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王家への返答は、公爵家に責のない婚約解消を望む手紙を送る事で落ち着いた。また後日話し合いが行われるだろうが、そこから先は大人達の領分だ。クララは両親を信頼しているし、何より国王から直々に言葉をいただいたので特に憂いはない。
クララを心配する両親からは、主治医に診察してもらった後は自室で療養するよう勧められた。記憶を取り戻した反動か、気疲れはしていたのでこれ幸いとだらだらする。
しかし、いとこであるオースリック伯爵家の可愛らしい双子が追い返されたと聞いた時は少なからずがっかりした。昨夜の言葉は社交辞令と受け取っていたので、昨日の今日で本当に来てくれるとは思わず、純粋に嬉しかったのだ。
ただ両親が止めるのも聞かずに家を飛び出し、公爵家の使用人にやんわりと断られると、追いかけてきた彼らの兄に首根っこを掴まれて帰っていったらしい。彼らが三つ子でなくて良かった。一人増えていたら、長兄の腕では足りなかっただろう。
その後も結局、侍女が交代でクララに付きっきりだったため、就寝まで自室で大人しく過ごす羽目になった。クララとしては思い出した情報から確認したい事もあったのだが、リハビリがてら侍女とおしゃべりするのも楽しかったので良しとする。今まで積極的に会話しなかったせいか、時々侍女達が怪訝な顔をしていたが。
翌日、クララは庭に出ていた。
ロンドン市街地にあっても、街道と邸宅を隔てる塀から溢れる緑が眩しい公爵家のタウンハウスは、よく人目を引いた。どんよりとした曇りの日でも領地の晴れやかな景色を思い出せるよう、ロンドンの気候でも問題なく育つ樹木を厳選し植え替えたのだ。余りに茂ると天気の良くない日は更に陰りを増すため、目隠しとしての高さと密度は残しつつ、定期的に剪定させている。
しかし、クララの用事があるのは屋敷の裏に広がる庭である。こちらもカントリーハウスとは比べ物にならない狭さだが、市街地のちょっとした公園くらいの広さはある。過去には人工の川も造ろうとした事もあったらしい。貴族はやる事がいちいち壮大である。
庭の中でも住居に近く、東側の通りに面した場所には小さな温室がある。近年発達した流通技術や鉄道のおかげで今は観葉植物しか置いていないが、子供の頃は幾ばくかの果物も育てており、庭師から内緒で採れたてを食べさせてもらった事を思い出す。
温室の裏手にある納屋には、庭師の仕事道具や厩舎で使うフォークなどが雑多にしまわれていた。クララは馬が好きで、馬用のブラシを手に厩舎へ向かえば馬が鼻筋を擦り寄せてブラッシングをねだるほどに懐いている。だが、用があるのはこれでもなかった。
相変わらず、物が多い。この屋敷で家族全員が過ごす期間は半年もないが、使用人は一年を通し誰かしらいるはずなので、オフシーズンに整理すればいいものを。しかし使用者にとってはこれが最適な布陣かも知れないし、働いているのはクララではなく彼らだ。たまにしか来ない令嬢が口を挟むべきではないのだろう。
そんな考えは、麻袋が棚からずり落ちて頭から被さった時に消えた。
「はーやれやれ、手間ァかけさせやがりましたわね。」
悪態を吐きながらようやくお目当てのものを見付けた時には、陽は高々と南中を過ぎていた。侍女に咎められながらも着古したワンピースを着ていて良かった。埃まみれだがお貴族様なので、いつ風呂に入っても構わないのである。湯を沸かすのは自分でやるし。
探していたのはバットだった。セイヨウトネリコで作られたそれは、前世で馴染みのある野球のバットよりも遥かに短く、しかし形状はそのままである。
ラウンダーズ。18世紀発祥の球技で、児童達の間で流行り野球の原型ともなったスポーツだ。諸説ある。
そして、転生したこの世界の元となったゲームでは主人公が貴族子女達とラウンダーズで天下を目指し、いわば栄冠ナインを繰り広げるのだ。
(なんでやねん。)
つくづくそう思うが、否定は出来ない。なぜなら、クララも幼い頃に遊んでいたからだ。
前世の記憶は、生まれた直後から覚えていた。そのせいで乳母の豊満な乳房に吸い付くのも抗えぬ便意にも抵抗していたが、生存本能を前にして惨敗したのだ。当時の羞恥心も相まって身の回りの世話は自分でやり、周りからは貴族子女にしては自立心の強い子供と思われていたようである。当たり前だ。
しかし、ゲームに関してはまるで覚えていなかった。兄達がバットを振り回し、球を当て、ベースを踏みながら走る様を見ても「ややや、野球だー!」以外に思い出す事はなかった。なぜこの世界に転生してしまったのか、甚だ疑問である。
そして前世では野球中継に野次を飛ばすだけだった喪女は、兄を始めとする貴族令息に野次を飛ばす令嬢となった。さすがに高貴なる身分では野次を飛ばさないと気付き、幼少のみぎりのお転婆な思い出として処理されたが。ちなみにクララ自身の野球スキルは、お察しの通り。
なぜ、このバットを探したのか。それはゲームのシナリオと関係があった。
球技と恋愛と経営をごちゃまぜにした稀代の謎ゲーム「恋する☆ペナントレース」は2までリリースされており、本来であればクララは2の攻略対象キャラクターであった。そして主人公は女性。これ以上は言うまい。
主人公が攻略対象キャラクター達と出会うシナリオは共通ルートとしてどの人物とも好感度を上げる事ができ、そこから各ルートへと分かれていく。クララのルートで導入部とも言えるイベントで、主人公はこのバットを見つけるのだ。
社交シーズンも終わりに近付いた、ある日の昼下り。
新人の領地査察官として公爵家に派遣された主人公は、公爵から娘を紹介したいと言われるも、その令嬢が見当たらない。そして二人は出会うのだ。今まさにクララが立っている、木漏れ日の差す美しい庭園で。
慈愛の籠もった眼差しで馬にブラシをかける令嬢。それを手伝おうとした主人公は、納屋の片隅に眠るバットを見つける。それに彫られた名前を見て、持ち主が目の前の令嬢だと知るのだ。
『昔はお転婆でしたの。恥ずかしいわ。』
はにかみながら話す姿とその過去に、深窓の令嬢とは違う一面を知り、もっと話をしたいと主人公は思うのだった。
(開発者は百合厨。はっきりわかんだね。)
第二王子を虜にしたジャイネスも、元は無印の攻略対象キャラクターだ。まさかの百合ルートが好評を博し味をしめたのか、気合いの入れ具合が他のシナリオを上回ると評したレビューを読んだ事もある。
他人の性癖に口を挟む気はないが、可愛い女の子を愛でるのと恋愛関係に発展するのは別だ。実際にプレイしていたらどんな気分だったのか。記憶が戻る前もその後も、プレイしておけば良かったなどと思う事は一度としてない。
子供の頃は両手で振り回していたバットも、長さだけで言えばちょっと大振りのケミカルライトほどの大きさだ。芯の詰まったこの重さも、大人に近付いた今ではなんてこともない。ゲームの内容に関しては何一つ感慨深いものなどないが、幼い記憶を懐かしいと感じた事で、自分はこの世界でもちゃんと生きてきたのだと安堵の気持ちが湧き上がる。
だから、ちょっとバットを振ってみたいとクララが思ったのも、残念だが当然の事だろう。
世の転生令嬢が途中で記憶を取り戻すのは、赤ん坊の頃からまともな思考回路だったら発狂するからだと思う