第二十一話「まだ、名前のない気持ち」
二人がカフェに向かって歩いていると、遥がふと立ち止まった。
歩道の先――スーツ姿の男が街路樹の影から現れた。
やわらかな春風に揺れる髪、そしてこちらを静かに見つめる瞳。
「……兄さん」
兄は腕を組み、わずかに眉を下げた。
「まだ、万全でないんだろう?――心配して来ただけだ」
悠真は少しだけ身構える。だが、その顔に見覚えがある。カフェから病院へ遥を背負って運んできたあの男――遥の兄だ。
「東雲悠真くん、だったな。……妹がお世話になっている」
「いえ……いえ、こちらこそ」
礼の言葉は素直なものだったが、その声の奥にかすかに揺れる葛藤のようなものが見えた。
「兄さん、ほんとに……ありがと。今日はもう、大丈夫だから」
遥の声には、遠慮がちだがやさしい温度が含まれていた。
兄の表情がわずかに崩れた。ほっとしたような、でもその奥に、ずっと消えない影を抱えているような目だった。
「……そうか。無理はするな。……本当に、何かあったらすぐに連絡をくれ」
「うん」
短い沈黙がふたりの間に生まれる。
その空気を感じ取った悠真が、控えめに一歩下がろうとしたときだった。
「……俺が、あの日早く帰っていれば――」
その一言は、まるで独り言のように空へ放たれた。
遥は一瞬だけ目を伏せ、そしてゆっくりと首を振った。
「……そんなこと、思ってないよ。私の方こそ……ごめんね」
兄は何も言わず、ただ遥の頭にそっと手を乗せた。
撫でるでも、押しつけるでもなく、ただそこに「在る」ような手。
その手に、遥は少しだけ寄りかかるように身を預けた。
「じゃあ、行くね」
「……気をつけてな」
並んで歩き出した悠真と遥。夕陽の落ちかけた歩道に、影がふたつ並ぶ。
「……兄さん、昔からああいう人なんです。すごく、心配性で」
「うん……なんか、わかる気がします」
「ほんとは、もっとちゃんと笑わせてあげたいんですけどね」
その横顔に、悠真は何も言えなかった。ただ、心のどこかに少しだけ灯ったものを、大事にしまって歩いた。
そして、まだ名前のない気持ちが、確かに――そこに在った。




