エピローグ
水曜日、永希と会って二週間、この日が最後だった。機関は凪冴に親切のつもりか一日だけ猶予をくれた。別れを言うための時間を、最後の思い出を作る時間を。
転校の手続きは機関がした。凪冴の親の承諾もある。何もかも辻褄を合わせたのは咲間だ。
だが、遥希は登校してこなかった。行方不明になっていた兄が戻ってきたことで、彼は欠席した。久しぶりに戻ってきた家族との時間を選んだ。当然のことだと凪冴は思う。
言いたいことも聞きたいことも色々とあって、そして、何より側にいたいだろう。
そして、今日が終われば、彼の記憶は書き換えられる。彼だけではない。このクラスメイト達の中から凪冴の存在が薄れる。完全に消去するのではないのだと説明は受けた。
だが、極自然に凪冴のことを忘れていく。たとえ、偶然再会しても気付かなくなるだろうと言う。凪冴だけが彼らのことを覚えている。一番幸せだった頃の思い出になるかもしれないとさえ言われた。
覚悟はできている。
放課後、凪冴の足は歴研の部室に向かっていた。結局、何もわからないままだった。
このまま戦いを続けていれば、いつかは会うのだろうか。その人は敵なのか、味方なのか。自分にとって何なのかを考えたところで意味のないことだった。この後、鍵は返すことになっている。
手帳と木刀を返す必要はないと言われた。凪冴の手に渡るべくして渡ったものだろうと久我は言う。手帳は凪冴の手元にあるが、木刀は久我に預けたままだ。
最後の掃除を終えて、凪冴は溜息を吐いた。まだ未練があるのかもしれないが、いつまでもいられない。今日も矢野が待っている。帰りに寄ってみればいいと言ったのも彼だった。だが、そんなことはできない。
彼に会いたい。けれど、会えばきっと辛くなるから、戻った時間を邪魔したくないから、と凪冴は言い聞かせる。
鍵と鞄を手に凪冴は立ち上がった。
矢野との待ち合わせ場所へと向かう道、ここを歩くのも最後かと思うと妙に感慨深かった。
感傷的になりすぎているのかもしれない。望んだ通りになったはずなのに、素直に喜べずにいる。
とぼとぼとわざとゆっくり歩いているような気にさえなってくる。自分が自分でわからなかった。
「水野さん!」
その声に反射的に足が止まっていた。ありえない、そう思うのに振り返れば、私服姿の遥希がいた。
「良かった……」
「さく、らい君……?」
どうして、彼がここにいるのだろうか。信じられなかった。会いたいと願ってしまったから幻覚でも見ているのだろうか。
「なんか、どうしても、今、会わなきゃいけない気がして……」
はぁはぁと遥希は息を切らしている。幻覚などではない、確かに遥希がそこにいた。
「水野さん、ありがとう」
久しぶりに見る心底安心しきったような遥希の笑顔だった。やっぱり、彼にはそうやって笑っていてほしかった。たとえ、この先見ることがないのだとしても。
「信じてた。水野さんは絶対に兄貴を救ってくれるって」
自分に一体何ができたのか、と凪冴は思い返す。全ては神威のおかげだ。
(ありがとう、神威)
もう一度、心の中で彼に礼を言う。コンビニで何かチョコレートを買ってあげようと思う。彼からの借りは一体何枚分になっているかわからない。
「いなくなったりしないよね?」
笑顔を曇らせて、じっと遥希は凪冴を覗き込んでくる。
答えることなどできるはずもなかった。遥希に嘘を吐くこともできず、素直に消えるとも言えない。
今、この時が終われば彼は何もかもを忘れる。けれど、想いを伝えることはできなかった。たかが一瞬の成就を喜んだところで、無惨に引き裂かれるだけだ。
否、もう彼にその気持ちはないのかもしれない。そう思っていた方が幸せだった。
「ごめん、変なこと言って……また明日」
「うん、また明日」
自分は何を言っているのだろうと凪冴は思う。また明日はないのに、気付けば走り去る彼に手を降り返していた。引き留めることもなく、すぐそばに留まっている車に駆け込んでいた。
矢野は何も言わずに車を走らせた。ずっと泣くまいと凪冴は堪えた。これで良かったのだ。彼の幸せな未来に自分は必要ない。
凪冴は一言も発さずただ前だけを見た。そうすれば涙が引っ込むと信じていた。
地下駐車場に停まった車から降り、いつものように中へ、久我のところへ行って意志を伝えなければと思っていた。
なのに、足が止まって、一歩も動けなくなって凪冴は蹲る。ボロボロとこぼれる涙が止まらない。
「だから言ったろ?」
矢野の声は優しかった。綺麗にアイロンのかかったハンカチを差し出してくる。この男は本当に見た目と違う男だった。乱暴なようで優しく、まめだ。
「矢野さんの言ってたこと、本当に正しかったですね」
「まあ、泣けや。俺の胸なら貸してやれるから」
「今だけ、借りてあげます」
「素直でよろしい」
細身なようで逞しい胸に引き寄せ、頭を撫でる大きな手にいよいよ涙は堰を切る。
「きっともう泣かないから」
「我慢すんな。溜め込んだもん全部出しちまえ」
そこから先はもう嗚咽にしかならなかった。
彼ならば、いなくならない。大きな隠し事をしなくていい。優しい人と一緒にいられる。それはわかるが、今は彼では駄目だった。
まだ遥希が消えない。できることなら、もっと側にいたかった。見守っていたかった。それなのに、自分は必要ないのだ。
これから先、新たな出会いがあったとしても、全て矢野の言う通り別れが待ち構える。悲しい別れだ。自分だけが覚えていて、相手からは忘れられる。
いっそ恋心がなくなってしまえばいいと凪冴は思う。もう誰にも恋はしたくない。だが、誰も捨てられていないのだと、なぜかそんな気がした。まるで、それが人として心を繋ぎ止めているかのように。
一頻り泣いた後、足はもう躊躇いもなくそこに向かっていた。部屋の主は凪冴がノックをする前に入れと言った。だからと言って答えを急ぐわけでもなく、奥の扉を、ケースを開けてくれる。そして、何も言わずに出ていく。
『よくやったな』
神威の声は今までにないほど優しく聞こえた。
白い太刀は今日も美しく輝き、神威はそこに寄り添っている気がした。
「神威のおかげだよ、ありがとう」
彼はやってくれた。チョコレートは買えなかったが、休憩室には今日も山が築かれているだろう。
「ねぇ、神威。どうして、協力してくれる気になったの?」
神威との勝負で凪冴は彼に圧倒的に敗北したはずだった。神威を怒らせ、意識を失って、目覚めた時には神威は協力を約束してくれた。
『あん時は、つい激昂して悪かったな……あの一瞬、俺はあいつを感じた気がした』
凪冴の前に一瞬現れたあの美しい少女のことだろうか。
『俺はお前のおかげで自分のあり方を思い出した気がする。お前は俺の巫だ』
そして、凪冴はそっと刀身を撫でた。これから未来を共にする力を確かめる。
これは不運などではない。悲しい使命ではない。闇を切り裂ける力を得たのだ。
「もう、いいのかい?」
そっと扉を開ければ久我は微笑んでいる。
「十分です」
「なら、君の答えを聞こうか」
「戦います。私が死ぬまで、必要とされる限りこの体を神威に」
永希を救うという目的は果たした。だが、もう次は決まった。わかったのだ。何をするべきか。
自分を選んだこの〈鬼〉の望みを叶えること、それが全てだと。
千年も生きた鬼の願いは本当にささやかなものだと戦いの中で気付いてしまった。彼は消えゆく〈鬼〉達を一瞬でも羨んでいた。
たった数十年で叶えられるかどうかを占うことに意味はない。努力が無駄だとは思わない。奇跡などというものに期待はしない。けれど、必ず彼の歩を進める礎になると凪冴は胸に誓う。
「神威、私、あなたを眠らせてあげるから」
リリンと鈴が鳴る。声を出せただろうに彼はそうして応えた。その音色はどこか嬉しそうに聞こえた。
神薙をお読み下さり、誠にありがとうございます。
これにて完結、と言うか、一旦終わりますが、また続編を書きたいと思っています。
なので、その時はまた凪冴の戦いを見守っていただければ幸いです。




