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食いついた魚

ご覧いただきありがとうございます。

本作品は毎週火曜日更新予定です。

『ねぇ、聞いた?

また“出た”んですって』


『また? 私、今週当番なのに。

……どうしよう』


ヴァルディス公爵家にある、

使用人用の食堂。


そこでは、

昼夜を問わず、

大勢の人間が出入りしていた。


『やっぱり、

あの噂って本当だったのかな』


ポツリと、

彼女は呟いた。


『噂って?』


それを聞いた相手は、

不思議そうに目を丸くしている。


『あんた知らないの!?』


驚きの声を漏らす彼女は、

一度唇に力をこめ、辺りを見回す。


そして、

向かい合わせの相手に手招きをして、

そっと耳元に顔を寄せた。


『実はね。

執事長が──』


──ガチャリ。


扉が開く音に、

二人の目は、自然と釘付けになる。


姿を現したのは、

執事長だった。


噂を口にしていた方の肩が、

ビクッと跳ねた。


『『執事長。お疲れ様です』』


彼が二人の方を向いた時には、

二人は椅子から立ち上がり、

笑顔で挨拶していた。


「……あー確かに疲れたな。

誰かマッサージしてくれると、

助かるんだが」


声だけなら、

信じたかもしれない。


だが、

執事長の舐め回すような視線に、

二人の血の気が引いていく。


『す、すみません。

私たち、メイド長に仕事を言いつけられているので……失礼いたします!』


そう叫んだ彼女は、

もう一人の手を引っ張り、

逃げるように食堂を後にした。


執事長は、

無言で後ろ姿を見送ったあと、

小さく舌打ちをする。


ここ最近、

イラつくことばかりだった。


メイドに手を出しすぎて、

領外まで噂が広まったと、

仮面野郎に注意されてしまった。


横領に気づかれなかったのは、

不幸中の幸いだったが……あの女。


バレたらまずいから、

しばらく我慢しろと言っているのに、

ギャーギャー騒ぎやがって。


脳裏に浮かんだのは、

メイド長ベリンダとのやりとり。


一瞬で頭に血が上り、

衝動のまま、右手の拳をテーブルに叩きつける。


大きな音が食堂内に響き渡り、

そこにいた人間は一斉に静まり返った。


周囲から向けられる訝しげな目。


耐えきれなくなった執事長は席を立ち、

逃げるように、その場を後にした。


食堂から離れ、

感情のままに歩き続ける。


それでも、

苛立ちは増していくばかりだった。


「くそっ」


メイド長──ベリンダには、

散々貢いでやった。


なのに、

俺が金にならないと思った途端、

お飾りの公爵令嬢に乗り換えやがった。


金なんて、

一欠片も残らないほど搾り取っているはずなのに。


いくら考えても、

答えなんて出ない。


胸の奥に、

不快な熱がこみ上げた。


『えぇ!!

メイド長と執事長って、

そういう仲なの!?』


『しぃー!』


視界の先に、

先ほどのメイドたちが、

小声で会話している姿があった。


『でも、あの二人。

そうは見えないけど?』


『なんでも、

お嬢さまに気に入られたらしくて、

今じゃ、乳母のようなこともしてるらしいわよ』


噂好きのメイドは、

人の通りがないせいか、

周囲を確認せず、嬉々として語っている。


それを聞いた瞬間。


執事長の頭の中で、

何かが切れる音がした。


「お前らぁぁあ!

喋ってないで働けぇ!!」


『きゃっ!』


執事長は怒声と共に、

噂好きのメイドを蹴り飛ばして、

廊下の先へと消えていった。


『大丈夫?』


『うん』


聞き役のメイドが駆け寄っても、

彼女は顔を苦痛に歪めて、立てずにいた。


『そういえばさ、

さっき、執事長のこと。

何か言いかけてたけど、もしかして暴力男……とか?』


聞き役のメイドが、

不安げな表情で尋ねる。


『……ううん』


噂好きのメイドは、

一拍置いて、こう告げた。


『メイドを、

殺したことがあるんだって』



時間が流れ、

屋敷は静寂の闇に包まれていた。


……さま。


……アモリスお嬢さま。


誰かが呼んでいる。


導かれるように意識が浮上すると、

そこには、一人のメイドがいた。


彼女は両膝をつき、

私と目線を合わせる。


目の前にいるのに、

相手の顔だけが、ぼやけて見えない。


『お嬢さま。

私、今日でお屋敷を辞めるんです』


その言葉で思い出した。


これは、夢ね。


『最初は家族のために、

働きにきたんです』


えぇ、知ってるわ。


下のきょうだいたちが、

栄養失調で病気になって、

大金が必要になってしまった。


『どんな苦労も、

家族のため……そう、思ってました』


彼女は、

そこで言葉を詰まらせる。


『私、逃げたんです』


その声は、

震えていた。


『ずっと家族を言い訳にして、

逃げ続けた……だから』


そこまで言って、

彼女は自分のお腹に、そっと手を当てる。


『私はもう、幸せになれないけど。

お嬢さまは、まだ子どもです』


膝に置かれた私の手を、

彼女は両手で優しく包み込んだ。


『大きくなったら、

きっと素敵な人と巡り会えます。


だから、諦めないで。

アモリスお嬢さまは──幸せになって』


その言葉を聞いた瞬間、

私は現実へ引き戻されるように目を開いた。


真っ暗な部屋。


ぼやけた視界の端に、

人影がひょこりと現れる。


「よう。

ずいぶんと、うなされてたな」


カインだ。


……最悪。


私はのそりと身体を起こし、

片手で額を押さえた。


指先に、

じっとりと汗が滲む。


「……趣味の悪い起こし方ね」


「起こしたわけじゃねぇよ。

毎日呼びつけてんのは、お前だろ」


カインは肩をすくめると、

それ以上は深く聞かなかった。


代わりに、

懐から小さな包みを取り出し、

私の目の前に放る。


「ほら。

頼まれてたもんだ」


投げ出された包みを開くと、

そこにはベリンダが欲しがっていた品が入っていた。


私はそれを摘まみ上げ、

暗闇の中で、天井へとかざす。


わずかな月明かりを受けて、

小さな宝石のついたピアスが淡く光った。


「状況はどうなんだ、嬢ちゃんよ」


カインは壁に背を預け、

不機嫌そうに腕を組む。


「このままじゃ、

屋敷の金を手に入れる前に、

俺の方が破産しそうなんだが」


「知らないわよ」


私はピアスから目を離さず、

淡々と返した。


カインは額を押さえ、

深いため息をつく。


「お前なぁ……

雇うって言うなら、

普通は雇い主が金を払うもんだろうが」


「何を言っているの?」


私はきょとんと首を傾げる。


「三歳児の首を絞めて殺しかけたんだから、

このくらい支払いなさいよ」


「ぐっ……」


カインは言葉に詰まり、

気まずそうに視線を逸らす。


「それに、私は三歳児よ。

財布なんて持ってるわけないじゃない」


「そこだけ三歳児を盾にするな」


「安心なさい。

今にお金持ちにしてあげるわ」


「その前に俺の財布が死ぬんだが」


その様子に、

私は小さく息を吐いた。


「心配しなくていいわ」


摘まんでいたピアスを、

そっとベッドの上に置く。


「魚はもう、

餌に食いついているもの」


「……だったら、

さっさと釣り上げてくれよ」


「そのつもりよ」


そう言ったのに、

カインはじっと私を見つめていた。


「なんだよ。

今日のお前、なんか怒ってねぇか?」


「怒ってないわ」


反射的に答えた瞬間、

カインの口元がにやりと歪む。


「へぇ?」


彼は面白がるように身を乗り出し、

私の眉間を指先でつついた。


「よく言うぜ。

三歳児が、こんなに眉間に皺寄せて」


「怒ってない!」


鬱陶しくて、

その手を払い除ける。


カインは低く笑った。


……あれ。


こういうやり取り、

前にもあった気がするわね。


私はベッドから降り、

机へ向かった。


引き出しを開け、

中から真新しいレターセットを取り出す。


白い紙。


小さな封筒。


それを片手に持ち、

私はゆっくりと振り返った。


「そろそろ、

食いついた魚を釣り上げましょうか」


暗闇の中で、

自然と口角が吊り上がる。


「餌に群がった魚が、

どうなっていくのか……楽しみだわ」

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