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(番外編)夏の終わり

 葉織としては、自分からの一方通行で彼女を救ったとは思わない。自分だって、羽香奈との出会いによって救われたのだから。人の心が色のついた靄として見えてしまう目と、それを浄化する手。不思議な力を持って生まれたせいで、心に傷を負う場面は少なくなかった。そんな葉織を、誰より近くで支えてくれたのは羽香奈だった。


 だから、昨年の夏。ふたりは誓い合ったのだ。血縁ではないごく普通の男女の恋人ならば当たり前に築ける幸せを、きょうだい同士である自分たちは得られないのだとしても。これからの人生、ふたりで支え合って、共に生きていくのだと。


「羽香奈が助けてくれたから、オレは中学には普通に通えたけど……これからもずっと、羽香奈が助けてくれなきゃ自分の問題も解決出来ない自分のままでいるなんて、オレは嫌だ。だったら高校くらいは羽香奈のいない環境で、自分ひとりで乗り越えたい。そう思ったから」


 葉織は自分の力の使いどころを間違えた結果、小学六年生になってから中学入学までの一年間、学校に通うことが出来なくなった。羽香奈の助けがあって、そして未知夫と芭苗にも秘密を打ち明けて。三人がかりで気にかけてくれて、ようやく中学に通えるようになった。



「……なるほど、ね。そういう理由なら納得」


 未知夫の言葉に、芭苗も黙って頷く。ふたりとも、葉織の考えを受け止めてくれたようだ。しかし、それを受けてもなお、未知夫は重く、溜息をついた。一度だけ。


「だから、俺に相談する必要があったわけね。はっちはまっすぐで素直すぎるから、しおちゃんが喜んで受け入れてくれるような言い訳思いつかなくて、しょ~~じきに、事実だけ言っちゃったんだ?」


 さすがに、羽香奈と離れたいから、なんてストレートに言ってしまったわけじゃない。羽香奈に伝えたのは、「オレに合わせて志望校変えるなんてして欲しくない」というところまでだ。


 未知夫は芭苗と付き合うより以前、複数人との女生徒と交際経験がある。学力だって羽香奈に遜色ない。葉織とは真逆の社交性と対人関係の経験を持つ。表面的な優しい嘘で、相手の機嫌を上げるのなんて苦にもならない。



「正直も素直もはっちのいいところなんだけどさー。こういう時くらいは、しおちゃんが喜んでくれそうな言い訳考えなよ。じょ~ずに嘘ついてあげてさ。例えばこんな感じに……」


 聞かれて困る相手がこの場にいないというのに、なぜか未知夫は葉織も芭苗も手招きして。彼らの耳を自分の口元に寄せて、その言葉を伝えた。




 未知夫と芭苗に礼を言って、すぐに別れる。せっかく必要な言葉を貰えたのだから、少しでも早く羽香奈にも伝えて、安心させてあげなよ。ふたりがそう言ってくれたから。


 葉織は急いで、自宅へ戻り。そして先ほど歩いたのと同じ道を、今度は羽香奈を連れて進むことになる。



「わたし、江ノ島に住み始めてもう四年になるのに……まだ来たことない場所があったんだね」


 葉織が羽香奈を連れてきたのは、サザエ島よりさらに先にある、湘南港灯台。先ほど、未知夫達にしたのと同じ説明を繰り返す羽目になった。歩く距離も長いし、ヨットハーバーなんて、釣りが趣味でもない自分達には縁遠い場所だと思っていたと。



「だったら、今日はどうしてここへ連れて来てくれたの?」


「あっち。七里ヶ浜と、江ノ電のK高校前駅が見えるだろ?」



 防波堤の最奥まで羽香奈を連れてきて、あまり大きくはない白い灯台のそばに立ち、葉織はまっすぐ前を指さす。波の向こうに浮かぶような、砂浜の上に立つ街並みの中で滲んでいる、かつてふたりで一緒に憧れたその場所を。


 葉織と羽香奈の住む家の庭から、あるいは江ノ島神社の境内などの江ノ島の高所からだって、そこは見える。でも、江ノ島から突き出すように置かれた防波堤の上、波のすぐ上に直に立っているかのようなこの立地。江ノ島を出ずにそこを眺めるという前提なら、目的の場所が最も近くに見えるのはここになるのだ。


 羽香奈は、かすれるように小さな声で、「……そうだね」と漏らす。その瞬間、彼女の胸元の黒い靄が渦潮のように蠢いた。



「……オレはたぶん、合格出来ないだろうし、やっぱり志望校変えようと思う。でも、羽香奈にその実力があるんなら、そこに通ってさ……K高校がどんな場所なのか、オレに話して聞かせてくれないかな」


「葉織くんに?」


「毎日毎日、羽香奈がそこに通ってさ。K高校の話を聞かせてくれたら……まるで、自分もそこに通ってるみたいに、お……思えるかも、って」




『しおちゃんてそういう意味じゃあ超~~単純なんだから。はっちがそうしたら喜ぶから、って方向で話したら、簡単に納得してくれそうじゃん?』



 未知夫のアドバイス通りに、彼の考えた言葉を告げていく。それは葉織の本心ではないから、後ろめたさからつい、声が裏返ってしまいそうになる。だって、これってやっぱり、「嘘」じゃないか? それも、自分にとってこの世の誰より大事にしたい相手に、将来を決める大事な局面で騙しうちめいた駆け引きをするなんて。素直すぎる葉織には、なかなかに胃の痛む行動だった。




「羽香奈がそこに通ってるなら、オレも文化祭とかで遠慮なく遊びに行けるし……部活動するんなら、試合とか応援に行けるし。オレも、別の高校に通ったら、そこの話を羽香奈にするからさ……ま、毎、日」




「……葉織くんがそうしたいんなら、わたし、頑張って勉強して、K高校合格する!」


 ああ、はたして未知夫の言った通り、まるで彼の手のひらの上で思いのまま操られるかのごとく。


 羽香奈はものの見事に嘘に釣られて、今までの憂鬱を弾き飛ばして、今や目を輝かせてすらいた。ちょうど夕暮れ時にさしかかって、朱色の光を跳ね返す、無垢な瞳。あまりにもわかりやすくて、葉織ですらちょっぴり失望する。羽香奈の単純さに、ではなくて。こんなにも簡単なことだったのに自分で解決出来ず、ひと夏まるごとも羽香奈を悲しませてしまった自分の無力に対してだ。




 羽香奈がごく自然に自分の指先へ右手を忍ばせてきたので、葉織は迷いもなく、その手を受け取って指を絡ませる。



「見て、葉織くん。もうすっかり、夏の終わりの空だね」



 羽香奈は空いた方の手で、夕暮れの空を指さした。江ノ島のような空にも海にも包まれた場所に長年住んでいると、触れられる自然を眺めるだけで、季節の移り変わりを察知するのに慣れていく。




 あんなに騒がしく、耳を裂くように鳴いていた蝉の集団は、順番に命を終わらせて騒音を弱めていく。夏休みが終われば海遊びを楽しんでいた人々は日常に帰り始めて、海岸沿いの人の姿もまばらになる。海の向こうに沈んでいく太陽は、季節によって位置を変える。そして、空に浮かぶ雲は分厚い山のような入道雲から、涼しげに泳ぐ鱗の群れになっている。




「……ごめん。今年の夏は、ずっと……オレのせいで、羽香奈を悲しい気持ちでいさせて」


 羽香奈の心の黒い靄はすっかり、彼女の本来の色を取り戻していた。儚い雪のように真っ白で、暖め過ぎると溶けて消えてしまいそうで。葉織は少しだけ、その色が怖かった。



「葉織くんは悪くないよ。わたしがね、葉織くんの優しさに甘えすぎなんだよ、いつだって……それにね。夏の間ずっと悲しかったなんて、もう関係ない。この夏の思い出は、夏の終わりに葉織くんと仲直り出来た。それだけがわたしの思い出で、他のことはもう忘れちゃうから」


「忘れなくていいんじゃないかな。さっき、みー君達が言ってた。オレ達って、もう四年も一緒に住んでて、今まで一度も仲違いなんてしなかった。その方がよっぽどおかしかったんだから……一度くらいは、そういう思い出があったっていいじゃないかってさ」



 ハナちゃんとみー君は、あんなに仲良しでも、いっつも喧嘩しちゃうもんね。羽香奈は親友達の、自分と葉織とは真逆の仲睦まじい日常の光景を思い出して笑み溢す。楽しそうではあるのだけど、葉織と自分に向いているのはああいうのではなく……ただただ静かに、季節の移ろいを眺めるうちに流れるように過ぎていく。そんな日々なのだと実感していた。




「それじゃあ、中学三年生の夏は……葉織くんと初めて、ちょっとだけ喧嘩しちゃった。そういう思い出の、唯一無二の夏だったって、ことだよね」


「そうかもね……」


 この夏のような諍いは、これからのふたりの人生で二度と起こさない。ふたりは確信していたし、その後の生活では実際に、この日想像した通りになった。



 緩い力で指を絡めて、ふたりは手を繋ぎ、夏の終わりの薄紅の空と海を眺めていて。いつしか、どちらともなく、肩を寄せ合ってお互いの温もりを感じていた。



 触れ過ぎたら溶けてしまいそうな、雪のように白い、羽香奈の心。


 葉織が触れ過ぎて怖いと思うのは、羽香奈の心だけではない。体もだった。




 思春期なのだから。疑いの余地は一切ない、相思相愛の関係なのだから。


 ごく普通の男女の恋人だったら当たり前に求め合う、体の繋がり。それに焦がれて、心も体も疼くことがあるのだ。葉織も羽香奈も、ふたり、共に。



 こんな時、本当はもっと強く、彼女を抱きしめたいと思う。けれど、そうしてしまえば、常にギリギリのところで堪えている均衡を崩してしまいそうで……。



 自分達は心だけの繋がりで、これから一生を共にすると誓ったのだから……こうして肌と肌の触れ合いで、温もりを感じる。これが、彼らの限界だった。




 中学三年生の夏は、一生に一度限り、ふたりの長い仲違いの思い出。それからも彼らは末永く、死がふたりを分かつまで、江ノ島の小さな家で共に暮らした。




 大人になっても、夏の終わりを感じさせる空をふたりで見上げる時はいつだって。あの、たった一度の「中学三年生の夏の終わり」に空を見上げながらふたりで抱いたほろ苦い諦念と、お互いの肌の温もりを思い出していた。それは彼らの心の靄をほんのわずか、泡立たせるのだ。波打ち際に寄せる、潮の泡のように。




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