第十四話「触れられない傷、こぼれ落ちる光」
休日の昼下がり。
東雲悠真は、静かな自室で教科書を閉じた。
どうにも頭に入ってこない。
今日に限っては、ページをめくるたびに、ふと彼女のことが浮かんでくる。
──雪村遥。
先日のことを思い出す。
篠崎と来店したときの彼女の微妙な表情、
笑ってはいたけれど、その奥に何か──見えない翳りがあった。
(あれは、気のせいじゃない)
あの笑顔が、本物ではなかったことを、なぜだか確信してしまった。
今までなら、そういうのは深く考えなかったはずなのに。
けれど彼女のことは、気づけば気になっていて、
そしてきっと、自分が何も知らないことが、少しだけ悔しかった。
──何か、力になれるだろうか。
答えは出ない。
だけど、彼女が何も言わなくても、そばにいることならできるかもしれない。
そんな風に思っている自分に気づいて、少しだけ驚く。
スマホを手に取り、カレンダーを確認する。
講義の予定も、課題の提出もない。
となれば──行き先は、ひとつだけだった。
***
「いらっしゃいませ……」
今日も変わらず、彼女──雪村遥がいた。
けれどその顔色は、どこか冴えなかった。
「……カフェラテを。ホットで」
「はい……かしこまりました」
差し出す手がわずかに震えているのを、悠真は見逃さなかった。
忙しいだけだろう。そう思いたかった。
だが、どこか胸騒ぎのようなものが引っかかっていた。
読みかけの本を開いても、活字が頭に入らない。
彼女がカウンターの向こうで動くたび、視線が無意識に追ってしまう。
そして──
──割れた陶器の音が、店内の空気を引き裂いた。
「雪村さん!」
スタッフが駆け寄り、悠真も思わず席を立つ。
彼女の肩がかすかに揺れて、唇がうっすらと開いた。
「……ごめ、なさ……」
それきり、意識を失ったかのように瞼が閉じた。
「救急車、呼んで!」
慌てたスタッフの声が飛ぶ。悠真は彼女の傍に駆け寄ろうとして、足が止まる。
彼女の顔が、白い陶器のように蒼ざめていた。
──そんな騒ぎの最中、カラン、とドアベルが鳴った。
店内の空気が一瞬、止まる。
「……遥」
誰かが彼女の名を呼んだ。
低く、感情を押し殺したような声だった。
振り返った悠真の視線の先には、ひとりの男が立っていた。
黒いコート。鋭い目。整った顔立ち。だが、その顔には見覚えがない。
彼はスタッフにも何も言わず、ただ彼女の方へ歩いてきた。
その瞳に浮かぶのは、驚きではなかった。
まるで──あらかじめ予期していたかのような、冷たい静けさ。
「あなたは……?」
悠真が思わず声をかける。だが、男は答えなかった。
彼はただ、倒れた彼女を見下ろし、唇を噛んだ。
何も言わず、そのままスタッフに付き添われる彼女を見送った。
残された悠真の中に、妙なざわめきだけが残る。
いったい、彼は──?