中学生になったら
羽香奈は生みの親からランドセルを買い与えられなかったため、前の学校も新しい学校も手提げ袋で通っている。小学校生活なんて残すところ、たかだか半年。それなりに金額もするものだし、新たに半蔵達に買って欲しいとも思わない。
「おぉ~い、潮崎羽香奈ぁ~~」
「待って~~!」
一秒でも早く帰って葉織くんの顔が見たいなぁ、と、早足ぎみで歩いていた羽香奈に呼びかける声があった。校門を出る直前で立ち止まり振り返ると、息を切らせて駆けてきたふたり。クラスメイトの女子と男子なのは顔だけ覚えていたのでわかるが、名前までは知らない。
「あたし、同じクラスの宮内 芭苗! こいつも同じクラスで花江 未知夫ね」
芭苗はボーイッシュな出で立ちの少女で、羽香奈には詳細まではわからないものの海外バスケットボールの有名チームのレプリカコスチュームを着ている。上はノースリーブで下はショートパンツ、その姿のまま試合にだって出られそうだ。短髪だが少年そのものには見えないよう形だけは気遣っているようで、もみあげだけ僅かに伸ばしているらしい。目鼻立ちがはっきりした少女で、やや吊り上った眉が勝気な性格を端的に表している。
未知夫は小学生にしてはちょっとお洒落なポロシャツに、まだまだ残暑厳しい中だというのに生地の厚いジーンズを履いている。靴も有名ブランドのもので、親に土下座して頼み込んで買ってもらったものだ。いずれにしても、羽香奈がそれらに関心を抱くわけではないのだが、なんとなく身だしなみを整えて見せたいタイプの男の子なんだなぁと思った。まだ小学生なのに偉いなぁ、なんて頓珍漢なことも考える。
「えーと。どっちも、はなえさん、なの?」
「それ、みーんなツッコむんだよねー」
「遺憾の意! なんだけど!」
「ややこしいんで、こいつのことはみんなハナちゃんって呼ぶし」
「こいつのことはみー君って呼ぶの。要はあだ名ね」
芭苗と未知夫は家が隣同士の同い年、いわゆる幼なじみというやつで、本人達だけはみんなが厚意でつけてくれたあだ名では呼び合わない。
「さっきの見てたよー。原田って後から入ってきたくせに一部の女子どもを金で懐柔して派閥みたいにしちゃってさ! あたしそういうの嫌いなんだよね。スカッとしたよ!」
「潮崎さん、大人しそうに見えるのに案外やるじゃん。『はっち』は元気?」
「はっち?」
「葉織のあだ名だよ。そういや羽香奈のあだ名はなんにしよ?」
あだ名かぁ……東京で暮らしていた頃は「いらない子の『ばかな』」と呼ばれていたので、あんまり良い思い出がない。どれだけいじめても虚仮にしても、親が訴えてこないことが周囲の子供達に知れ渡っていたため、そんな酷いあだ名も平気でまかり通っていた。
「名前で取ったらはっちとごっちゃになりそうだからぁ、名字……しおちゃんとか?」
未知夫は事情など知る由もないが、羽香奈という名前は母に与えられた忌み名でもある。潮崎の名字は葉織や祖父母と家族になった証で、羽香奈にとっては大切な宝物だ。そちら由来のあだ名で呼んで貰えるというのは単純に喜ばしい。
「ありがとう。かわいい名前つけてくれて、嬉しい」
「えっ。そーお? 喜んでくれて良かった」
「誉められたからってチョーシのんな! はっちの話してたんでしょ!」
「葉織くんだったら元気だよ。とっても」
「原田に味方してる奴なんてごく一部の女子だけだし、あたし達は味方だし。また学校来ればいいのにー」
「あんなに色々されて堪えないの、芭苗くらいのもんじゃない?」
そこで聞かされたのは、芭苗も原田と犬猿の仲なせいか、葉織にされたような嫌がらせを幾度もされているという事実。勝気な性格の芭苗はその度に真っ向からやり返し、やがて嫌がらせはぱったり止まったという。
「あいつら腰抜けだからさ、さっきのしおちゃんの反撃で怖気づいて、はっちへの嫌がらせもなくなるんじゃない?」
「そうなったらまた学校連れてきなよ~」
「……葉織くんが来たいって言ったら、そうするね」
彼らに事情は話せないが、羽香奈としては、今すぐ葉織に学校に来てほしいとは思わなかった。
「そういやしおちゃん、ランドセルは?」
「持ってないの」
「ランドセル嫌いってわけじゃないんなら、俺の姉ちゃんが去年まで使ってたランドセルがうちにあるんだけど、いる?」
「えぇ~……いいの!?」
「もう使わないものをご近所で貰ってもらうのって普通じゃない?」
羽香奈はそんな光景をそうそう見たことがないので、首を横に振る。芭苗も未知夫も、そして葉織にとっても、そうした不用品の譲渡は身近な日常風景なので羽香奈とは感覚がまるで違う。
「でもランドセル貰ってくれる人なんてそんないないし、ずっと残っちゃってたんだ」
「まぁ、必要だったら普通は一年生で買ってもらえるもんね……」
「そういうわけだから、今から未知夫ん家行こーよ! そしたら明日から使えるし、今からならお昼ごはんまでに家に帰れるっしょー?」
お家の人に断りもしないまま物の譲渡を約束し、家にまで招こうとする。この世にこんな自由で親切な、同い年の子供が存在したなんて、羽香奈は信じられない思いだった。いや、葉織くんだって負けず劣らず良い子だけども!
「あ、ありがと……いいのかなぁ、ほんとに」
親にすら買ってもらえなかったランドセルなのに、無償で譲ってくれるなんて未だに信じられない。
「六年も使ってお下がりのランドセルなのにそんな畏まんなくていいのにー。しおちゃんって奥ゆかしいね~。おっきくなったらモテそう」
「ばぁ~か、ちょっとかわいい子と話すとすぐそういうこと言うんだからっ」
なぜか急に怒ったような顔で、芭苗が未知夫の頭をぺしっとはたく。全然痛くなさそうなのに「あ痛~」なんて言っている。
ごくごくありふれた友達同士のやり取りを目の前で見て、その輪の中に自分も一員としているなんて。それこそかつての自分にとっては夢のような世界に今、立っていることを自覚した。
「葉織くん、ただいまぁ!」
「おかえり、羽香奈……えっ」
葉織は居間のソファーで膝を抱えて、羽香奈が帰ってくるのを待っていた。一応、羽香奈が学校へ行っているというのにテレビを見たり遊び歩いたりというのは遠慮するつもりだと言っていた。そんなの気にしないで、好きなことしていてくれていいのになぁと羽香奈は思う。
「そのほっぺた、どうしたの?」
「転んじゃったぁ」
「ほんとかなぁ……」
どんな転び方したら頬だけ真っ赤になるんだ、と葉織は疑いの眼差しだが。彼の目に見える羽香奈の心の色は安定しているし、「秘密を暴くため」という目的で力を乱用しないことに決めているため真偽を明らかにすることは出来ない。
「学校どうだった?」
「楽しかったよ。友達も出来たの。花江くんと芭苗ちゃん」
いらないからとランドセルも譲ってくれたこと、そのやり取りのために短い時間ながら家に上がらせてくれたことも報告した。
「ああ、ハナハナコンビか。あいつらだったらいい奴だから安心……」
「それ言われるの、遺憾の意って言ってたよ」
「うん、本人で間違いなさそう。相変わらず仲良くしてそう?」
「とっても! いいね~、幼なじみって」
羽香奈の計画としては、葉織が「来たいと思うなら」学校へいつでも行けるよう、彼とトラブルになったクラスメイトに制裁する。まさか初日であらかた片付くとまでは思っていなかったが、いずれにしろ、その計画を実行することでクラス全体を敵に回すことも覚悟の上だった。敵どころか初日から友達、かつ心強い味方が出来るとは思ってもみなかった。
「ねえ、葉織くん。ハナちゃんもみー君も、また葉織くんが学校に来てくれるの待ってるって。学校行きたい?」
「……ごめん」
「もし、葉織くんが良かったら……わたし達が中学生になったら、一緒に学校行ってみない?」
「中学……?」
「今の小学校ともういくつかの小学校から、卒業した六年生が同じ中学に通うんでしょ? 受験していなくなる子もいるだろうし、人も増えたら雰囲気も変わると思うんだ」
受験ストレスで黒い靄をまとわせていたという原田は、葉織がそれを解消してからすでに四か月近く経っている。同じストレスがぶり返しているかもしれない。
葉織がそれを解消するにしても、もめごとを回避するため諦めるにしても。もし原田が受験に失敗したら、葉織は責任を感じてしまわないだろうか。羽香奈にとってはそれが何より気がかりだった。彼女の進路も心の安らぎも羽香奈にとっては心底どうでもいい。彼女の存在そのものが葉織に影を落とすのが許しがたいだけだ。
彼女ひとりを怖れて通学を諦めるなんて馬鹿げているが、何も彼女だけが問題なわけではない。酷い落書きがされた机も新学期までほったらかし。葉織の事情も知ろうとせずに「学校へ行けない弱い奴」呼ばわり。原田に嫌がらせを受けている生徒は葉織だけではなかったのに、担任としてその解決に乗り出そうともしない。要するにあの教師が担任である限り改善は期待出来ない。
「中学校に行って葉織くんの目が何かに困っている子を見つけたとしたら、ひとりで何とかしようと思わないで相談してよ。わたし、そういう時にみんなに頼ってもらえるような人になれるよう頑張ってみようと思うんだ」
未来の話をすると、羽香奈は中学生になると積極的に学級委員長などの仕事を引き受け、表面上はあらゆるクラスメイトに親しく振る舞い、信用を得た。葉織がたまに黒い靄を持つ生徒を見つけると、まずは羽香奈から「どうしたの? 大丈夫?」と悩みを聞きに出向く。その内容によって葉織の力に頼るか考える。ささいなきっかけだったがひょんなことからハナハナコンビにも葉織の秘密を打ち明けて、彼らも協力してくれるようになる。そんな楽しい中学生活が、彼らには待っているのだった。
葉織は小学校に通わない代わりに、学校でクラスメイトに出されているのと同じ宿題を家で解く約束になっている。これまでは郵送されていたが、今日からは羽香奈が毎日持ち帰ることになった。
居間のテーブルで葉織が宿題をしているその時、羽香奈は席を外し、倉庫へ向かった。
「やっぱり……ここにいたんだね」
羽香奈が原田を特定したのは、「筆跡が決め手になった」だけで、筆跡そのものが足がかりだったわけではない。彼女の顔に見覚えがあった。倉庫の中で、葉織の作った人形の中にいたからだ。
彼女の人形は力なく座り込んで、膝の上にはノートだか参考書だかが開かれたままうず高く積み上がり、その高さに疲れ果てた表情をしている。こんなに小さな人形でも苦悩が見て取れる。
あんな酷いことをされたのに、葉織は他の人形達と何ら区別なく、全く同じ扱いでここに保管していたのだ。
……人形は、その心の持ち主が亡くなると形を崩す。だとしたら、意図的に人形を傷付けた場合、その人はどうなるんだろう。
ほんの一瞬芽生えた、黒い感情。だがすぐに振り払う。
葉織が純粋な善意で行って作っているものを、自分が悪用するのなら、それは葉織自身を貶める行為だから。
よりにもよってこのわたしが、彼の信頼を裏切るような真似をしてはいけないんだ。
何の未練もなく、羽香奈は倉庫を後にして葉織の元へ戻る。宿題が終わったら明日の授業の予習を一緒にしようと思う。葉織が中学に通う時、少しでも勉強の遅れを感じずに済むように、これから毎日一緒に勉強する約束だった。