腐った執事長の朝は早い
ご覧いただきありがとうございます。
本作品は毎週火曜更新予定となっております。
今回から屋敷内の問題に少しずつ踏み込んでいきます。
楽しんでいただけると嬉しいです。
──執事長の朝は早い。
誰よりも早く起き、
日が昇る前に動き出す。
屋敷に仕える者たちを束ね、
時には主人の代理として、
屋敷を動かすことさえある。
まして公爵家ともなれば、
求められるものは多い。
礼儀。
知識。
判断力。
人を束ねる統率力。
そして何より、
屋敷の隅々まで気を配る責任感。
本来ならば、
執事長とはそういうものだ。
だが、この男は違った。
公爵家に仕える執事長といえども、
与えられる部屋は、
貴族の私室ほど広くはない。
それでも一般の使用人部屋と比べれば、
十分すぎるほどの広さがあった。
重厚な机。
壁際に置かれた衣装棚。
磨かれた姿見。
そして、
一人で使うにはやや大きすぎる寝台。
窓には厚手のカーテンがかかっている。
閉じきれていない隙間から覗く光は、
夜明けの淡い色ではない。
すでに太陽は昇っていた。
薄暗い室内に、
昼の光が細く伸びている。
その先にある寝台には、
一人の女が眠っていた。
乱れたシーツに身を沈め、
気だるげに横たわっている。
静まり返った部屋の中。
姿見の前に立つ男だけが、
ゆっくりと動いていた。
皺一つない執事服。
白いシャツ。
黒の上着。
男はそれに袖を通し、
きっちりとタイを結ぶ。
その所作だけを見れば、
いかにも公爵家に仕える執事長らしい。
無駄のない、
洗練された動き。
だが、鏡に映る男の目には、
屋敷を支える者の責任感など欠片もなかった。
あるのは、
退屈そうな倦怠と、
己の立場を当然のものとして疑わない傲慢さだけ。
男は最後に手袋をはめると、
寝台で眠る女へ、ちらりと横目を向けた。
そして、
小さく舌打ちをする。
そこに浮かぶのは、
愛情でも情欲でもない。
ただ、飽きたものを見るような、
忌々しげな表情だった。
だが、
動作は最後まで乱れない。
背筋を伸ばし、
衣服の乱れを指先で整えると、
男は静かに扉へ向かった。
軋む音ひとつ立てぬよう扉を開け、
部屋を出たあとも、
乱暴に閉めることはない。
──バタン。
鳴ったのは、
ごく普通の音だけだった。
廊下には、
すでに明るい光が満ちている。
男は何食わぬ顔で歩きながら、
退屈そうに息を吐く。
最近の女は、
どいつもこいつも同じだ。
媚びた声。
派手な化粧。
こちらの顔色ばかり窺う、
つまらない視線。
──飽きた。
それなら、
また別のものを探せばいい。
あの時のように。
金に困っていて、
まだ人を疑うことを知らない娘。
……ああいう顔は、
悪くなかった。
思い出すだけで、
自然と口角が吊り上がる。
確か、名前は──
そこまで考えた時だった。
二階の廊下に並ぶ窓。
その向こうに、
ひっそりと佇む、馬小屋が見えた。
男の足が、
ぴたりと止まった。
整っていた表情が、
わずかに歪む。
「チッ」
忌々しげに舌打ちを落とし、
男は何事もなかったかのように歩き出した。
一方その頃。
私の部屋では、
非常に穏やかな笑みを浮かべたカーズが立っていた。
にこにこ。
それはもう、
見事なまでに、にこにこと。
対する私は、
そっと視線を逸らしている。
背中には、
冷たい汗が流れていた。
私たちの間に、
沈黙するベッドが一つ。
……正確には。
つい先ほどまでナイフが突き刺さっていた跡を、
堂々と残したベッドが一つ。
「アモリスお嬢さま」
「はい」
「これは何ですか?」
カーズの声は優しかった。
優しすぎて、
逆に逃げ場がなかった。
私は一度ベッドを見て、
それから、ゆっくりとカーズを見上げる。
「……あなが、あいたベッドです」
……私、
なんで敬語なの?
「それは見れば分かります。
なぜ、穴が、開いているんですか?」
笑っている。
笑っているのに、
目が全然笑っていない。
問い詰められるほど、
目は勝手に横へ逃げていく。
「えっと……
それは、その……」
言い訳を探す。
必死に探す。
けれど、
ちょうどいいものが見つからない。
だって、
どう見てもナイフの跡。
……いや、違う。
ここで諦めてはいけない。
私はアモリス。
三歳児。
多少おかしなことを言っても、
きっと許される存在。
「えーっと……
まりょくぼーぞー?」
「魔力暴走」
「そう。
ねぼけて、ちょっとまりょくが……
どたんばたんしちゃったみたいなの」
できるだけ可愛らしく、
小さく首を傾げる。
これで押し切れる。
そう思った、が……
カーズの笑顔が、
すっと消えた。
「本気で言ってます?」
「ごめんなさい」
即座に謝ると、
カーズは深いため息をついた。
それから静かに私の前まで歩み寄り、
片膝をつく。
いつもの柔らかな空気は、
もう消えていた。
「アモリスお嬢さま。
俺は、あなたの護衛騎士です」
真剣な瞳が、
まっすぐに私を見つめている。
「何かあったなら、頼ってください。
主に迫る危険を払うのが、
俺の使命なんですから」
その声に、
胸がちくりと痛んだ。
……少しだけ、
悪いことをした気がする。
いや、少しじゃないかもしれない。
私は視線を落とし、
小さく口を開いた。
「ごめんね、カーズ。
なにかあったら、すぐによぶから」
そこで一度、
言葉が詰まる。
「……きらいにならないでくれる?」
カーズは一瞬だけ目を見開いた。
すぐに笑みを零し、
いつもの優しい表情を浮かべる。
「もちろんですよ、我が主」
大きな手が、
そっと私の頭を撫でた。
その手つきは優しくて、
少しだけ、泣きそうになる。
普段は甘いくせに、
危険が絡むと途端に護衛騎士の顔になる。
それでいて、時々。
こちらの奥まで、
見透かすような目をする。
本当に、
困った人だ。
……だけど。
心の中では、
別の意味で冷や汗が流れていた。
首の痣……
隠しておいて本当に良かった!!
カインが土魔法で痣を偽装してくれたから誤魔化せたけど、
実際には、ばっちり跡が残っている。
あんなものを見られたら最後。
カーズはきっと、
優しく笑ったまま剣を握る。
そんな顔で、
屋敷中を探し回るに決まっている。
……いや、
屋敷だけで済むかしら。
下手をしたら、
街まで出るだろう。
そして見つけた瞬間に、
終わる。
主に、相手が。
この件だけは、
絶対にカーズへ言ってはいけない。
心の中で固く誓う。
どこかで、
原因の一人であるカインが、
嘲笑っている気がして、なんだか腹が立つ。
……今度、
絶対にカインの仕事を増やしてやる。
メラメラと怒りが燃え上がる。
でも、すぐに頭を振った。
違う。
今、考えるべきことはそれじゃない。
あの二人には個人的な恨みはないけど、
この屋敷で、他人を踏みつけてきた責任はある。
それに、
彼女のことも……
ちょうどいいわ。
私がヴァルディス家を動かすための、
最初の練習台になってもらいましょう……ね?




