誰がための祈り
「というわけで、今年になってからずっと休んでる潮崎葉織の親戚の羽香奈。今日からこのクラスの一員になる。みんな、仲良くするように」
「よろしくお願いします」
何の個性もなく無難に挨拶し、頭を下げる。はぁーい、ときっちり揃った声でクラスメイトが返事する。小学六年生にもなるとこのくらいの統率は出来るものだ。
「じゃあ、この列の一番後ろが君の席だから。座りなさい」
はい、と返事をしてしずしずと歩き出す。最後尾の席は確かに誰も座っていないが、そのひとつ前も空席だ。
自分にあてがわれたピカピカの机と違って、ひとつ前には黒ずんだ汚れが目立つ。その傍らで立ち止まり、見下ろしてみる。目を背けたくなるような罵詈雑言がびっしりと埋め尽くしていた。
羽香奈は迷わず、音を立ててその机の椅子を引き、着席した。クラスメイトは誰も声を出さなかったが動揺した表情だけはさざ波のように、羽香奈を中心として広がっていく。
「潮崎? 一番後ろの席と言っただろう?」
担任は初老の男性で、困惑に眉をしかめながら羽香奈に注意する。
「いいんです、わたしはこの席で。こんな汚されたままほったらかしの机、葉織くんに見せられませんから」
人並み……いや、それ以上に優しい心を持つ葉織だから、こんな下卑た言葉を目の当りにしたら傷つくだろう。それも、彼自身に贈られた悪意ならなおさらだ。
わたしだったら痛くもかゆくもない。この程度の子供じみた言葉の群れにいちいち傷ついているようだったら、今頃こうして生きていなかっただろうから。
休み時間。最初の挨拶で強烈な印象を残したせいか、せっかくの転入生だというのにクラスメイトは誰も羽香奈に声をかけてこない。
それをいいことに、羽香奈は教室の壁と廊下に貼り出された習字や作文の全てに目を通す。始業式の日は授業もなくすぐに帰りの時間になるため、限られた時間がチャンスなのだが……。
「あなたが原田さん? ちょっとお話しがあるの」
葉織の机に書かれた悪口、その内のいくつかの筆跡がいかにも美しいものだったから、そのひとりに関しては特定が容易かった。廊下側最後尾の席に座っていた彼女が帰りの会の後、そそくさと帰ろうとするところを、出ようとした扉の前に立ちふさがって足止めする。
彼女の身に着ける服も、整った長髪も、白くて小奇麗な肌も。教室の中にいる誰よりも上等な家に生まれたんだろうことがよくわかる。
「なんですか? これから塾なんで、手短に済ませて欲しいんですけど」
「お忙しいのに付き合ってくれるの? ありがとう。手短に済ませられるかはあなたの出方次第だけど」
「ちょっと、さっきから何なのよ、転入生」
「感じ悪いんだけど~?」
帰り支度で背負おうとしていたランドセルを机の上にいったん置きなおして、ふたりの女生徒が原田の背中に立つ。同じく机に書かれた筆跡から、彼女に加担しているのはせいぜい二、三人かなと当たりはつけていたのだが。わかりやすく出てくるものだから可笑しくて笑ってしまった。
「な……なに、笑ってんのよ?」
ほんの一瞬前まで三対一の優勢、強気の構えだったというのに。羽香奈の笑みに実年齢以上の歪みを見て、そう言いながらひとりが半歩ほど引いた。この程度で怖気づく癖に、あんな証拠の残るような行為がよく出来るものだと呆れてしまう。
「気持ち悪い……潮崎君の親戚なんですって? 同じ血縁だとそういうところも似るんですか?」
自分だけならまだしも、葉織のことを貶められては……しかし羽香奈の心は冷えたままだった。この程度の人間性の相手であると、はなからわかって相対しているのだから心の準備は出来ている。
「原田さん……あなた、本当は気付いているんでしょう? 葉織くんのおかげで、あの日からしばらく、心がすーっと軽くなった……そんな感じがしたって」
葉織は小学五年生の修了までは、何の問題もなく学校に通っていた。葉織と同じクラスになった子供達は家庭環境等に深刻な問題を抱えた者は少なく、葉織の目は安定した心の色ばかりを見て過ごすことが出来ていた。
六年生になって原田が転入してきたことで、その環境は変わってしまった。彼女は「授業中のみ」、板書をノートに書き写す手や授業を聞いている耳などに黒い靄を放っていた。
たまたま彼女が葉織のすぐ後ろの席になってしまったこともあって、気になって仕方がなかった。
気付かれませんように、大事になりませんようにと祈りながら、葉織は授業中に思い切って振り返り、彼女の手の付近から靄を掴みとった。幼さゆえの浅慮であり、無論、大事にならないはずもなく。直接、手に触れたわけではなくとも、原田は数人の友人を巻き込んで騒然とした。
当人から靄を剥ぎ取っただけではその人のストレスは解消されず、かといって下校までの数時間自分が持ちっ放しということも出来ず、葉織は校内の人目につかない場所で人形に変えた。それも運悪く人に見られてしまった。
その日以来、原田と数人の取り巻きによる陰湿な嫌がらせが始まった。葉織と付き合いの長いクラスメイトなど、味方がいないではなかったが……。
いじめに耐えかねて学校に行けなくなったわけじゃない。その日限りの通行人、観光客と多少のトラブルになるくらいなら、葉織は耐えることが出来たけど……身近な友達の心の色が見えることが、怖くなってしまったのだ。
昨日、羽香奈は転入の手続きのため半蔵とふたりきりで学校を訪ね、その帰り道に全てを教えてもらったのだった。
「葉織くんに助けられておいて、仇で返して……あなたみたいな恥知らず、きっと罰が当たるね。頑張って受験勉強しても、お気の毒」
「はぁ? そんな非現実的なこと信じてるの?」
「信じるよ。わたしたちがどこに住んでいるのか、知らない? 知らなくてもいいけどね。毎朝毎朝、わたし、あなたの為に心をこめてお参りしているの。神様のいるところまで、ほんの数歩で行き来できるから……」
刹那、羽香奈の頬に鋭い痛みが刺さった。なんとまあ、気の短い人。だが、その痛みが羽香奈にもたらしたのは悦楽で、思わず笑みこぼす。葉織くんもこうやって、理不尽な痛みに耐えてきた。同じ痛みを知ることが出来た。
「私がどれだけ頑張ってきたか、あなたなんか、なんにも知らないくせにっ!」
「よく言うよ。何も知らないのはあなたも同じじゃない。葉織くんのことも、わたしのことも」
あなたなんかに葉織くんのことは少しだって教えてあげないけれど、と断ったうえで、羽香奈は続ける。
「葉織くんはわたしの全てを救ってくれた。わたしは、わたしの一生全て使ってもその恩返しがしたいの。そのためだったらどんなに醜くたって、穢れたって平気。神聖な場所でのお祈りを呪いに変えるなんて罰当たりをしたって、あなたが落ちるまで祈り続けてあげる」
「や……やだ、やめてよ……落ちる、なんて」
羽香奈の想像以上に、彼女は「落ちる」という言葉に敏感だった。想像なんて出来るはずもない。中学受験させてくれるような、親から与えられる恵みなど、羽香奈の人生には無縁もいいところだ。
「お参り、やめてあげてもいいけど。わたしが次に見るまでに、あの机をきれいにしてくれたらね」
そも、彼女を呪うためのお参りなんて無駄なこと、羽香奈は実際にはしていないのだが。
わたしの時間の全ては葉織くんのためのもの。あなたなんかに使うのは、たとえ一秒だとしてももったいないじゃない。




