第十三話 「名もなき想い、ミルクの香りに溶けて」
午後三時を少し過ぎた頃、扉のベルが静かに鳴った。
その音が響くたび、胸の奥が少しだけ跳ねる。
けれど、今日のその音は、いつもより少しだけ──予感に満ちていた。
扉の向こうから現れたのは、見慣れた横顔。
けれど今日は、彼の隣に、もう一人の男の人がいた。
(……友人、かな)
彼はやや背が高く、ラフなパーカーのフードを後ろに垂らしていた。
軽そうな口調に反して、彼の目は細やかなところをよく見ている。
そういう人だと、接客をする側はすぐに分かる。
──そして彼女は、カウンター越しにいるもう一人に視線を戻した。
東雲悠真。
無口で、表情に乏しいけれど、目だけはいつも真っ直ぐだった。
言葉よりも、視線の方がずっと多くのことを語っているような、そんな人。
今日は隣に誰かがいることで、少しだけ落ち着かない様子にも見えた。
そういう些細な変化に、なぜか自分の心が反応してしまうのが、少し恥ずかしい。
(いつから、こんなふうに気になるようになったんだろう……)
自分でもよく分からない。
ただ、あの午後の出来事──変な客に絡まれたあの日から、彼の言葉が何度も思い出された。
「……ほっとけなかっただけですから」
それだけなのに。
その“だけ”が、こんなにも胸の奥に残ってしまうなんて。
ふと、トレイを手にしてから、自分がいつもより慎重に動いていることに気づく。
飲み物を置く手も、少し震えていたかもしれない。
「お待たせしました。カフェラテとアールグレイです」
彼が、さりげなくトレイを受け取ってくれた。
あまりに自然で、戸惑いそうになる。
「ありがとう」
その声に、彼女は一瞬だけ応えるのが遅れた。
「……ごゆっくりどうぞ」
(落ち着いて。いつもの通り、接客をすればいい)
自分に言い聞かせながら、彼女は微笑む。
けれど、それは“仕事の顔”ではなく、どこか素の自分が混じってしまっていた。
二人が席に着いて話す声が、店内の静けさの中でぼんやりと響く。
ときおり聞こえる冗談。
笑い声。
悠真の低い声。
(……なんだろう)
楽しそうで、温かくて、少しだけ羨ましくなる。
そう思っている自分に、また驚く。
これまで誰にも心を開かないようにしていたのに。
──だって、知られてはいけないことがあるから。
(……だめだ、思い出さないで)
苦い記憶が、少しだけ胸を刺す。
彼女はゆっくりと目を閉じて、深呼吸をした。
笑顔を、保つために。
(きっと、あの人は……そんなこと、知らなくても、優しくしてくれる)
けれど、それがいちばん怖い。
知ってしまったあとで、それでも彼は変わらずにいてくれるのか──それが、怖い。
名前を知られていることさえ、どこか怖かった。
「雪村遥」──その名前が、何を背負っているのかを、まだ伝えるわけにはいかない。
それでも。
今日の彼は、カフェラテを飲んだあと、ふと小さく笑った。
「……うまい」
そのひと言に、不意に胸が温かくなった。
(……なら、また来てほしいな)
言葉にしない願いが、カフェラテの湯気に紛れて、そっと消えていった。




