13
一匹の狐が、川べりの岩の上で居眠りをしていた。日の光にほどよく暖められた石の上に腹ばいになり、気持ち良さそうに目を閉じている。
ただし、それは狐といっても、そこらにいる普通のものではない。人の3倍はあろうかという、巨大な姿をしていた。
全身の毛は雪のように白く、時折り薄く開くまぶたから覗く瞳は、燃えるような赤色をしている。
その巨体もさることながら、一風変わっているのは、尾が無いのであった。
寝そべる岩は、真偽のほどは定かではないが、かつて鬼が自らの腰布を洗うのに使ったと言われる、この辺りでは『鬼の洗濯石』と呼び伝えられるほどの、平たく巨大なものである。
静かな時が流れ、聞こえてくるのは川のせせらぎと鳥のさえずり、時おり小動物の駆けて行く音くらいである。
狐は岩の上で、大きな欠伸をする。
『ああ、退屈だ……』
もうどれくらいの時間を、このように過ごしてきたのだろうか。三千年の時を超えてからは、数えることすらなくなってしまった。
自分が、神仙と呼ばれる存在になってからは……。
そういえば、この地に辿り着いた時は、まだこの姿ではなかったか……。
狐は思う。
長きに渡り、気の遠くなるほどの努力と修行を重ね、誰も己に手を出すことの出来ぬ存在になったのはいいが、それは存外に退屈なものであった。
もちろん、力がなければこのように自由には生きられぬし、己の生き方に後悔はない。
しかし、永遠にも近い長き生の中では、一瞬の出来事であったにも関わらず、今でも時々思い出す。
何の力もない、一匹の狐だった頃を。
いつ、飢えや外敵に襲われて死ぬかわからない恐怖に怯えながらも、生きることに精一杯で、充実していた日々を。
『フフ、くだらぬ。所詮は無いものねだりか……』
そして狐は、いつものごとくただ時間を過ぎ行かせるためだけに、再び目を閉じた。
だが、その時であった。
ふいに、茂みがガサガサと音を立てたかと思うと、小さな生き物が飛び出して来た。
むろん、そんなことで驚く狐ではない。この山にはおらぬが、例え熊や大陸で見たことのある虎が出てこようが、自分が一睨みすれば、恐怖のあまり息絶えるだろう。
さて、野犬か狸かと思い薄目を開けて見てみれば、意外なことにそこに立っていたのは、まだ幼い人間であった。
狐とて、随分と長い間人間との関わりは絶っているが、それでもわずかばかりに人を見かけることはある。
その人間は、おそらくここ100年ほどで見なくなったであろう、今時にしては随分と古臭い格好をしていた
その小袖の着物を着た少年は、狐の姿を見るなり言い放った。
「おまえ、『くーこ』だな?きょうから、おれの式になれ」
『この小童は何を言っているのだ?』
さすがの狐も、すぐには少年の言葉を理解できなかったが、少年の身なりや態度を見て気付く。
『そうか、こ奴は山の中腹辺りに住まう、陰陽師の一族か』
確か、御門とかいう一族がこの山に住んでいたはずだ。
確かに、はるか昔には諍いを起こし、争ったこともあったが、このままではいずれも大怪我程度ではすまぬという判断と、狐が神仙と呼ばれるようになり、人の世の営みから遠ざかってからは、接点もなくなっていった。
『それにしても、このような小童が我を式にするだと?』
幼いとはいえ、あまりの愚かさぶりに、久しぶりに笑いが込み上げてきた。
「フフ、フハハハ!小童、我が三千の時を生き、神仙と称される『空狐』とわかってモノを言っているのか?」
「もちろんだ!おまえ、つよいんだろ?だから、おれの式にするんだ」
「フッ、面白い小童だ。だが、式になるということは、お前が我より強きことを証明せねばならんのだぞ?」
「じゃあ、どうすればいいんだ?」
少年は、真っ直ぐな瞳で空狐を見つめてくる。
『いい目をしている』
空狐は思った。このまま真っ直ぐに成長すれば、立派な陰陽師に成長するやもしれぬ。
それは空狐の立場からは複雑だが、かといって殺すわけにもいかぬ。
この少年を殺せば、陰陽師の一族との争いは避けられぬであろう。
そんな思いもあったが、それ以上に空狐の中で、悪戯心と言おうか、情と言うべきか、少しばかり少年に対する興味が湧いてきた。
『少しばかり遊んでやろう』
退屈な生の中で、随分と久しぶりに少しばかりの感情が芽生えた。
「いいだろう。では、勝負に勝てたらお前の式となってやろう。とはいえ、本気を出せばお前などひと飲みで終わってしまうしな……。そうだな、術比べでお前が勝てば、大人しく言うことを聞いてやろう」
「ほんとうだな!?」
「我に二言はない。しかし、延々と勝負を繰り返しても仕方がない。三つ……、いや、四つだ。4回術比べを行い、お前が一つでも勝てば、お前の勝ちにしてやる」「よっつだな?わかった」
少年は、何やら必死で考えているようだ。おおかた、自分のもっとも得意な術を順番に考えているのだろう。無駄なこととも知らずに。
しばらく考え込んでいた少年だったが、やがて意を決したように顔を上げた。
『やはり、いい目をしている』
空狐は、少しばかり気持ちが高ぶっていることに気がついた。結果はわかりきっているとはいえ、どれだけ自分を楽しませてくれるのだろうか……。
「さて、用意はできたか?まあ、情けとして、全てお前に先手をくれてやろう」
「なら、いくぞ!」
その言葉と共に、少年は懐から呪符を取り出し、空狐に向かい投げつけた。
呪符は真っ直ぐに飛んできたが、空狐に当たる直前に八つに割れると、洗濯石の周りに円を描くように落ちた。
すると、空狐の座る岩の周りに一斉に火柱が立ち、逃げ道を遮るように取り囲んだ。
不思議なことに炎は勢いを弱めることなく、空狐を包むように吹き上がり続けている。
「どうだ!」
「ほほう、年端も行かぬうちから、ここまで炎を操るとは。見事だ。だが……」
空狐は、尾をひと振りした。
無論、無いはずの尾が振れるのが見えたわけではない。だが、確かに振ったという感覚が感じられ、無いはずの尾からは竜巻のような突風が繰り出される。同時に周りを取り囲んでいた火柱は、一瞬のうちに消え去った。
「フハハハ、どうした?今のがお前の精一杯の術か?」
「う……、まだだ!」
さらに少年は新たな呪符を取り出すと、小刀を取り出し、自らの指の先を傷付けた。そして、その血を呪符につける。
「来いっ!!」
少年の叫びとともに、身の丈五間はあろうかという、巨大な蝦蟇蛙が召還されたのだ。
「ほほう、口寄せまで行えるとは……」
「どうだ!おまえじゃ、これいじょうおおきいものに、ばけることなどできないだろう!」
「フフ、これもまた、残念だったな」
言うが早いか、狐は洗濯石から飛び上がった。空中で一回転して地面に降りた狐の姿は、長さ十間を超える大蛇となっていた。
とぐろを巻いた大蛇を目の前にした蝦蟇は、まさに蛇に睨まれた蛙のごとくに固まっている。
「さて、まだ二つ目だが……。もう終りか?」
「つ、つぎだ!」
少年は新たな呪符を取り出すと、今度はそれを蝦蟇の体に貼り付けて、何かの印を結んだ。
「どうだ!」
すると、巨大な蝦蟇は、少年の手の平に乗るほどの小さな雨蛙となっていた。
「おまえは、おおきなものにはばけてられも、ちいさなものはむりだろう!」
勝ち誇ったような顔で少年は言う。
「なるほど、大したものだが……。残念だったな」
大蛇は空中へ飛び上がったと思うと、姿が消えてしまった。
「……?」
「ハハハハ、ここだ!」
見れば、空中に人の小指の先ほどの生き物が浮かんでいる。真っ白な毛並みに、よく見れば目もあることから、空狐が小さくなったものだろう。
「さて、なかなか楽しませてくれたが、もはや次はないだろう。さあ、おとなしく帰るがいい」
「まだ、さいごのしょうぶがのこっているぞ!」
少年は、まだ諦めていないようだった。
「無駄だ。なかなかの才能だが、お前では我には……」
その時、空狐は少年がわずかにだが笑ったように見えた。そして、懐から何かを取り出すのを見て、顔色を変えた。
「まっ、まさかお前……!」
しかし、その言葉は最後まで続くことなく、空狐は竹筒に飲み込まれていった。
「さあ、よっつめのしょうぶだ。ここからでられたら、おまえのかちだ」
「くっ……。まさか、このような古典的な手に……」
竹筒の中で、必死にもがく空狐だったが、陰陽師の封印術に捕まってしまったのだ。どうあがいても脱出は不可能だろう。
ガタガタと竹筒を揺らすだけで、為すすべもない。
やがて、空狐が諦めかけた時だった。不意に体が軽くなり、周りの景色が明るくなった。
気付けば、目の前に少年が立っている。
「お前……」
あろうことか、少年は自ら封印術を解いたのだった。
「な、なぜ……?このままいけば、お前の勝ちだっただろう」
「べつに、むりやり式になってほしいわけじゃない」
「何……?」
「おまえが、式になりたくないなら、べつにいい。それに、たたかいにきたんじゃなくて、おねがいにきたんだから」
「何だと……?」
空狐は少年の言葉を思い返す。いや、あんな尊大な態度で願いなどと、誰がわかるものか!
空狐は元の姿に戻り、あらためて少年を見つめなおす。
しかし、見事なものだった。この齢にして術の見事さもさることながら、あの戦術である。
この少年は、確かに『お願いに来た』と言った。ある程度は争いになるかも知れぬと予想はしていたはずだが、まさかこのような展開になるとは思っていなかったであろう。
術比べも、四つの勝負というのも、全て空狐が言い出したことだ。
最後の手は古典的とはいえ、そのような話を少年が知っていたこと、それをあの場で瞬時に思いつき、実践したことは驚くべきことだ。
「一つ聞きたい」
「なんだ?」
「なぜ、強き力を求める?」
少年はしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。
「ともだちだったから……」
「何……?」
「あいつらは、ようかいだけど、ともだちだったんだ。でも、しちゃいけない、わるいことをした。だから、とうさまたちにころされた」
少年は、先ほどまでの強気な態度が嘘のように、苦しそうに話しだした。
「たしかに、あいつらがしたことは、わるいことだった。でも、おれにもっとちからがあれば、『くーこ』みたいにつよい式がいれば、あいつらがわるいことをするまえに、とめられたんだ」
空狐は少年を見つめる。そして、自らの中に新たな気持ちが芽生える。
『この少年がどのように成長していくのか、見てみたい』と。
それは、長らく眠っていた己の感情を呼び覚ますものだった。
「フフ、フハハハハハ。いいだろう、そもそも我に二言はない!お前の……、いいえ、貴方様の式として、この空狐、命を懸けてお仕えいたしましょう!」
「い、いいのか?」
「はい。この空狐、誠心誠意、貴方様の……」
「『ひーろ』だ。『みかど ひーろ』だ」
「はっ、わが主、ひーろ様」
高層ビルの隙間から見える西の空が真っ赤になる頃、一人の少女が町を歩いていた。
いつの間にか、随分と日も落ちている。いくら猫又の帰りが遅くなるとはいえ、そろそろ竹筒の中に戻らねばならぬだろう。
緋色と出会って以来、クーコの生は充実している。生きることに精一杯だった、あの頃よりも……。
そして、あの後の言葉で、今でも忘れられないものがある。いや、生涯忘れることはないだろう。
『くーこは、式だけど、ともだちでもあるから』
緋色の、あの言葉だけは……。
さて、『我が家』へと帰るかと振り向いたクーコが見たものは、そこに立つ緋色の姿だった。
「ひっ、緋色様!?いかがされたのですか?」
「いや、何、少しばかり遅いから心配になってな……。まあ、お前を心配するなんて、笑われるかもしれないだろうが……」
「いっ、いえ、そんなことはありません!う、嬉しいです!」
「そうか?それならいいんだが……」
クーコは、胸の内にじわりと温かい物を感じる。やはり、自分の見る目は間違っていなかった。
「そういえば、これをお返ししないと」
クーコは懐から、緋色から預かった財布を出す。
「何だ?まったく使ってないじゃないか」
「はあ、これといった使い道もないので……」
「まったく、どこかでお茶でも飲めばよかったのに……」
ブツブツとつぶやいていた緋色だったが、ふと思いついたように言った。
「そうだ!今日は銀華さんも晩ご飯を食べてくるし、クーコが使わなかったお金も余ってるから、二人で何か食べていくか」
「なっ、そっ、そんなもったいないことを……。私は別に、食事など必要ではありませんし」
「いやいや、そんな高いものは食べられないけど、日ごろのお礼も兼ねてだよ。それに、必要はなくとも、食べ物をおいしいとは思うだろ?」
「そ、それはそうですが……。しかし、お、お礼などと……、そんなことをしていただかなくとも……」
「たまにはいいじゃないか。そうだな……、うどんくらいなら大丈夫だろう。成田警部が言ってたんだが、お前の好きな、きつねうどんがおいしい店があるらしいんだ。なんでも、油揚げが物凄く大きいらしくて……」
油揚げと聞いて、クーコのお腹がクーッと音を立てて鳴った。
「ははは、お腹の虫は正直だぞ。じゃあ、行くか」
「はっ、はい!」
そうして二人は、赤く染まる町を寄り添うように歩いていった。
しばらく後、『緋色が美少女とデートをしていた!』という噂が流れ、一悶着あるのだが、それはまた別のお話である。
~『閑話 空狐』 完 ~




