儚き夜明け
おまえの父親とその奥さんには、結婚して何年も子供が出来なかったのよ。
もし子供が出来たら奥さんと離婚してあたしと結婚してくれるって約束だったから、生まれるまで大切に隠し通したの。
生まれたおまえを連れておふたりの前に突き付けてやったらね、「子供が産めなくても、僕は妻を愛しているから離婚はしない」だって。あいつの奥さんは不貞行為であたしに慰謝料請求も出来るんだから、それを勘弁してやる代わりに養育費も払わないってさ。
ほんっと、おまえの父親って最低のクズだったわ。そいつの血が半分流れてて、もう半分はこのあたしの血なんだから、クズとクズの掛け合わせよね。生まれてきた意味も生きてる意味もないんじゃない?
だから、羽香奈なんて名前をつけたのよ。「さっさと墓の中へ行っちゃえばいいのに」、って願いを込めてね……。
江ノ島へ来てから今日まで、羽香奈が葉織より先に目が覚めた日はなかった。
この部屋に時計はないので羽香奈自身に知るすべはないが、まだ夜明け直後だ。
あんなおぞましい夢を見たというのに、心は凪いだ海のように穏やかだった。
壁の向こう、外の世界から、遥か下に位置する海の波の音、早起きしすぎたわずかな蝉の鳴き声がかすかに聞こえてくる。
葉織を起こさないよう静かに身を起こし、思い出してみる。あれって、何日前のことだったかなぁ……。
……ねぇ、葉織くん。わたしの、羽香奈って名前、どう思う? どういう意味の名前なんだと思う……?
妹の初子が行く先々で触れ回ったため、羽香奈の周囲の人々にはその名前の由来が周知していた。何も知らない葉織の客観的な印象が知りたくて、そう訊ねたことがある。
……どう、っていうと、やっぱり「儚い」って意味かなぁ。それ以外は思いつかないや。
羽香奈の心の色は真っ白で……雪みたいにふっと消えてしまいそうで、心配になる……
……ふふふ、と、笑いが込み上げる。可笑しくて、嬉しくて、堪えきれなかった。
「おかあさん……わたしを産んでくれて、ありがとう……」
あなたのこと、大嫌いだけど。最低な人だって心から思うけど。
生まれてきたからこそ、わたしは葉織くんの役に立てる。力になってあげられるから。
九月一日。羽香奈が今日から通う小学校の、二学期の始まる朝のことだった。