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          〇


 山道をのぼる自転車はよたよたと、這うようにしか進めない。一漕ぎごとにかごが暴れて、ひどくうっとうしい。

 朝陽は山肌に隠れて坂道には影が落ちている。それでも汗をかき、息は切れた。木立の途切れるたびに小さくなる街並みが、疲労と元気とを等しく与えてくれた。

「ああ……しんど……」

 ずっと立ち漕ぎだった。筋線維が一本ずつ切れていくみたいに痛んだ。ハンドルを握る手もだるい。クランクが折れ曲がるのではないかと思うほどの力で、ようやくペダルは回っていく。ギィギィとかごが嫌な音を立てて揺れる。

 やめてしまおうか。そうすれば楽になれるんだ。

 この道の先に三条がいる自信も、説得して連れ戻す自信も、そもそも、今していることが正しい自信もない。自分自身に自信がない。原田はなんて言ってたっけな、自信の持ち方。

 それなのにどうして俺は、こんなことをしているのだろうか。

 考えれば考えるほど、責任や義務や正当性や、常識も倫理も何もかも、ぼろぼろと身体から剥がれ落ちていき、俺がこうすべき理由は何ひとつないように思われた。

 自信という背骨を持たない俺は、そういうものに鎧われていなければ立てもしなかった。自分の気持ちよりも正しい理屈を、いつだって頼りにしていた。人間としてあるべき姿を求めていた。

 その生き方が間違いだったとは思わない。自分の気持ちを優先していたのでは、きっと家族は崩壊していた。

 かごが揺れる。嫌な音をたてる。それがいくら壊れていたって、かごのない自転車の頼りなさが不安だった。

 何ができるかわからない。何かできるのかわからない。自分にその資格があるのかもわからない。何一つ、わからない。

 それでも――

 食いしばった歯の隙間から、熱い息を吐き出した。ペダルを踏みしめた。ハンドルを絞るように車体を振って一漕ぎ分のぼった。

 かごが揺れる。

 傾いた重さに引きずられて、転びそうになったのを立て直して、錆びて脆くなったかごの首を引きちぎった。

「邪魔っ!」

 投げ捨てたそれはカランと寂しげに、茂みへと消えた。

 腕がだるくて、脚が痛くて、呼吸も満足にできなくて、折れそうな心を支え突き動かす、この気持ちは――



 峠から脇道にそれてしばらく木立を進むと、だだっ広い駐車場が現れた。いちおう外から目につかない場所に自転車をとめて奥へ進むと、さらに上へと道が続いている。

 木々の腕がトンネルをつくる長い階段に並行してモノレールの軌道があったが、乗り物自体はどこにもない。あったところで動いてはいないだろうが。

 階段を上りきると、まったく廃墟と化した遊園地が姿を現した。あちこちに雑草が生え、植え込みのそばは木の根に押し上げられたアスファルトが歪だった。剥げていない塗装はなくて、あらゆる金属に錆が浮いている。

 持ち出せる物だけすべて売り払い、解体に費用のかかるものは放置していると言われれば納得というありさまだった。建物の壁面やアトラクションの支柱にいくらか落書きがあったが、それもいつ描かれたものかわからない。不良が溜まり場にすることさえ遠慮する立地の悪さだ。

 三条を捜しながら奥へと進んで、安っぽい城か、あるいは教会かというような洋風の建物に行き当たった。どういう施設か書いてあったのだろう看板らしきものは、スプレーアートに消されてしまっている。

 入口の扉がわずかに開いている。軋みを上げるそれを押し開けた。

 中は案外と明るくて広い。何もない空間。正面には一段高い場所があって、そちらの壁には大きなステンドグラスがはまっていた。まるでその絵の一部のように、窓台に腰かけた三条の影があった。

 一歩ごとに床が鳴った。十分に近付くと、うとうとしていたらしい三条が、まどろんだ瞳をこちらに向けた。

「あれ、藤村君。どうしてここにいるの」

 倦んだ様子で三条は言った。

「三条がいるからだろ」

「そうなんだ」

 アラベスク模様を描く光が、無感動そうな顔に落ちている。

「三条こそなんでこんなところに」

「だって……ほかに行くところなんて思いつかないし」

「そうか。ここで良かった」

 長く息を吐いて呼吸を整え、「帰ろう」

「帰るって……みんな私がいないほうが助かるでしょ。だから、いいよ」

 自棄の後の自己嫌悪を、口元に浮かんだ自嘲気味の微笑みに浮かべた。そんな表情を見ていると、こちらの胸が苦しくなった。

「そんなこと……みんな心配してた。北村とか野木だって、朝まで一緒に捜してたんだ。三条のお母さんだって……」

「そうなんだ。それじゃ、よけい帰れないな」

「どうして」

「だって、そうでしょ。ずっと迷惑かけてたのに、心配までかけて……どんな顔すればいいの」

 彼女の声は震えていた。良い子の殻に閉じ込めてきた自分と、自分以外とに向けた感情が、殻に亀裂を入れて溢れていた。

「これからどうするんだ」

「わかんないよ、そんなの」

「じゃあ、どうしたくないんだ」

「……わかんない」

「それならさ」

「それならなんだよ」

 俺の足下に目をやって、じっと動かない。瞬きもしない。無感動そうな顔は、決して無感情ではない。渦巻いた感情のどの色を表せば良いのかもわからないでいる。

 俺は三条に何をしてあげられるのだろう。どんな言葉をかければ良いのだろう。意味もなくてのひらを見た。まめでごつごつしているわりに、子供っぽい手。もつれた三条の心にどう触れれば良いのかと、おろおろと戸惑う手。

 無意識にそんなことからも逃げていたのだなと、握りこぶしを作り、開いた。

「……あのさ、三条。もし嫌なんだったら、ピアノなんて弾かなくてもいいんだよ」

「……どうして」

 三条がぽつりと返事をして窓枠から降りた。

「北村は無理としても、先生が代わりに」

「どうしてそんなこと言うの。お母さんも、藤村君も」

「だって、三条が辛そうにしてたら……」

 三条の話しぶりから、まるで見限られたように思っていたけれども、三条の母親も同じように、どんどんと自分を追い詰めてすり減っていく娘の姿を見たくなかっただけなのだと思った。三条の言うように厳しくとも、三条の思うほど冷酷ではない。

「それでも、私が引き受けたんだ。やらなくちゃいけないことだったのに、ちゃんとできないで……。何もできないのに、私の居場所なんて……」

 三条はきっと貢献の見返りが居場所なのだと思っている。そうしなければ自分の存在は認められないのだと自分を追い込んでいる。誰に脅されたわけでもないだろうけれど、彼女の生真面目さが、誰かの役に立つことで、与えられた仕事をこなすことで安心する。

 自信の埋め合わせに正しさを求めた俺と同じように、そうして寂しさを埋め合わせた。

「そんなこと……三条がいい奴だって、みんなのために頑張ってたの、きっとみんなも知ってるから。ピアノのことだけじゃなくてさ。だから、そんなこと……」

 伸ばしかけた俺の手を払いのけ、三条は胸倉につかみかかって叫んだ。

「いい奴なもんか! 誰にも構われたくなかったから目立たないようにして、責められたくないからやらなくていいことまでやってただけ。どうでもいいんだ、あんな奴らも……お母さんもお父さんも、みんなっ! おまえも!」

 攻撃的な表情で俺を睨むのに、とても哀しい顔だった。溢れそうになる涙をこらえているだけみたい。

「……なあ、三条。どうでもいいなら、どうして告白なんてしてくれたんだ」

 何を訊ねられているのだろうというふうに、三条が険しい顔のまま不思議そうにした。

「本当は三条、ただ寂しさ紛らわすためにあんなこと言ったんじゃないかって、思ってたんだ。たまたま俺がそこにいたってだけで」

 一瞬驚いたように目を大きくして、泣き出しそうな顔になって歯を食いしばった。

「そうだよ。独りぼっちは嫌だから……誰だって、なんだって良かった。藤村君はお人好しだし、ちょうどいいかって。恋人って関係があれば、ちょっとは安心できるかって考えただけだよ」

 胸倉を握った手がゆるんで、三条は項垂れた。

「それなのに、なんで……どうしてなんだよ……。どうして……楽だったのに……」

「三条?」

「藤村君は誰にでも優しくて、同じで、だから気楽だったのに……。普通に接してくれるのが気楽だったのに……なんでなの、わかんないよ」

 ゆっくりともたげた面に、はらはらと涙が伝っていた。

「どうして……なんで……祥子ちゃんと仲が良いの気に入らないの。どう思われてるんだろって、気にしなくちゃいけないの。どうして……祥子ちゃんみたいに……。昨日だって……! わかんないんだよ、私には……藤村君の顔がわからない」

 ステンドグラスの赤や青や黄や緑が、三条の表情を映していた。頬を伝わる涙のしずくが、俺の心にも流れこんだ。

 俺の劣等感や自信のなさが、まさか誰かを苦しめるなんて思うこともなかった。まるで別の生き物みたいに、口から感情が溢れ出た。

「陸上部で走ってる三条、すごく綺麗なんだ。知らないだろうけど。いつも見てた。同じクラスになってたって、最初は気付かなかったけどさ。だから……ホームルームのときも、晩御飯のことも、困ってるから助けたわけじゃ、ないんだよ。そうやって言い訳見つけて三条と一緒にいたかっただけなんだ。三条は勉強も部活も頑張ってるし、気がきいて優しいし……俺なんかがって、悪い気がしてた」

 相手を気遣うふりをして、自分の気持ちから目を背けていた。盲目的な善意で三条をからめとっていた。そんな卑怯が彼女を傷つけていたことにも気付かないで。相手にとって自分が足りないと思うのが、卑屈な恋心だと気付きもしないで。

「そうだって気付くのが怖くて、本当は都合が良いから一緒にいるんだって言われるのが怖くて、そうなんだろうって自分で決めてかかってた」

 胸倉をつかんでいた手を、ゆっくりとほどいた。その手の柔らかさがとても女の子だ。

「俺は三条のことが好きです。たとえ都合の良い相手だって思われてても、それでいいやって思えるくらいには」

 三条は何も言わないかわりに、潤んだ瞳でじいっと俺を見つめている。自分でも不思議なくらい自然と、彼女の両頬に手を添えて、親指で涙をぬぐった。そうして、そっとキスをした。一瞬、びくっと驚いたけれど、拒絶はされなかった。俺の腕に手が触れていた。

 たぶん、それが答えだった。

 近付けたときよりもゆっくりと唇を離した。

「俺、三条のピアノが聴きたい。歌うんなら、三条のピアノがいい」

 ちょっと瞠った目を困ったように伏せた、

「でも、もう……」

「大丈夫。行こう」

 手を取って走り出した。遊園地を飛び出して、階段を駆け下り、駐車場の隅っこの自転車にまたがった。三条は何も言わないで荷台に座った。

「山、下るから。ちゃんとつかまってろよ」

「うん」

 腰に回った腕に、ぎゅっと力入った。彼女の鼓動を背中に感じた。

 動き出した自転車は、ぐんぐんと速度を上げていく。



 暗幕を払いのけて飛び込んだ体育館には、ピアノの余韻が響いていた。ややあってから拍手が起こった。さらに間をおいてマイク越しの声。

「二年三組『翼をください』でした」

 間に合わなかった。

 拍手を送られて、そこだけ明るい舞台から降りてくる連中は、確かに二年三組だった。酷使した脚から一気に力が抜けて倒れそうになるのを、三条にそっと支えられる。

「続いて――二年一組『春に』」

 体育館に響いたアナウンスに、三条と顔を見合わせた。どういうことだろうと思っていると、ばらばらと立ち上がり始めた人影から、あ」と声があがる。「三条!」

 俺たちは小走りに彼ら――クラスメイトのところへ向かった。「雫!」と、保護者席から声がしたけれど、三条はその方向をちらりと見ただけで足は止めない。

「ごめん、みんな。迷惑かけて」

「いや、それはいいんだけど」

 北村が俺と三条を交互に見てから訊ねた。「伴奏、どうする」

「できるかわかんないけど……やる。弾きたい」

 するりと解けてから、三条と手をつないでいたことに気が付いた。

 三条はポケットから髪ゴムを取り出すと、まっすぐにピアノを睨んだまま無造作に一つくくりにした。自転車を漕いできたのは俺なのに、舞台照明を受けた彼女の顔は上気していた。

 列を作って舞台に上がる。男女別に二列横隊になりながら、ピアノに向かう三条を無意識に目で追った。彼女が手早く椅子の高さを調整して座ると、屋根と譜面台の隙間に見え隠れした。

 準備が整うと、原田がすっと手を上げた。

 のっけから三条のピアノは、伴奏とは思えないほど、自己主張をした演奏だった。ひょっとすると「春に」という題名や歌詞、そしてメロディに溢れる、静かな芽吹きのイメージすらなかった。

 けれども、これまで聴いた彼女のピアノで、もっとも美しい音色だった。その力強い調べに引きずられ、歌う側にも熱が入っていくけれど、そうするともう合唱と呼べるような調和も取れなくなった。

 騒々しい教室を思い出す。てんでばらばらの喧騒が、確かな一つの空気を作っていて、ほんの何メートル四方の教室には収まっていられないエネルギーが渦巻いている。

 歌いながら横目に三条をうかがた。寝不足の頭が見た幻だろうか。同じ曲をこれまでと全く違う印象で奏でる音色に、いろんな色がついて、彼女の周囲に広がっているような気がした。

 それはきっと三条雫の内側から溢れ出した彼女の感情だ。

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