第二十話「春風の、向こう側へ」
桜の花びらが、ゆっくりと風に舞っていた。
季節は確かに移ろっている。
病院の正門を出たその先、東雲悠真は淡い色に染まる景色の中で、雪村遥の歩調にさりげなく合わせていた。
「ご迷惑を……おかけしました」
遥は、まだ少しだけ病み上がりの声で言った。
それでも、その目は真っ直ぐ前を向いていた。
「いえ。僕の方こそ、何もできなくて……」
「そんなこと、ありません。……あの夜、東雲さんがいてくれて、本当に……」
遥は言葉を探すように一瞬だけ口をつぐみ、そして小さく笑った。
「本当に、助かりました」
悠真はうまく言葉が出せず、少しだけ視線を逸らす。
彼女の笑顔は、以前より少しだけ柔らかくなっていた。
それは、今まで張り詰めていた糸が、ほんの少し緩んだような印象を与える。
二人はゆっくりと並んで歩いた。
春の風が、時折遥の髪を揺らし、そのたびに彼女は手で押さえては笑った。
「今日は……お茶でも、飲んでいきませんか?」
悠真の声に、遥は目を瞬かせる。
「また……あのカフェ、ですか?」
「ええ。あそこなら、静かですし……何より、あなたがいる気がして」
言ってから、自分の言葉に顔が少しだけ熱くなるのを感じた。
遥は驚いたように彼を見て、それから目を伏せた。
「……じゃあ」
遥は一呼吸、風を感じてから言った。
「私が……先に行って、席を取っておきますね」
悠真が驚いたように彼女を見ると、遥はほんの少しだけ口元を綻ばせていた。
「……冗談です。ご一緒します」
その日、二人が並んで歩いた帰り道には、何も劇的な出来事は起こらなかった。
それでも、確かにそこには変化があった。
心の奥に少しずつ積もっていくもの。
言葉ではまだ表せないけれど、それは春風とともに、静かに膨らみ始めていた。




