ハクアの戦い
戦いが終わると、マリ達は生徒達に囲まれてどこかへ行ってしまった。
観客席で、ジンは一人溜息を吐く。
「お疲れ様でした」
いつの間にか、ハクアが隣まで来ていた。
「ああ、疲れた」
マリにはけして見せぬだろう面を、ジンは見せていた。
マリと戦って、ジンは心底疲れたのだ。
「初戦で味方同士で潰しあいとか、ハルカゼさんは何を考えてやがる」
思わず、愚痴が零れた。
「その代わり、私やクロウとジンさんは決勝まで当たりませんよ。何か交渉したんじゃないんですかね」
「なるほどね」
一人を捨てる代わりに、他の三人に健闘してもらうという考えらしい。
ハルカゼは中々曲者らしかった。
「私とジンさんでワンツーフィニッシュ、なんてなったら理想ですね」
「そうはいかないんだなあ、これが」
話に割り込んでくる男がいた。
イッテツがいつの間にか、ジンの背後に立っていた。
「師匠……」
「ハクアさんと私は準決勝で当たる。つまり決勝は私が出ることになる」
イッテツは微笑を崩さずにそう言いきった。
ハクアが不満げな表情になる。
「つまり、私とセツナさんで優勝と準優勝を分け合うのが妥当な予想と言ったところでしょう」
イッテツの口から、知らない人間の単語が出た。
「セツナ?」
「この町におけるカミト領剣士隊、ただ一人の上級剣士にて剣の達人。ジン君が順当に勝ち上がれば、準決勝で当たる相手ですよ。次に戦うから見ていましょう」
イッテツの言葉に従い、二人はリングに視線を向ける。
一人は筋骨隆々とした大柄な男。持っている木刀が小さく見えるほどだ。
もう一人は引き締まってはいるが、細身な体と、整った顔立ちをした男だった。木刀を両手で構えている。
「始め!」
審判の声と共に、大柄な男が木刀を斜めに振り下ろす。
しかし、細身な男はしゃがみこみ、相手の木刀の軌道から既に体を外している。
細身な男が立ち上がる勢いのままに相手の腹を突く。
大柄な男は蹲って、腹を押さえた。
「そこまで!」
一瞬の戦いだった。
「素早い……」
ハクアが言う。
「いや、それ以上に読みが速いんだ」
ジンがそう補足した。
細身な男は、大柄な男が木刀を振り下ろす気配を見せた瞬間に、既にしゃがみ始めていた。
相手の動きを完全に読みきっていたのだ。
「あの男、天眼流ですか」
ジンは思わず、師に問うた。
「いえ、私は何も教えてはいませんよ。あの男、セツナさんは自然にそうなのです」
イッテツの微笑が、ジンには不気味に思えてきた。
「ジン君、私は君が勝つことを期待しています。決勝で待っていますよ」
イッテツは去っていった。
「本当、喧嘩沙汰が好きなお人だ」
ジンは呆れたように言う。
「楽しくて楽しくて仕方がないって感じの表情だった」
「決勝へ出るのは私です」
ハクアの声は、さっきまでと違って、やや情けなかった。
「と言いたい所ですが、確かにこの戦い。化け物の巣窟らしい」
ハクアは少し気弱になってしまっているらしい。
「俺にお嬢さん呼ばわりを辞めさせるんだろう」
ジンは苦笑交じりに言う。
「そうでしたね。決勝で会いましょう、ジンさん」
そう言って、ハクアは去って行った。
少し緊張しているらしく、肩が強張っていた。
(戦う前から大丈夫かね、あいつ……)
思わず不安になってしまったジンだった。
命に関わるような怪我さえしなければ良いのだが、と願わずにはいられなかった。
ハクアの初戦がやってきた。
相手は大柄なほうではないが、ハクアに比べれば上背が高い。
「おーい、ジロウ。女に負けるなよー」
「負けたら裸踊りだからなー」
揶揄の声が飛ぶ。
ただ一人の女性の参加者ということで、ハクアは悪目立ちしているらしい。
男もその声で気負っているらしい。顔には気合が充満している。
対して、ハクアは無表情だった。
「始め!」
審判の声が上がる。
男は真正面から木刀を振り上げ、振り下ろした。
力勝負に出たのだ。
ハクアはそれを馬鹿正直に木刀で受け止めた。
男は力任せにハクアを押そうとするが、ハクアは後ろ足で踏ん張ってけして後退しない。
場はこう着状態となった。
男の顔が、徐々に訝しげになっていく。
男が剣を引き、後退してハクアと距離を取る。
ハクアは何事も無かったように立っていた。
男の全力の木刀を受け止めてなお、何事も無かったかのように立っていた。
その表情は、静かだ。
男が再び打ちかかってきた。
ハクアはそれを受け止めつつ、相手の木刀の下を滑るようにして木刀を走らせた。
そのまま、ハクアはすれ違い様に相手の首筋を叩いていた。
「そこまで!」
審判が声を上げる。
驚きで沈みかえる会場で、ハクアは木刀を腰に差し、何事も無かったかのように会場を去って行った。
(負けず嫌いな女だ)
頬杖をつきながら観戦していたジンは、思わず心の中で呟いた。
(一撃目、避けられるのにわざわざ真正面から受け止めやがった)
ハクアの身体能力は、ジンが想定していたよりも上にあるようだった。
それは、嬉しい誤算だった。
「先生、先生って剣はあんまり強くないの?」
マリは観客席で、生徒達に囲まれていた。
生徒といっても、大人と言って良い歳の生徒もいれば、子供もいる。
大人と言って良い歳の生徒、リコが顔をしかめた。
「先生にそんなこと言わないの」
「いやいや、相手が悪かったんだよ。先生が戦ったのは、先生の剣の師匠だからね」
マリは男声を作って、苦笑しながら返答する。
「剣の師匠なら、こんな場所でぐらい弟子に勝ちを譲れば良いのに」
無茶なことを言うのはリコである。
「まあ、師匠なら、俺の分まで勝ってくれるって信じてるよ」
マリは苦笑するしかない。
「そうですね。皆、先生の代わりに先生の師匠を応援しよっか」
リコの声に、生徒達は頷く。
「ところでリコちゃん」
マリは、気まずい表情で言う。
「ちょっと距離、近くない?」
「そうですか?」
リコはそ知らぬ顔で答える。
「肩と肩、ぶつかってるし」
「子供がたくさんいますからね。席が詰まってるんです。先生はお嫌ですか?」
ここではっきりと嫌だと言えないのがマリだった。
「そんなことはないけど」
曖昧な返事をしていると、リングにジンが現れた。
右手に木刀を持っている。
相手側の剣士も、木刀を両手に握り締めてリングの中へと足を踏み入れた。
「始め!」
審判が声を上げる。
相手側の剣士が木刀を振り上げた瞬間、ジンは既に相手の首筋を突いていた。
「そこまで!」
ざわめきが会場を包む。
「あいつ、サクマ領なのにやりやがる」
「本当にサクマ領か? 客員剣士か何かか」
「あいつだよ、王家の剣を持ち帰ったって奴」
「ハルカゼの手柄じゃなかったってわけか?」
子供達も驚いているようだ。
「強い……!」
「一瞬で決まっちゃったよ」
「あの人と良い勝負をした先生も、十分凄いね」
「だろう? 俺の師匠は強いんだ」
思わず自慢してしまうマリだった。
今まで、ウラクに押され、マリと接戦を繰り広げたジン。ともすれば身体能力に優れていないように見えるが、相手が悪かっただけで本人の素早さも相当なものなのだ。
そうでなければ、ウラクやマリの攻撃を回避することなどままならない。
「やりましたね、先生」
リコが、マリの腕を抱きしめるようにして言う。
その胸が、マリの肘に押し付けられている。
「ああ、そうだね……」
(逃げたい。いや、女ってことをばらしたい)
マリはマリで、その場の状況と戦っているのだった。
ジンも、ハクアも、クロウも、破竹の進撃を見せた。
素早さと読みで相手の攻撃を無力化するジン。
相手の攻撃を受け流しては的確な反撃を与えるハクア。
身体能力と剣の腕で、順当に勝ち進むクロウ。
サクマ領の三剣士の快進撃は、サクマ領弱しのイメージを持った会場に衝撃を与えた。
一方、イッテツとセツナも順当に勝ち上がっている。
中でもセツナは、相手とまともに打ち合うこともなくここまで勝ち上がってきている。
中には打ちかかってくる剣士ばかりではなく、様子見をしてくる剣士もいるのだが、そんな剣士は餌にかかる魚の如く、セツナが作った隙に打ち込んでは一撃で返り討ちにあった。
「あの中に、私のガーディアンに相応しい剣士はいるかのう」
ルリが、呟くように言う。
ここまで勝ち上がっているのは、セツナ、イッテツ、ジン、ハクア、クロウ、そしてフクノ領の剣士が三人だ。
「こんな所でお探しにならなくとも」
護衛の一人が、不満げに言う。
ルリは村娘の格好に身を包み、周囲に溶け込んでいた。
それを囲む護衛達も、ソウフウ隊の格好をしている。
「例えばお前達なら、誰が一番適任だと思うかえ?」
ルリの言葉に、護衛達は沈黙を持って答えた。
「これは命令じゃ」
やや苛立ちながら、ルリは言葉を重ねる。
「カミト領のセツナ様ではないでしょうか」
護衛の一人が、しぶしぶといった感じで名前を上げる。
「それは家柄を重視しての選択じゃの」
「いえ、実際セツナ殿の技量が一番高い」
「そうですね。セツナ殿が順当でしょう」
「じゃあ、セツナを除外したら?」
再び、沈黙が場を包む。
「命令じゃ」
急かすように、ルリは言葉を重ねた。
「サクマ領のジン殿でしょうかね。腕が違う」
「いや、安定度ではクロウ殿ではないかな。防衛の剣に長けているように見える。あれならば護衛として一流の腕を発揮しましょう」
「イッテツ殿はやや歳だしなあ」
そんな会話をしているうちに、ハクアとクロウがリングに上がってきた。
「勝てよー、ハクア! 俺は大穴のあんたに賭けてるんだ!」
「クロウー、俺の生活費をお前に捧げたぜ!」
なにやら会場内では賭けが発生しているらしい。
護衛達は顔をしかめている。
「町民達の戯れ、気にすることはない」
ルリは飄々とした表情で、護衛達を抑える。
「しかし姫、剣士の尊厳というものが」
「この場ではルリだと言っておろう。町民と剣士隊との距離が縮まるならそれにこしたことはない。さて、お前らが一押しのクロウの出番だったな」
クロウは会場の中央で、ハクアと向かい合った。
審判が開始を告げる前に、クロウが地面に片膝をついた。
何やら喋っているようだ。
審判は、二人が構えるのを焦れながら待っている。
「おーい、早くしろよー」
「何してんだクロウー」
「戦えー、戦えー」
不満の声が会場からも上がる。
クロウが審判に何事かを言った。
審判はしぶしぶと言った表情で試合の開始を告げた。
「始め!」
ハクアの一撃がクロウの首筋に叩き込まれた。
それは、怨嗟が篭っているかのような渾身の一撃だった。
「なんじゃ、戦わずして負けてしまったではないか」
ルリは興が削がれるのを感じながら言う。
クロウを推した護衛が、気まずげに沈黙する。
「八百長だー!」
町民達の悲鳴のような声が会場に木霊した。
ハクアがジンと決勝で戦うための最初のハードルは、クロウだった。
クロウは防衛の剣に長けた男であり、ハクアの兄弟子でもある。
それを打ち崩す方法は、ハクアには思いつかなかった。
しかし、ハクアも厳しい修練を積んできた身。今ならばクロウに一矢報いれるかもしれない。
そう思い、ハクアはリングに立った。
向かい合ったクロウは、この場に至ってこんなことを言い出した。
「私はハクア様に向ける剣を持ち合わせておりません」
そう言って彼は片膝をつくと、審判に向かって言った。
「さあ、試合を開始するのだ」
「良いから、構えてくれませんかね」
審判は焦れているようだ。
「良いから、早く開始するのだ」
審判はしばし迷っていたようだが、そのうち呆れたように開始の声を上げた。
ハクアの脳裏に様々な記憶が蘇る。
幼い日に二人で遊んだこと。
ハクアを一生守ると約束してくれた時のこと。
二人で城を抜け出て、船にもぐりこんだ時のこと。
剣士隊の宿舎で外出禁止を言い渡されて鬱陶しい思いをした時のこと。
窓から抜け出て遊んでいたのに無理矢理連れ戻されて鬱陶しい思いをした時のこと。
遺跡内で、ハクアが起きていなければ私は寝ないと仮眠を疎かにされて鬱陶しい思いをした時のこと。
外出するにも一々ついて来るクロウの鬱陶しさに辟易した時のこと。
そして今、ここに至って、剣を交えることなく膝を屈する相手の空気の読めなさに辟易としていること。
ハクアの中で、情よりも苛立ちが勝った。
ハクアは迷いなく、彼の首筋に剣を叩き下ろした。
クロウが地面に頭を打つ鈍い音が響いた。
「そこまで!」
審判が言う。
意識朦朧としたクロウが、ソウフウ隊の二人に抱えられて去って行く。
「それで良いのです、姫様」
クロウがうわ言のように言う。
「ハクアです」
ハクアは淡々と言って、木刀を腰に差した。
「すっきりしたあ」
思わず、思っていたことが喉を突いて出た。
飛び跳ねたいような気分だった。
ジンとマリがクロウの見舞いに行くと、笑顔のゲッカが出迎えてくれた。
「あら、また、また、また、また貴方達ですか。今日は何処の怪我ですか?」
「い、いえ。今回は知人の見舞いに来ようと」
これは何かおかしい。そう思いながら、ジンは答えていた。
「そうですか。今は他の神術師の人が治療しているから、もう少しすれば目を覚ますと思いますよ」
「上機嫌ですねー、ゲッカさん。さてはお手伝いさんが来てちょっと楽になりましたね?」
マリが余計なことを言う。
ジンは黙っていろと言いたくなった。
マリは感じないのだろうか。ゲッカの笑顔の裏にある、張り詰めた糸のような緊張感を。
「楽どころか、今日は怪我をした人が大勢来て休む暇もありません」
ゲッカは上機嫌だ。
その笑顔を見ていると、ジンはどうしてか背筋が寒くなる。
ジンはマリの肘を肘で小突いた。
それを、マリは何か勘違いしたらしい。
「それにしては上機嫌ですね~。彼氏でも出来ました?」
マリはゲッカの肘を肘で突く。
「貴方達が何があっても私の手を煩わせる催ししかしないと気がついたんですよ」
ゲッカが、急に真顔になった。
マリの笑顔が、硬直した。
「気付いたら後は簡単でした。私は回復する道具でしかないと。道具なら道具らしく笑顔でいようと思ったのですが、ここに至って彼氏が出来て浮かれているとでも思われたならそれは不本意って言うか」
ゲッカが、急に黙り込んだ。
ジンは何も言えない。
マリも何も言えない。
ゲッカがゆっくりと唇を開く。
「正直、絞め殺したくなりました。けど、その場合も治療するのは私なのかしら?」
「あの、知人を見舞ってすぐに帰ります」
ジンが言って、ゲッカの横を通り過ぎていく。
マリも無言で、逃げるようにしてその後に続いた。
「ごゆっくり~」
ゲッカの穏やかな声が背後から飛んでくる。
ジンはそれだけで背筋が寒くなるのだった。
丁度、クロウは目を覚ましたところだった。
「全身の力を篭めた見事な一撃だった」
惚れ惚れしたようにクロウは言う。
「私のような仲間にそこまでの一撃を叩き込む覚悟。ハクア様は問題なく勝ち上がるだろう」
クロウはしみじみとした口調で言う。
「いや、俺はお前が恨まれてるんだと思うぞ」
「私もそう思う……」
「まさか、ハクア様が私を恨んでいるわけがないではないか」
クロウは笑顔でそう言いきった。
ジンとマリは、顔を見合わせた。
互いに、なんとも言い難い顔をしていた。
ジンも順当に準決勝に勝ち上がり、ハクアが決勝進出を賭けて戦う番がやってきた。
ジンとマリは、観客席で隣り合って座ってリングを眺めている。
「生徒達はいいのかい」
ジンはマリに、どうでも良さげに問う。
「ちょっと席をはずしたくなりまして」
マリは、少し疲れた様子だった。
「リコちゃんか」
「リコちゃんです」
マリは、溜息を吐いた。
「いっそ全てをばらしたい……」
「ばらしても良いんだけどな。お前、男の巣に女が二人って状況で、あちこちから迫られても逃げ続ける神経の太さがあるかね」
マリは黙り込んだ。
ハクアとイッテツがリング上に現れる。
「師匠は、どっちが勝つとお思いですか?」
「そりゃ、先生だな。相手が悪すぎる」
「それは、絶対?」
「勝負に絶対はないけどな。今のハクアじゃあ、絶対に先生には勝てない」
「足りないものがあると?」
「殺し合いの経験さ」
淡々と、ジンは言った。
「ハクアちゃんだって、遺跡の中で散々戦ってきたはずですが?」
「そうじゃないよ。人間同士の殺し合いの経験だ」
マリの表情に、影が差した。
「化け物は本能で人間を殺す。人間は悪意を持って人間を殺す。相手の種類がちょっと違う。そのちょっとの違いが、大きな差となる」
「けど、これは殺し合いじゃなくて試合ですよ」
「まあ、そうなんだけどな。怯えるようなことがあれば、負けってことさ」
淡々と、ジンは言った。
ジンの脳裏に蘇るのは、コモンに刺されて倒れていたハクアの姿だ。
あの少女には、人間同士の命がけの戦場における経験が足りていないようにジンには思うのだ。
ハクアとイッテツは、リングの上で向かい合っていた。
「始め!」
審判の声がかかっても、二人は動かない。
相手の動きをじっと観察しあっている。
イッテツは微笑んで木刀を構えている。
その微笑が、今のハクアには不気味に見えた。
「羨ましいものです、若い才能と言うのは」
呟くように、イッテツは言った。
「その若さでここまで勝ち残る貴女の才は確かなものだ。この先どれだけ伸びるのか、計り知れない」
「……どうも」
ハクアは、淡々と返す。
「その才能を、手折りたくなる気持ち。貴女にはわかるかな」
予想外の一言に、ハクアは絶句した。
この男は今、何を言っただろう。
平和な町の剣術試合で、相手の才能を断ちたいとは言わなかったか。
この男は得体が知れない。そんな印象が、ハクアの中で強まった。それは紙に落とされた一滴の墨のように、ハクアの心を侵食していく。
「では、私から行きますよ」
イッテツは微笑を絶やさずに、言った。
イッテツが駆け出す。
その木刀が、右からハクアに襲い掛かる。
ハクアはそれを受け止めた。
そこまで、イッテツは読んでいたのだろう。
それと同時に、イッテツの蹴りがハクアの腹部を襲っていた。
ハクアはそれを回避しようとしたが、脇腹をイッテツのかかとが掠めていった。
相手の一言が気にかかって、戦いに集中しきっていなかったらしい。
ハクアは尻餅をつきつつも、急所だけは守ろうと剣を構える。
しかし、攻撃は予想外の場所にやってきた。
突かれたのは、腕だった。
ハクアはイッテツから距離を取るようにして慌てて立ち上がる。
鎖帷子越しの腕に、小さな痛みがあった。
この攻撃は、試合においては無意味だ。
しかしこれが真剣での殺し合いだったなら、とハクアは思ってしまった。
ハクアは腕に大打撃を受けていたかもしれない。
常人ならば、再び剣を持てるかどうかわからぬほどの。
心の中の黒い染みが広がっていく。
イッテツの笑みが、今は酷く邪悪なもののように思えた。
「行きますよ」
イッテツが再び言う。
ハクアは木刀を構える。
イッテツの攻撃が、左からハクアの首筋を狙う。
ハクアはそれを木刀で防ぐ。
イッテツの蹴りに対して注意を払っていたハクアは、次は右への突きに対する反応が遅れる。
繰り出される突きの数々を辛うじてハクアは弾いていく。
左肩に、木刀の先端が触れた。
ハクアははっとして、後退して木刀を構えなした。
もしも今のが真剣試合ならば、とハクアは再び考える。
ハクアの心にあるのは、恐怖だった。
今の一撃は、真剣試合でも大したことがないかすり傷だ。
しかしそのかすり傷を、ハクアはどうしてか、非常に恐ろしいもののように感じていた。
目の前の男は、自分の才を断とうとしている。頭の中に沸いたその考えが、ハクアの心を恐怖で染め上げていく。
ハクアの動きが鈍り始めたことを、イッテツは微笑みの仮面の下から観察していた。
ハクアに植え込んだ恐怖の種は芽吹き、今にも花を咲かせようとしている。
その時、ハクアは敗北するのだ。
ハクアの得意とするのは防衛の剣だ。
それを崩すには、やや手間取る。
さらにこれは試合だ。相手は鎖帷子で身を固めており、木刀で腕や腿への攻撃をしてもダメージはない。
四肢にダメージを与えて動きを崩していくことが出来ないのだ。
それならば、物理的に崩すより、精神的に崩したほうが容易かった。
ハクアの動きは徐々に、自身でも意識できない程度に萎縮していく。
イッテツがハクアを攻略するまで、そう時間はかからなそうだった。
イッテツとハクアは木刀を打ち合う。
しかし、ハクアの木刀に感じられた今までの力が、今はない。
イッテツは強引にハクアの木刀を叩いた。
ハクアの体勢が崩れ、首筋への隙が見えた。
あとは、一太刀で良かった。
やられる、とハクアは思った。
自身の動きが鈍っていることはハクアも感じている。
けれども、どうすることも出来なかった。
目の前の男が、どうしようもなく恐ろしいのだ。
目の前の男が抱く得体の知れない感情が、どうしようもなく恐ろしいのだ。
恐怖は剣を鈍らせ、ハクアを窮地に追い込んでいく。
ハクアは木刀を強く叩かれた。
体勢が崩れ、首筋への隙が出来たことがわかる。
「決勝で会いましょう、ジンさん」
脳裏に浮かんだのは、自身の言葉だ。
ハクアは、自ら左腕を敵の木刀の前に差し出していた。
左腕が思い切り突かれる。
真剣試合ならば、腕ごと喉まで貫かれていただろう。
しかし、これは木刀だ。
恐怖を超えたわけではない。
ただ、ハクアはやけになっていた。
一撃を防がれ、相手は次の動作に移るまでの隙が生じる。
「うわあああああああああああああ」
ハクアは叫んでいた。
鈍かった動作が嘘のように、滑らかに腕が動く。
そして、ハクアの木刀は相手の首筋へと向かって勢い良く走っていく。
その時、イッテツとハクアの距離が、首を伸ばせば接吻が出来るほどまで近付いていた。
イッテツの木刀が、ハクアの心臓の位置を突いていた。
ハクアは尻餅をつく。
「そこまで!」
審判が試合を止めた。
届かなかったのだという思いと、悔しさが、胸に沸いてくる。
恐怖に負けなければ、まだ自分は戦えただろうか。
いや、どの道負けていただろう。目の前の男との実力差は明白だった。
真剣試合だったならば、とっくの昔にハクアは満身創痍になっていたはずだ。
それでも、全力を出せずに負けたことが、悔しかった。
「最後の単調な攻撃、いけませんね」
イッテツは言う。
「しかし、鋭さは良かった」
そう言い残して、イッテツは去って行った。
決勝に残ったのは、イッテツだ。
敗者であるハクアも、リングを降りていく。
「良くやったぞ、ハクアー」
「女だてらに良くやった」
好意的な声が周囲から飛んでくる。
気が突くと、目の前にジンとマリがいた。
「まあ、良くやったよ」
ジンが言う。
ハクアはどうしてか、涙腺が緩むのを感じた。
二人と会った安堵感が、恐怖を打ち消してくれたのかもしれない。
「苛められました」
ハクアは苦笑交じりに言う。
「仇は取ってください」
ジンは苦い顔をした。
「俺の相手も相当手強いんだぞ。気軽に約束は出来ないな」
「ジンさんがここで負けたら、二人とも準決勝敗退で賭けが曖昧になってしまう。勝ってください。勝たなかったら、罰として何か一つ言うこと聞いて貰いますからね」
「無茶苦茶な……」
ジンはますます苦い顔になる。
「けど、ここで負けたらサクマ領の威信挽回の作戦が台無しになっちゃいますよ。せめて決勝戦までサクマ領の剣士は立っているべきじゃないですか?」
マリが、ハクアの味方をする。
ジンはしばし考えていたが、そのうち溜息混じりに言った。
「わあった、わあった。俺は負けねえよ」
ハクアは微笑んだ。
目の端から、涙が一滴零れた。
「約束ですからね、ジンさん」
「わかったよ、ハクア」
ハクアは頷いて、リングへと向かうジンを見送った。
そしてふと気がつく。
今、ジンはハクアのことを、お嬢さんと呼ばずに名前で呼ばなかったかと。
ハクアは、思わず苦笑した。
(不器用な慰め方だなあ)
ジンは歓声に包まれながら、リングの中へと入っていった。
次回
戦い終わって・・・