27:過去の亡霊
『……伊藤さん?』
忘れてしまいたかった。けれど忘れることができない、そして2度と聞くはずのない声だった。
「――扇野くん?」
僅かな名前のやり取りだけの時間に、何人かの顔が思い浮かんでは消える。
誰がこの番号をおしえたの?今の扇野くんと私を繋ぐ共通の知り合いはいない、はず。美夕は絶対に違う。横山さんだって違う。うん、2人は無関係。
では誰?まさか実家に聞いた?実家の番号を扇野くんに教えていたかな?それすら思い出せなかった。
『やっと出てくれた』
私の思考を遮る言葉が左耳に流れてくる。
「どうして?」と出かけた言葉は無理矢理収めた。今は周りの誰かを疑いたくなかったから。
「知らない番号だったから」
懐かしむような声の扇野くんに、温度のない返答を返す。小さく息が漏れる音がした。
『変えてないよ、番号』
「ニガテなの。数字覚えるの」
『知ってる』
すごく嫌な気持ちになった。何故そう断言できるの?「知ってる」と言い切れるほど扇野くんは私のことを知っている?本当に知ってるって言える?
語尾が優しく笑っているようで、たまらなく居心地が悪くなった。別れて5年も経った女相手に、ほんの数ヵ月しか相手をしなかった相手に、なぜそんな普通に話しかけられるの?
『ねえ、会えない?』
「無理」
迷うことなく断った。
「仕事、戻らないといけないから」
これ以上会話してはいけない。私の中で警告が鳴っている気がした。
『また掛けるよ』
掛けてこないで――そう願いをこめるように無言で通話を切った。
その日は珍しく残業をしないで定時で帰った。早く律くんの顔が見たかった。駅前のスーパーで買い物をして、家に戻り無心で料理を作った。律くんの好きなものをいっぱい作ろう、「おいしい」って言ってほしい。早く一緒にご飯が食べたい。
[今、出た]
律くんからのLINE。やっと帰ってきてくれる。すごく安心した。
[ごはんできてるよ。気を付けてね]
返信を返してから、煮物が入ったお鍋に火をつけた。
ピンポン、とチャイムが鳴り玄関へと急ぐ。
「おかえりなさい」
「ただいま」
本当はその場で抱きついてしまいたかった。でも突然そんなことをしたら、びっくりさせちゃうよね。私はパタパタとキッチンへ戻った。料理をお皿に盛りつけて、食卓の上に並べていく。
着替えた律くんが私の向かいに座る。テーブルの上を見て少し驚いているみたいだ。
「たくさん作ってくれたんだね」
「作りすぎちゃったかな」
ごはんの時は楽しい話をしよう。そう思って電話の話は今は止めておいた。
「いただきます」
食事の後、お茶を淹れてソファで寛ぐ律くんの隣に座った。律くんが選んで贈ってくれた大切なマグカップ。受け取った律くんが「ありがとう」って言ってくれた。
なんて切り出そう。
いきなり電話の相手は扇野くんだった、って言っても困るよね。律くんは扇野くんと私の間にあったことを知らない。けれど、昔の彼からの電話だった、って言うのは嫌だった。ここは正直に名前を出すだけでいい、かな。
「あのね、今日あの電話に出たんだ。扇野くんだった。なんでだろう」
何故番号を知っていたのか、何故今頃になって連絡をしてきたのか。何故と思うことはいくつもあった。
律くんには言わないで、そのままブロックしようかなとも考えた。けれどもし家まで探し当てられたらと思うと、気持ち悪くてそれは止めておいた。
しばらく律くんも黙っていた。そうだよね、困惑するよね。
「何か言ってきた?」
「うん、会える?って聞かれたから無理って返事したよ」
もう一言付け加えた。
「きっぱり断ったから、もう掛けてはこないと思うけれど」
『また掛けるよ』その言葉が頭にこびりついて離れなかった。
翌日の昼休みにも電話はかかってきた。今度は昨日より強く返事ができた。
「昨日無理って言ったはずだけれど」
『少しでいいから、土曜日暇?』
悔しいけれど、これが扇野くんだ。するすると気がついたら自分のペースに持ち込んでしまう。けれど、私だって学生の頃とは違う。2度とあなたには振り回されたりしない。
「無理、会わないから」
電話を切った。




