家族ばかりを責める気にはなれない。
里穂から何となく話を聞いていた仁義もまた、ミルクティーを一口すすって……ため息をついた。
「そりゃあ、僕と里穂に年甲斐もなくイヤミを言う大人が大勢いる場所だよ? 心愛ちゃんに嫌なことをいう大人がいて、心愛ちゃんが誤解したとしても……不思議じゃないよ」
里穂の母親・理英子が選んだ伴侶・陽介は、名杙の一部が――彼女の兄でもある慶次も出入りしている派閥が――あてがおうとしていた男性とは異なっていた。
その当時はまだ、統治の父親が当主になる前だが……実権はほぼ統治の父親である現当主・領司が握っているようなものであり、その妹は、そんな兄に可愛がられつつ、はっきりと物事を言える強さを持っていた。
そんな性格の女性が他人の推薦する男性と結婚するとは到底思えないのだが……当人の意志を無視して話だけが先行し、ついに、互いに顔を合わせることなく結納の日取りが決まってしまったそうだ。
これにブチ切れた理英子は、陽介と駆け落ち同然で家を飛び出す。その後は兄の顔を立てるために『縁故』として石巻に窓口を開設し、主に、石巻以北の三陸地方や県北の登米市、栗原市などを担当してきた。
しかし、里穂が生まれてしばらくは『縁故』としての仕事など開店休業状態が続く。陽介は石巻の水産加工会社で働き、理英子はスーパーでパートをしつつ、里穂から『縁故』としての能力が消えないように、時折交代でトレーニングをする程度だった。
そんな時、仁義が里穂の家にやって来た。
見た目だけで判断すると、とても、日本人とは思えない、薄幸の美少年。
2人は話し合い、子ども2人はなるだけ名杙から遠ざけようとしたのだが……やはりどうしても、年に数回は顔を出さなければならない時が訪れる。基本的な折衝には理英子が対応し、陽介は里穂と仁義から離れずについていたのだが……そんな3人とすれ違った小学校低学年の心愛が、主に仁義を見て、侮蔑を込めてはっきりと呟く。
「……変な頭。呪われてるの? 心愛にうつさないでね」
刹那、仁義が小さな体をビクリと震わせたのが分かった。慌てて陽介が叱ろうと心愛の方を見ると、彼女は親類と一緒に移動を続けており、3人に対して完全に背を向けていた。
これは、仁義の存在を異質だと感じている一部の大人が、「得体の知れない仁義は呪われているに違いない」という言葉に端を発している。統治は「そんなことあるわけないだろう」とバッサリ切り捨てた噂話だが、まだ幼い心愛にしていれば……今まで見たことのない外見の少年に驚き、恐怖を感じてしまったとしても、不思議ではない。
さすがにこの物言いに腹を立てた陽介は理英子に事情を説明し、2人を連れて一足早く名杙本家を後にした。
その帰りの車の中、後部座席で流石に少し落ち込んでいる仁義に……隣に座っている里穂が、いつもと変わらない、明るい声で話しかける。
「ジン、さっきは泣かなくて偉かったっすね」
「泣かないよ……それに、言われ慣れてるから」
どこか自嘲気味に呟く仁義の頭に、里穂がそっと右手を伸ばす。そして、少し乱暴に撫で回した。
「うわっ!? 里穂、何を……?」
突然の攻撃に目を閉じた仁義は、里穂の手が自分から離れたことを感覚で確認して、恐る恐る目を開き――驚きで、目を見開く。
彼女の大きな両目には、大粒の涙が光っていた。
「里穂は……里穂は、ジンのこの髪の毛、大好きっす。綺麗で、キラキラしてて、サラサラしてて……でも、わしゃわしゃーってするとわしゃわしゃーってなって、だからっ……!!」
里穂は目尻の涙を強引に手で拭って、改めて、彼に笑顔を向けた。
「だから、里穂にはうつしてくれていいっすよ!! ジンと同じ髪の毛の色になって、学校のみんなに自慢してやるっす!!」
はっきり宣言する里穂に、仁義は泣きそうになる自分を必死で抑え、頑張ってぎこちない苦笑いを浮かべて……こう、告げる。
「それは……残念だけど、無理だよ」
こうして、成長するに連れて更に絆を深めていく里穂と仁義、名倉家の4名にも――あの災害が、襲いかかる。
4年前の3月上旬、まだ時折粉雪が降るような寒い時期に、宮城県沿岸を含む日本の太平洋側は、世界規模の災害の『とばっちり』を受けたのだ。
その日の明け方、ほぼ地球の反対側である南米で、大規模な地震が発生した。その地震の影響で津波も発生し、南米の海岸沿いを呑み込んでいく。更に津波は海を伝播していき、オーストラリア、ハワイ等を経て日本に到達したのだ。
海沿いに位置する石巻市はその被害も甚大で、殊更、漁業や水産加工業に関するダメージは凄まじいものがあった。船はもとより、養殖の施設も、毎朝活気にあふれていた市場も、海沿いに並ぶ倉庫も、新鮮な魚介類を加工する会社も……人々が生きていくための外貨を稼ぐ手段を、『招かれざる客』は一瞬で飲み込み、絶望的に破壊してしまったのだ。
陽介が働いていた工場も、基礎を残して跡形もなく破壊されてしまった。幸い、工場を内陸に移設することで雇用が守られたこと、里穂達の自宅は石巻でも内陸の方だったので無事だったが……それでも、多くの会社が倒産したり、廃業したりしていた。
また、彼女たちの通う学校の体育館や校舎が臨時の避難所となり、校庭に仮設住宅が建築されたりして、遊ぶことが出来なくなったり……と、慌ただしい日々を過ごしたことをはっきりと覚えている。
そして、三陸地方を管轄している名倉家が、沿岸部の『遺痕』対策の陣頭指揮を取ることにもなったりして……この4年間、あっという間に過ぎてしまった。まだ4年か、と思うほど、やり残している課題が山積しているのが現実だ。
ただ、その中で、名倉への応援&実績作りとして手伝いに来ていた統治と政宗との出会いは、2人の中でも印象に残っていた。特に統治は名杙本家から関わるなとやんわりと釘をさされていたはずなのに、気さくで仕事のできる友人を引き連れて、随分と理英子の助けになってくれたものだ。
そして今、その輪の中に……ようやく、心愛が加わろうとしている。
仁義が少し物思いにふけっていると……里穂が、そんな自分をどこか心配そうな瞳で見つめていることに気づいた。
「里穂?」
「あ、いや、えっと……ジンも、辛いこと思い出してたのかなって……」
そう言って上目遣いで見つめる里穂に、仁義はカップを机上に置いてから、優しい笑顔で首を横に振る。
「ううん、僕はもう大丈夫。それに、昨日の2人の様子を見ていると、ある程度大丈夫かなって思ってるよ」
こう言うと、里穂がどこか安心した表情で同意した。
「そうっすよねー。うち兄は政さんとどんな話をしたのか知らないっすけど、ココちゃんは自分のやることを確認して、ようやく進む方向が分かったんじゃないかと思うっす。ジン、明日は頑張ってくるっすよ!! 私は家で大人しくテレビを見てるっす!!」
「勉強して、って……一応突っ込んだ方がいいの?」
ビシっと敬礼する里穂にジト目を向けつつ、仁義は息をつき……目線を少し、遠くへ向ける。
心愛にも、政宗にとってのユカ、統治にとっての政宗、そして……仁義にとっての里穂のような存在がいれば、こんなにこじれることはなかったんだろうなぁ、と。
「ジン? ジーンっ?」
我に返ると、隣の里穂が訝しげな目でコチラを見ていた。
「あ、ゴメン。どうかした?」
素直に聞いていなかったことを白状すると、里穂の頬が不機嫌に膨らんだ。
「もー、ちゃんと聞いてて欲しいっすよー!! うち兄のお見合いのことっす!!」
「あぁ、櫻子さんだよね」
2人は両親のサポートや御見舞などで透名総合病院へは何度か行ったことがあり、櫻子とも面識があった。
仁義はその時に出会った穏やかな女性を思い浮かべ、まぁ、統治とは気が合いそうだよなという結論に達する。
「確か今は音楽療法士として、実家の透名総合病院を含めた色々な病院で働いているんだっけ。『縁故』じゃないっていうのを気にしなければ、手に職がある聡明な人だし、統治さんも物静かな人だから、相性は悪くないんじゃないかな?」
こう言ってミルクティーを飲む仁義に、里穂が「本気でそう思ってるっすか?」という訝しげな顔で問いかける。
「ジン……櫻子さんが苦手なもの、忘れちゃったっすか……?」
「苦手なもの? えぇっと…………あ。」
仁義がその詳細を思い出して青ざめた次の瞬間、里穂の携帯電話に、統治からの着信が入ったのだった。
里穂と仁義、そして、その過去に関するエピソードを少しだけ掘り下げました。
今回の最初の方で、心愛が仁義に「過去にひどいこと言った」と気にしているのはコレです。当時の心愛は『痕』に襲われたあとで、傷心&超絶甘やかされていた&根は純粋なので、大人の妄想をうっかり信じて「自分も呪われる!?」と怖くなってしまったのでした。
しかし……里穂、天使すぎやしませんかね……。ちなみに、里穂と仁義の出会いや、婚約に至る経緯は、第4幕(来年の前半に公開したい)でガッツリ掘り下げたいと思っています。彼らの生家を石巻にしたのは、災害や復興についてもある程度しっかり描写しておきたい、という、霧原なりの覚悟もあります。
まぁ……その前に第2幕、続く第3幕ですけどね!!




