【Day.4】幼年期の終わり
抜けるような青空が広がっている。五月の昼下がり、頬を撫でるのは心地のいい風。
馬車から降りながら『晴れてよかった』、とメイベルは思う。今日はダービーの日。そしてリチャードとの約束の日でもある。
競馬場は人でごった返していた。街中の人間が集まっているのではなかろうか。そう錯覚するほどである。
が、それがあながち間違いではないことは、行き交う乗り合い馬車の数が物語っていた。現代ほど娯楽の多い時代ではないから、当然といえば当然だ。とりわけ競馬は庶民から貴族まで階級を超えて楽しめるものだった。
レース場の正面、中央に立つ建物。グランドスタンドが、リチャードと落ち合う約束をした場所である。
その最上階に位置する特別観覧席には選ばれた階級の者以外立ち入ることが許されていない。もちろん、メイベルだって入るのははじめてだ。
おかしなところはないかしら。目的地はもう間もなくというところで突然強い不安に襲われて、メイベルは立ち止まる。
今日のドレスは清楚な空の色。瞳の色に合わせたドレスは、お気に入りの一着でもあった。サテンと絹で描いたストライプ模様の身頃がたいへん可愛らしい。対してスカートの部分は一見するとシンプルなデザインだが、肩の部分が膨らんだ袖と同様流行に則したものとなっている。
──だから大丈夫、不安に思うことなんてなんにもない。
己に言い聞かせるメイベルの横を、人の波が流れていく。
嗅ぎ慣れない、汗と土と埃のにおい。目の前の建物が途端に途方もなく大きなもののように思われた。……そんなわけはないのだけど。
「……ミス・メイベル?」
通り過ぎた男性の腕が当たって、僅かによろめく。裾から覗いたのは、ビーズを散りばめた爪先。そんなメイベルの肩を支える、力強い腕。
「リチャードさま、」
「よかった、無事に会えて。やはり迎えをやるべきだったかと後悔していたところだったから」
逆光の中に浮かぶ、端正な面立ち。熟す前の果実の唇が綻んで空気を揺らす。メイベルと彼の間にある、僅かな空間を。
「いえ、そんな。以前にも申し上げましたけれど、わたくしなら平気です。ご心配をおかけするほどか弱くありませんわ」
心臓が高鳴ったのは本能のようなもの。誰だって驚いたらこうなるはず。だからこれは恋じゃない。
メイベルはリチャードからそっと距離をとる。
瞬間、胸が痛んだような気がしたけど、気のせいだ。安易に思い込んでしまってはダメ。よくよく考えて……じゃなきゃ後悔するのは彼の方。リチャードは広大な領地や豊かな財産を継ぐ人だ。そんな彼に差し出せるものを、私は持っていない。
──だから、これは、恋じゃない。
「だが浮かない顔をしていた。……それも俺の勘違いだろうか?」
イエス、と言えたらよかった。何もかもが勘違いだと、そう言えたらよかったのに。
目を伏せたメイベルの手をリチャードは捕らえる。驚いて、身じろいでも、離してもらえない。
意志の強い目が、メイベルを射抜く。
「逃げないで。……俺が今、共に過ごしたいと思うのは君だけだ」
「……っ」
そんな言い方は卑怯だ。ただでさえその顔にはとことん弱いのに、そんな風に言われたら──切なげな目で、囁くように言われてしまったら──逆らう余地など微塵もなくなってしまう。
……ううん、ほんとうに卑怯なのは私の方。彼の気持ちを知っていて、なのに受け入れることも拒絶することもしない私こそが、一番の卑怯ものだ。
気づけばメイベルは自然と口を開いていた。
「……怖く、なったのです。だって、釣り合いがとれません。想いの強さだって……、あなたに恋するご令嬢は大勢いらっしゃいますわ。そんな彼女たちに対してもわたくしは……、彼女たちを傷つけるほどの覚悟が、わたくしにはなかった。それを、今になって実感しましたの」
「……そうか」
メイベルの告白を、リチャードは静かに聞いていた。
彼はメイベルの気持ちを否定しなかった。正しいとも正しくないとも言わなかった。ただ静かに受け止めて、相槌を打った。
観客が続々と観覧席に集まってくる。密度を増す人混みの中を、けれどリチャードは急かすことなくメイベルの肩を抱いた。それは周囲の混雑からメイベルを守るためのものであって、その優しさに今は申し訳なさが募った。
「あの──、」
もう大丈夫だ、と言おうとした。でも言えなかった。そう言って、無理やりにでも笑おうとした寸前、肩を抱く力が強まった。
「……俺は、他の誰が傷ついたっていいと思ってる。君以外の誰だって、家族ですら、」
メイベルは息を呑んだ。息を呑み、まじまじとリチャードを見上げた。
本当にこの人はリチャードさまなのかしら?そう思った。彼はいつだって貴族のお手本のような人だったから。清廉潔白で、身分の低いものにこそ優しくすることのできる、『正しいひと』。そんな彼だから尊敬し、憧れ、幸福を願うようになった。
──なのに、今は?
リチャードの、美しい翡翠の目。それが今は翳りに呑まれて、透明さを失っている。
メイベルは思う。──これは正しくないことだわ。そして私は彼に正しい人であってほしいと願っている。
だから、私は。
「……なんて言って、頷くような君ではないことくらい、俺もわかっているよ」
メイベルが答えるより早く、リチャードは表情を和らげた。
先程までの暗雲が嘘のよう。秋空みたいにさっぱりとした顔で、リチャードは笑った。
「あまり自分を責めないでほしい。君を連れ回しているのは俺の我が儘であって、君が気に病むことではないのだから」
「ですが、」
「……そうだな、たまにはこの熱狂の中で観戦するのも悪くない。上にいては大声を上げることもできないからな」
その言葉が自身を気遣ってのものだということはメイベルにも察しがついた。
上流階級の、それも選ばれた人々だけが集まる空間。特別観覧席で観戦するのではなく、一般の人々と同じ目線で、誰に憚ることもなく思うがままに──
その提案はメイベルにとっても喜ばしいものであった。……けれど。
「……いいえ、それではリチャードさまがお役目を果たせませんわ」
オークスは社交の場。貴族の務めのひとつである。そして彼は伯爵家を継ぐ人だ。
『推し』の名誉を汚すなんてもっての他。固い決意の印に唇を引き結ぶ。
が、対するリチャードはといえば。
「言っただろう?俺は気にしないと。それに挨拶は一通り済ませてある」
さらりと言ってのける彼に、目眩がしそう。優しさも度が過ぎれば罪だ。優しすぎ罪で逮捕だ有罪だ。
『推し』のサービスが手厚すぎて、メイベルは堕落の一歩手前。そこでギリギリ踏みとどまって、眼差しを強くする。
「そういうわけにはいきませんわ。あなたのエスコートを受けるものとして、最低限の礼儀は尽くさなくては」
「だが、」
「……なので、その、……もう少し待っていていただけますか?緊張がほぐれるまで」
恥ずかしいやら情けないやらで、語尾はほとんど消え入りそう。
やっとの思いで心情を吐露するも、優しいリチャードは柔和な笑みを刷くばかり。バカにすることなく、「いつまでだって待つよ」と言ってくれた。
「それまでパドックに行かないか?馬は好きだろう?」
「よいのですか?」
「もちろん。せっかく来てもらったんだ、できるだけ楽しんでもらいたい。こんなことしか俺にはできないが……」
「こんなこと、だなんて。わたくしはじゅうぶん良くしていただいておりますのに」
パドックには限られた人しか入れないと聞いている。だからこんな機会なんて早々ないこと。馬主をしているリチャードがエスコートしてくれるからこその経験で、メイベルは口元を緩めた。
美しく鍛え抜かれた馬体を間近で見られるなんて!あぁ、ここにシネマトグラフがないのが実に惜しい。シネマトグラフはそれなりの重さがあるため、なかなか持ち運ぶことができないのだ。
いま手元にあったなら、パドックの様子から出走の瞬間、ゴールまでをあますことなく撮影し、記録に残すことができたのだけど……。
「撮影できないのが悔しいです……」
「ああ、シネマトグラフを譲り受けたんだったか。撮影は上手くいってる?」
「まだ試しに一本撮っただけですわ。それもストーリーのない、通りの風景を撮影しただけのもので」
「だがその風景を明日も明後日も見ることができるんだろう?それもキネトスコープのように一人で鑑賞するのではない、大勢が見ることのできる……。画期的な発明だ」
「ええ!そうです!そこがシネマトグラフのよいところなのですわ!」
リチャードは聞き上手だ。パドックへ向かう道すがら、メイベルはいつの間にか先日の一件を──デイヴィス座の事件から、エドヴィンとの対決までを洗いざらい話してしまっていた。
「エドヴィン・フォスターか……」
「はい。ですからデイヴィス座に送りつけられているという脅迫状の件も解決したいですし、啖呵を切ってしまった手前、彼の度肝を抜くような映画も撮らなくてはならず……。あぁ、どうしてあんなこと言ってしまったのかしら……」
「…………」
「まずは題材を決めなくてはと思うのですけれど、何がいいと思います?やはり非日常的なものの方が映画の強みを活かせるのかしら。でも撮影のためのセットなんてすぐには用意できないし……」
「……………………」
「…………あの、リチャードさま?」
返事がなくなって、内心焦る。……しまった、喋りすぎたかしら。
好きなもののこととなるとすぐにこうなってしまうのが悪いくせ。オタクの悪癖である。自覚しているのに直らないのだからほんとう、たちが悪い。
「ごめんなさい、わたくしばかりお話しして……!」
冷や汗を感じながら平身低頭。謝ると、リチャードも慌てた様子で「こちらこそすまない!」と言った。
「少し思うところがあって考え込んでしまった。それだけだから、君は悪くない」
「ですが……」
「むしろ楽しそうに語る君を見ていると、こちらまで楽しくなってくるんだ。だからどうか君はそのままで」
「はい……」
納得がいくような、いかないような。甘やかされている自覚はあるからはぐらかされているような気がしてならない。
「言いそびれていたけど、……今日のドレスもよく似合っていると思う。俺にはその手のことはわからないが……、その、君の瞳に誂えたようですごく素敵だ」
羞じらいを滲ませた微笑みを向けられては、もうどうしようもなかった。抱いた疑問などすっかり霧散。頭から吹き飛んで、メイベルは赤面する。
頬が熱い。周りの熱気に感化されてしまった……それだけが理由じゃないことくらい、メイベルが一番よくわかっていた。
前向きに考えるべきなのかもしれない。パドックへ向かいながら、メイベルは思う。恋すること、誰かに愛されること。誰かに──オレじゃあお前を守れない──いつだったか、従兄に言われた言葉がよみがえる。
王子様がほしかったわけじゃない。身分も財産もどうだってよかった。──でも一番たいせつだった人は、永遠を約束してくれなかったから。
代わりにくれたのは、『幸せになってほしい』という祈りだけ。憎らしいほど優しいあの人は、永遠を約束してはくれなかった。
──だからそれに応えるべき時がきたのかもしれない。
見上げた空は青く、どこまでも青くて──少しだけ、泣きたくなった。
本当はちょっとだけ、あなたに恋をしていたのかもしれない。身分も財産も関係ない、どこか遠いところへ──あなたと二人ならすべて捨てて駆け落ちしたっていいと、そのくらいにはあなたに恋をしていたの。
言えなかった言葉を呑み込んで、メイベルは前を向く。
いつか笑い話になればいい。笑って、打ち明けられる時がきたら……それが最善の未来なのだと、メイベルにはわかっていた。




