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上体を大きくそらして、転落防止の丸太に体重をかけてから勢いよく前のめりになって撥を振るう。タイミングがぴたりと揃った音は腹に響く。正面の三人とアイコンタクト。次に身体を起こしたときに、通路をはさんだ向こう岸にクラスメイトたちが見えた。
さっきまでは原田たちとやっていたのに。どうしてこんなタイミングかな。恥ずかしい。
人数の関係で、小学生の組に入れられた己の不運と小さな体格を嘆く。
ちらちらそちらを見ていると、いきなり一人が走り出した。霧島祥子だった。なんでだろうと思っていると、後を追ったのは三条雫。なるほど、そのつながりか。
すっかり酔っ払った監督役のお爺さんから終わりの合図を出されて、俺たちは山車から降りた。
「お疲れェい。もう終わりだから、祭り楽しんどいで」
小学生たちはわらわらと人ごみに紛れていく。
人ごみから原田たちを捜すのも面倒で、かと言って一人で回って楽しめるほど子供でもない。テントの隅に置かれたクーラーボックスからサイダーを一本取って、テントの裏へ出る。小さな竹藪に沿って奥へ進むと、本殿の横手に出る。
振り返ると祭りの屋台が木々の向こうに見え隠れして、喧騒は夢心地の遠さから聞こえてくる。灯りといえば末社に吊るされた提灯が、ぼうっと闇に浮かんでいるだけ。祭りという非日常にぽっかりとできた空洞。俺はここで、まどろみの夢のように祭りを感じるのが好きだった。
神社の建物へと続く扉の前に石段がある。そこがお決まり場所だったのだが、先客がいた。三条雫だった。
動きやすそうなシンプルな服装で、疲れ切ったように身体を社殿に預けてぼんやりしている。こちらに気付くと「あっ」と声を漏らして、取り繕うように身体を起こした。
「なにしてるの、そんなところで」
「藤村君こそ……」
「俺はようやく仕事が終わって、休憩しに来たところ」
右手の冷たい感触に俺はしばし考えて、それを三条の隣に置いてテントに引き返し、別のジュースを取って来る。
「オレンジジュースとサイダー、どっちが好き?」
「えっ……わ、悪いよ、そんな」
「俺のじゃないから。町内会の差し入れ。どうせ余るんだし。飲まないともったいない」
「じゃあ、オレンジで」
「ん」
持ってきた缶を手渡して、サイダーを拾って三条の隣に座る。ずっとかぶりっぱなしだった帽子をとる。蒸れた坊主頭に風があたって心地良い。冷たい炭酸をのどへ流し込むと、自然と声が漏れた。
「それで何してたの。さっき、霧島といたろ?」
「あ、うん。ゴミ捨てに行ったらはぐれちゃって。やっと戻ったら誰もいなくて、探してたんだけど疲れちゃったから……」
「待ち合わせ場所とか決めてないの?」
「うん。携帯電話も家に置いてきちゃったし……」
「それはまあ、大変だな」
水気ですべるのか、三条は何度か失敗してから缶を開ける。すらりとしたのどがこくこくと動く。なんとはなしに見てしまう。
「いいだろう、ここ」
「え?」
「なんか、祭りの裏側って感じ。賑やかなのに寂しいみたいな」
「あ、うん。静かなところないかなってここに迷い込んだんだけど、いいよね」
三条は遠く闇の先に暖かな光をこぼす屋台を眺める。提灯にぼうっと浮かぶその顔は、いつもより大人びて見えた。
長いまつ毛の先を追いかけるように、俺も屋台の方へと目を向けて訊ねた。
「他に一緒にいたの誰? 外岡は見えたんだけど」
「野木さんと清水さんと、あとは北村君」
「ああ、あの辺か……」
サイダーを半分ほど飲んだころ、どっと疲れが身体を支配した。炎天下で一日動き回っていたのである。途中で夕食に帰っただけで、ほとんど休みはなかった。後ろの段に手をついてできる限り全身から力を抜いた。脚を投げ出すと、だるさが憑りついてくる。
「仲、良かったっけ?」
「えっと……あんまり良くはない、かな……」
「だよな。話してるイメージがない」
「そ、そんな友達いないみたいなこと……」
「いや、野木とかとな」
しかしそうは言っても、教室で賑やかにしている姿など見かけない三条だ。友達も大人しい性格をしているのだろうか。
「あ、でも、最近は話しかけられることとか増えたかも。今日もゴミ捨てに行くよって言ったら、お礼言われたし」
「言わないか? 普通」
「そうかな……私あんまり……」
誰に何を言うわけでもなく、音楽室の鍵を返しに行った姿を思い出す。
人ごみで見つからない人。三条はそうして、集団に溶け込んでいた。そうでなかったことと言えば、陸上部で走っているときくらいだろうか。
「イメチェンしたから、じゃない?」
「え?」
「雰囲気変わって、なんていうか……可愛くなった。だからさ」
「だったら、祥子ちゃんのおかげ」
「霧島?」
思いがけず出てきた知り合いの名前に首をかしげて横を見る。三条はオレンジジュースの缶を指でぺこぺこへこませながら、懐かしむような瞳でどこも見ていない。
「そういや、前もそんなこと言ってたっけ」
「うん、髪切ったほうがいいよって言ってくれたの、祥子ちゃんだから」
それは霧島のおかげと言うのだろうか。きっかけ、という意味ではそうだろうけれど。
三条は、
「そういえば……」と、呟いたまま黙りこくり、缶をすこしへこませては手を離し、またへこませてを繰り返す。手元の虚空を見つめる横顔が、葛藤するように険しい。頭とか心の中にある、何か一つを追っている。
音も光も変化のないせいでどれほどの時間が開いたのかはっきりとしないけれど、たっぷりとそうして考えた後で、三条はゆっくりと口を開いた。
「藤村君は……どうして?」
「何の話?」
「その……助けて、くれたでしょ。合唱コンクールの話し合いのときとか、夕飯のこととか……。髪、切る前だったのに」
「そりゃあ……」
言いかけて言葉がのどにつっかえた。正体不明の答えの代わりを考える。
どうしてなのだろうと記憶をたぐれば、思い出されるのは自分の制服以外に縋れるものもない教室での姿や、コンビニのやかましいほどの光を背負って、寂しげな影が落ちた夜。それらと目の前を疾走する輝いた顔との明暗だった。
捨て犬を拾えなかった後悔が胸のうちに疼く。正しいと、するべきだと思うことをしただけだ。困っている人がいて、自分にできることがあるのなら、それをすべきである。
それだけのことだ。
「まあ……当たり前のことをしただけ、だろ」
「当たり前、かな……?」
「顔が見えたらさ……その、困ってるなって顔。そういうの見ちゃったらさ。三条だって、三条じゃなくたって」
どうしてか拗ねたような、ぶっきらぼうな声になる。
「……そうなんだ」
微笑みなのか、落胆なのか、唇の端がやわらかに持ち上がる。
正しさを疑いながら何かをする、あるいは何もしないということは、ひどく不安になる。善意や倫理に照らされた正当性に従っていれば、とりあえずは間違わない。その安心が、心地良いだけだ。
そんな俺のずるさを、三条はあたたかな声音で、
「優しいんだね、藤村君」と、言った。それがとても、くすぐったい。
「優しいわけじゃないよ。そうじゃないと後で、うだうだ考えちゃうから。それが嫌なだけ」
「それを優しいって、言うんじゃないかな」
互いに言葉を見失って沈黙に包まれる。三条とは話している時間と黙っている時間の、どちらが多いのかわからない。そういうとき、いつも何かを話すべきなのか、それともこのままで良いのだろうかと考えてしまう。
三条は三条で、何を考えているものか、プルタブを指でいじって、そのたび揺れる缶から、ちゃぽちゃぽと音をさせている。藪の向こうの闇を、子供の歓声が走り抜けていく。驚いた三条がそちらに顔を向けたまま、声の聞こえなくなるのを待ってから、ぽつりと言った。
「あの……ありがとうね、藤村君」
「何が?」
「えっと……色々と」
息を漏らすような笑いをして、艶のある髪が暗さの中で、ふわりと光を揺らす。「コンビニに飽きたんじゃないんだ、本当は。ひとりぼっちでご飯を食べるのがさみしくて嫌だったんだ。窓から見える人の家が、すごく羨ましくて……。でも、ほら、一人でご飯屋さん行くのも、ちょっと恥ずかしいっていうか……。だから、藤村君が優しく誘ってくれて、私、すごく嬉しかった。藤村君のそういう優しいところ、私……好きだな」
三条はゆっくりとこちらへ首をめぐらす。緊張をしたように、ぎこちない表情。つくりは童顔なのに、いくらも年上に思える顔をしていた。
遠く木々の間に、祭りの灯りが見えている。頼りになるのは提灯のあたたかな光だけ。薄暗いというのか、薄明るいというのか、どちらなのだろう。どちらともつかない光の中で、三条は大人びているというのだろうか。子供っぽいというのだろうか。
やわらかそうな輪郭を見ながら、無意識にぎゅっと手を握り込む。豆だらけのその手をは、大人と呼ぶにはほど遠い。
ふいに息苦しさを覚える。世界が突然狭まってきたように、夜が圧力を増した。地面に転がった幼虫を思い出す。変わりたいのに、このままでいたい。この気持ちはなんだろう。
「あ、あの……、藤村君。だから、その……これからも一緒にいてくれませんか」
紅潮した頬と、懇願するような眉。かすかに震えた唇。遠回しな告白、なのだろうか。
けれども恋の甘さはやもどかしさはなくて、もっと切実な、縋るような熱がこもっている。目の底にむき出しの彼女を見た気がして、俺はふいと目をそらしてしまう。
どう答ええれば良いのだろう。どう答えるべきなのだろう。
三条雫はきっと、寂しいだけだ。心の隙間を埋める代用品として、たまたま俺がいただけで、そういう弱みにつけこむことは、正しいことだとは思えなかった。かといって、捨て犬を見捨てるみたいに、彼女を置いていくことも善いことだとは思えない。
「え……っと……うん。俺なんかで、いいのなら」
結局俺は肯いた。彼女が本当に必要とする誰かを、何かを見つけるまでの避難先であればいいという、言い訳を頭の隅に考えながら。
三条は細い息を震わせながら吐きつくす。最後にちいさく「ああ、よかった」と、折れてしまいそうな声で言った。
そのまま二人とも黙り込んでしまって、しばらく目を合わせたりそらせたり、意味もなく笑ってみせたりしていると、太鼓山車のあるテントから、人がひょっこりと現れた。
「雫!」
それは霧島祥子だった。
「祥子ちゃん?」
「ああ、良かった……こんなとこにいたんだ……」
霧島がちらりとテントのほうを見る。「で、ええと、藤村?」
「偶然見つけた。飲み終わったら、探すの手伝おうかと思ってた」
とっくの前に飲み終えていた缶をかかげる。
「あ、そう……」
事情を呑み込むと、警戒を解いたのか近づいてくる。野良猫みたいだ。
「ごめんね、祥子ちゃん。私探したんだけど、みんないなくなってて……」
「道、間違えたの?」
「た、たぶん……」
「みんな花火をしに行ったけど、もう終わってるかも。どうする、これから。二人でする? 花火」
「えっと……」
三条が困ったようにこちらを見た。その困惑は、どういう意味だろう。
「ま、見つかったなら良かったよ。俺、原田たちと銭湯に行く約束してるから」
「ああ、その恰好してたらタダだっけ」
「そういうこと」
気合を入れて立ち上がる。足腰が休ませろと訴える。「それじゃあ三条、また学校で」
「うん……またね」
胸の前で遠慮がちに手を振る三条に、振って返そうとしたまま恥ずかしくなって、中途半端に上げかけた手で頭をかきながら、その場を後にした。
町内会のテントに入ると、電灯の眩しさが瞳を刺した。目をすがめながら原田は戻っていないかと探したけれど、いるのはすっかり出来上がった年寄りばかりだった。
素振りをしていると、蒸気のように白い息が口から漏れる。半年前の冬のことだ。
時々、誰かに見られているような気持ちになる。規則的に並んだ蛍光灯の光と闇が、目のように感じられる。スイングが鋭くなるにつれて、意識の底へ沈んでいく。
その没入にいたる直前、ゴミ集積場のあたりの暗闇に、人影が現れるのが目に入った。建物へは向かわずに、まっすぐにこちらに来る。誰だろうと思って手を止めて、十メートルを切ったあたりでようやくその顔が判別できた。
夢みたいにあやふやな記憶で、いったい彼女と何を話したのかも覚えていない。ただ最後に、今にも毀れてしまいそうな顔をしてこちら睨み、それからやるせない息をついて、
「欺瞞よ、それは」
と、震える声で言っていたことだけは鮮明だった。
「――君? 藤村君?」
三条の声にはっとする。後ろをついて歩いていた彼女は俺を追い越して、少し先で振り返っていた。
急速に夏の夜の重苦しい暑気がよみがえる。通りを走る車を深海魚のように感じる。あわてて歩き出すと、三条は道幅を広く使うことを遠慮しているのか、わざわざ俺をやり過ごしてから斜め後ろをついて歩く。
友達ではないけれど一緒に夕食を食べるという曖昧な関係が、さらに曖昧なものになってからおよそ三週間、俺たちの距離は何一つ変わらずにいた。
夏休みに入ってしまうと週に二度の合唱コンクールの他は夕飯時にしか会わない。繰り返される事務的なメールのやりとりが、会いもしない旧友と交わす年賀状のように積もっていった。
そんなことを考えていたら、勉強机に埃と一緒に積もっているものを思い出す。
「そうだ、三条は宿題どれくらい進んでる?」
自転車を押したまま、首だけ振り返って訊ねる。あっさりとした調子で彼女は答える。
「ほとんど終わってるよ」
「へえ、偉いなあ」
そのあたり彼女はきちんとしている。目立ちはしないが成績は良い方だし、宿題を忘れることもまずない。大人たちは「手のかかる子ほど可愛い」と言うけれど、なるほどこっそりと優等生をしているのが、一番埋もれてしまうかもしれない。
「藤村君は?」
「ほとんど手付かずだよ」
「……もうすぐお盆だよ」
「盆には先祖じゃなくて水がかえって欲しいなあ……」
冗談が通じなかったのか、それとも単純につまらなかったのか、三条は返事をしない。信号が変わって、スポーツカーがやかましく通りすぎていく。長く尾を引いたそのエンジン音が消えてから、三条は唐突に口を開いた。
「お盆さ……その、藤村君って、田舎とか帰る?」
「いいや、特にそういうのはないけど。どうして」
「えっと……せっかく夏休みなんだし、遊びに……とか」
「ああ……」
「い……一応、その……私たち……」
ふわりと浮き上がった気持ちが、何かに絡めとられるように重くなった。生真面目な三条だ。仮にも付き合っているのだから、恋人らしいことをしなければならないと思っているのだろう。その誘いを受けることは、弱みに付け込んだみたいな、彼女の寂しさを盾に取るみたいで、一瞬喜んだことにさえ罪悪感を覚えた。
「あー……まだ部活がどうなるかわからないから……」
適当なことを言いながら、足を止めて振り返る。さっと身をかわすように目をそらした三条。遊びに行くことにも罪悪感を覚えるくせに、そうしないことにも申し訳なさがつきまとう。
自分がどうしたいのかもわからないで、誤魔化すように訊ねた。
「遊びに行くなら、どこがいい?」
「あ……えっと、遊園地……?」
「遊園地か……しばらく行ってないなあ…」
三条が気を取り直したように、明るい顔をつくろう。
「あっ、そういえば藤村君、今日は部活なかったの? 学校に来なかったけど」
「え? ああ、今日は練習試合だった」
「そうなんだ。どうだった?」
教のことを思い出して、俺は気が重くなる。
「勝ったよ」
「勝ったって言うわりには、嬉しそうじゃないけど、藤村君ってレギュラーじゃないの?」
「いいや、レギュラーなんだけど……」




