■21 ラフラカーン教官と新人訓練
伸於谷佐子は肺が破れんばかりの荒い息をして地面に座り込み、濁った眼で前を見据えた。
目線を下げると心が折れて、2度と元に戻らない気がしたからだ。
谷佐子は恵まれた体躯をしている。身長は183センチ、体重は82kg。
正式な格闘技経験はないが、中学以降は地元のケンカで負けなしだった。
だが今は目の前の「教官」に手も足も出ないでいる。
しかも谷佐子だけではない。
同期の32人全員が、荒い息をしながら地面にへたり込んでいる。
目の前の「教官」ことラフラカーンを睨みつけながら。
「どうした?来ないのか?」
教官は32人全員による1時間の猛攻を何とも思っていないのか、訓練開始時と同じ汗ひとつ見せない涼し気な顔で訓練生たちを煽った。
「クソがぁああああ!」
谷佐子は己を奮い立たせる雌叫びをあげ、右手にある金属バットを握り直して憎き教官へと突貫した。
『今度こそ当たる!』
そう願って背中に隠した金属バットを最短・最速の軌跡で教官ことラフラカーンの頭にぶち込む。
当たれば人間の頭部は治癒不可能なほど損壊し、谷佐子は訓練中といえど重過失致死で逮捕されること間違いない。
だがその重過失致死の憂慮より、崩れかけている自分の尊厳を守りたい欲が勝った。
ラフラカーンの美しい顔に金属バットが吸い込まれていく。
『当たる!お別れだよ、クソ教官!』
金属バットを介してわずかな手ごたえが掌に帰ってきたことを認識し、谷佐子は歓喜に震えた。
だが次の瞬間、谷佐子は絶望に塗り込められた。
教官ことラフラカーンが、かすかに当たってから避けたのだ。しかも最小限の体捌きで。
それはまるでラフラカーンの身体が突然幽体となり、金属バットがすり抜けたかのようだった。
『なぜ当たり切らねえええ!?』
ラフラカーンは金属バットを避けた後に人差し指をピンと上に立て、2回ほどクルクル回してから掌底を放ってきた。
指をクルクル回すのは、手加減の証拠だ。そしてこれから打つぞ、と教えてくれているのだ。
『よ、避けなきゃ!』
谷佐子は攻撃のサインを知って準備しかかった2撃目を途中でキャンセルし、不自然な体制で身をよじって何とか掌底を逃れようとした。
だが「はい、そこ。お上手ね」と言わんばかりに身を避けた先にラフラカーンのゆっくりした掌底が下から進んでくる。
しっかりと目に見えている。でも避けられない。
「グッツッ!ハッツッ!」
谷佐子は片手のゆっくりした掌底だけで肺を押しつぶされ、まるで小さな子供を「高い高い」するような気軽さで自分の82kgある身体が吹き飛ばされる準備に入ったことを理解した。
巨大なバネに弾かれたように、自分の視界がコマ落とし画像の様にリープする。
『・・・死んだな』
その結末だけは谷佐子に分かった。今月だけでもすでに何百回目かの「死んだな」ではあったが、回数を重ねたといっても決して慣れるものではない。
真上に2メートル近くぶち上げられ、受け身を取ろうと藻掻くが掌底の衝撃で身体が痺れて動かない。
傾いたからだから見えた訓練地のクソ固い地面が、宿舎のベッドよりも柔らかくて心地よさそうに見える。あたしを誘っている。
あの地面に沈めば、あたしは何にも悩まされず幸せになる。ぼやけた頭がそんな自滅的な誘惑をする。
気持ちよく50センチくらい沈むんじゃないか?そんな風に見えた。ただの地面が。
だが谷佐子には地面に沈み込む幸福の代わりに、恥辱が待っていた。
ラフラカーンが地面と激突する寸前に、谷佐子の身体を王子様抱っこ(日本でのお姫様抱っこ)で抱き支えたのだ。
足元に描かれた円から、一歩も外に出ずに。
「・・・最後の打撃は少し良かったぞ」
「そりゃーどーもー」
丁寧に地面に下されながら、谷佐子はかすかに残った自負心からぶっきらぼうに返事をした。
ラフラカーン教官。
こいつは今まで見たことのない化け物だ。
阿賀沢警備の面接と採用試験を簡単に突破し、「やっぱあたしってスゲーよな!」と有頂天になった伸於谷佐子の前に立ちはだかったのがこの女だ。
身長は180センチを超える自分と同じくらいか。
しかし82kgの体重を誇る自分と比べると手脚は細く、首回りも華奢だ。
少しはやりそうだが、体重差は覆せないだろう。先輩かどうか知らんが、アイツならイケる!
獰猛な笑みを浮かべた谷佐子たちにラフラカーンは地面に描かれた直径1メートルほどの円の中に立ち、事も無げに言った。
「お前たち。これから1時間かけて総がかりで私を崩してこの円から出してみろ。
私を円から出したものは訓練完了としてやる。遠慮はいらん。死力を尽くせ」
谷佐子は思わず周囲を見回した。訓練場には自分の同期が少なくとも30人以上はいる。
総がかり?しかも1時間?
たぶん何らかのハッタリなんだろう。
阿賀沢と言えど、大人の世界は見栄っ張りと誇張のクソか・・・
谷佐子の視界が怒りで薄暗くなる。
隣りにいた目つきの悪い初対面の女に目配せをして、「こんなクソ会社に期待したあたしがバカだった。遠慮なしにやってやろうぜ」という意思疎通をして2人で同時に殴り掛かったのが初日の思い出だ。
そして最初にラフラカーンに殴りかかった谷佐子と隣にいた女は、10分ほどで息も絶え絶えになり地面にへたり込んだ。
攻撃が全く当たらず、ラフラカーンにダメージを与えられないのだ。
自分たち2人がへたり込んだ後、残る30人近くが一斉に襲い掛かった。
だがラフラカーン教官を崩せない。
下手な攻撃をすると、避けられた上に体を取られて5メートルほどブン投げられる。
後ろから襲い掛かっても、まるで後ろに目でもあるかのように一瞥もせず避けられブン投げられる。
1人が攻撃するとカウンターで3~4人が巻き添えになり押し返される。
全員で押したこともあった。だがラフラカーン教官は微動だにもしない。
まるで巨大なコンクリートブロックを押しているかのようだ。
それでも押すと先頭の女が前後に挟まれた圧力に耐えかね悲鳴を上げた。先頭を3人に増やして圧力を分散しても無理だった。
悲鳴を上げるのが3人になっただけだった。
30人近くの体重の圧力に、先頭の人体が耐えられないのだ。
ラフラカーンによって「自分は無能で弱い」と自覚させられる悪夢がキッチリ1時間続いた。
「よし、時間だ。次はお前たち、私を止めてみろ。これも1時間だ」
そう言い放つと、ラフラカーン教官は今まで1歩も動かなかった円を出て、ゆっくり前に進み始めた。
「クソがぁあああ、嘗めやがって!」
谷佐子は雌叫びを上げた。それは半分は折れかかった自分の心に活を入れるためだった。
訓練が2週間を過ぎると、ようやく谷佐子たちは打撃武器の使用を認められた。
経験が少なければ、自分が使った武器で逆に自分自身や仲間を傷つける恐れがあったから、という説明を受けた。
使える武器はこん棒、木刀、金属バットにメリケンサック、果てはトンファーや三節棍などもあった。
ラフラカーン教官は当然のように素手だ。
『これであのクソ教官に一撃入れてやる』
だが谷佐子の目論見は儚く敗れ、残酷な現実を突きつけられた。
なぜか武器が当たらないのだ。
いや武器は一瞬当たっている。
だがダメージを与えることが出来ない。
谷佐子は金属バットを選んだ。打撃範囲は広がり、重さを生かしたヒット速度は向上し、いったん背中に隠して振りかぶる変則的なフォームは相手の目から軌道をごまかせるはずだった。
だが当たりきらない。
いや正確には一瞬は当たっている。ように見える。
だがラフラカーン教官は顔や頭や体にわずかに触れてから避けている気がする。
谷佐子だけではない。同期たちが使う様々な武器が、ラフラカーン教官に1打撃も与えられないのだ。
武器が教官の身体を通り抜けるように見える。人間ワザではない。
32人が1時間近く様々な武器を振り回しても、ラフラカーン教官は涼し気な顔で狭い円の中で立っている。
休憩15分を挟んでの1時間。
今度はゆっくり歩き続けるラフラカーン教官の歩みを止めることが出来ない。
あまりの理不尽さから、佐和子たちは教官との訓練前に同期と共に自主訓練を始めた。
1日でも早く、あのナメ腐った目であたしたちを見下すクソ教官に1撃を入れるために。
だが訓練が始まると、それがいかに甘い考えであるかを連日のように思い知らされた。
「センシュー、ミオ、両サイドから。カンツとシラベは後ろから同時に。正面はあたし達が出る!」
前後左右からの波状攻撃も、自主訓練で練習を始めた。
自分には意外と周囲を見渡せる目と状況判断能力があるのかもしれないな、と谷佐子は思い始めた。
だが現実は無常だ。とにかくラフラカーン教官が止まらない。
ゆっくりとした一定の速さで、1直線に突き進んでくる。
その歩みを止めらえない。それどころか、歩くリズムさえ崩せない。
その日の52回目のアタックで、谷佐子は相棒である金属バットをラフラカーン教官に弾き飛ばされて失った。
「うわああああ、く、来るなあ!」
パニックになった谷佐子が苦し紛れに放ったのは、空手の中段突きだった。
谷佐子は保育園から小学校4年生まで近所にあった道場に通って糸西流の空手を稽古していた。
しかし体格に恵まれた谷佐子と対等に競い合える子供は通っていた道場にはおらず、自分より背の低い上級生たちから嫉妬交じりの軽い苛めを受けて谷佐子は道場から遠のいた。
たかが5年ほどの稽古だった。
それでも引き手の位置や、足の踏み込みと体重移動。もうおぼろげにしか覚えていないはずの中段突きは、谷佐子の血肉となっていた。
「ほう」
新人たちの訓練を初めて3週間がたち、はじめてラフラカーン教官の真芯を打ち抜いたのが谷佐子の中断突きだった。
突いた後、何のダメージも受けていないラフラカーンに谷佐子はブン投げられたが。
全員がへたりきって足腰が立たたなくなってから、ようやく今日の訓練が終わった。
「いいかお前たち。足が動かず、腕は上がらず、身体は支えを失い目もろくに見えず心は折れかけている。
そんな極限状態になってからが、本当の訓練だ。
その状態になってもなお残っているのが、本当に身に付いた技だ。
それを磨け。それを増やせ。それが命をつなぎ、それがお前たちの使命を果たしてくれる」
ラフラカーン教官がこれほど長い言葉で自分たちに語り掛けてくれるのは珍しいことだ。
いつもはほぼ無言で1時間の攻撃を受け切り、それが終わるとすぐに1時間進み続ける。まるで感情のない機械の様に。
そして訓練終了を一言だけ告げて、ラフラカーン教官は何事もなかったように立ち去る。
休憩時間を入れて2時間そこそこの訓練だったが、新人たちはすぐには立ち上がれないほど消耗している。
心はとっくに折れている。何度も。
だがラフラカーン教官が涼しげな表情で立ち去る様子を見て、「このままじゃ終われねえ」と闘志が湧く。
最初は力任せに攻撃してきた新人たちは、あまりの理不尽さから協力し合い、研究を始めるようになり、自主練を経て必勝法を練り上げる。
あらゆる手を試すようになり、新技を生み出し、緻密な連携もとるようになる。
さらに集団の暴力を生かし、武器や攻撃手段のバリエーションを増やし、メンツを捨てて同期たちから教えを請い、プライドを投げ打って泥水を啜るがごとく貪欲に勝利を目指した。
それでもラフラカーン教官には届かない。
それどころか届くイメージすら湧かない。
「新人の時に受けたあの1か月の訓練が、一番精神的にキタね」
今では部隊長となり、12人の部下たちをまとめる立場にある伸於谷佐子は当時を振り返ってそう語る。
「そしてあれほど濃密で、頭も身体も武器も使った戦闘訓練もなかった。
なにしろ最後の週は刃を潰したとはいえ、本物の刀とか使ったからね。
あたしは半グレでイキってただけのド素人なんで失うものはなかったが、武術や軍隊経験者の凹みぶりはそりゃ見ていて気の毒なほどだったよ」
のちに正社員になってから、谷佐子はラフラカーン教官が自分たちが「地獄の2時間」と呼んでいた訓練を日に3回はこなしていることを知った。
新人研修だけではなく、正社員になった後も「フィードバック研修」と称して数か月に1度訓練させられたからだ。
そして谷佐子自身も時に教官役となる事があった。
最初は2人を相手にするにも苦労したが、4人6人と増えても何とか捌けるようになってきた。
だが自分が教官役をすることで、ラフラカーン教官が訓練を受けた当時に想像した以上のバケモノであることがよく分かった。
当時の自分は相手の力量すら測ることすらできていなかった。
しかも谷佐子はラフラカーンが訓練で武器を使うところを見たことがなかった。
谷佐子が武器を持つラフラカーンを初めて見たのは、チューチューブに公開した討伐省の依頼で厄鬼の暴種乙型達人属の討伐した映像だ。
その動画ではラフラカーンが細身の剣を持ち、達人属の厄鬼と対峙していた。
厄鬼の暴種は通常は獣のような姿を取ることが多いが、まれに「達人属」と呼ばれるヒトガタで剣や槍などの武器を使う厄鬼が出現する。
映像には槍使いの厄鬼が出ており、ハイスピードカメラで剣戟が撮影されていた。
ラフラカーンは谷佐子が知らない細い剣を使っていた。
谷佐子には剣道の心得はないため達人属を軽くいなすラフラカーンの剣技を見ても『達人属ってのも大した事ねえな』くらいの印象しかなかった。
だがその時一緒に映像を見た剣術出身の同僚が大騒ぎして煩かったのを覚えている。
その後、大興奮した同僚の解説を聞いて、『どうやらラフラカーン教官は剣技もバケモノ級らしい』ということが分かった。
谷佐子はラフラカーンによる新人訓練が終わって正式に阿賀沢警備の社員となってから、子供の時に一時期通っていた糸西流空手道場の門を再び叩いた。
『自分にはまだいろんなものが足りない』と感じたからだ。
当時、小学校4年生の谷佐子を指導してくれた師範は70代になっていたが、温かく谷佐子を迎えてくれた。
大きな体躯と厳つい顔をした谷佐子が真新しい道着に白帯を締めて小学生たちに混じって練習している光景は、イキった中高生の練習生たちの嗜虐心を妙に煽った。
しかし当の谷佐子は『ああラフラカーン教官から見た自分たちはあんな感じだったんだな』と逆に微笑ましい気持ちになった。
イキった中高生達との組手練習では、時に避け、時にワザと攻撃を貰う指導組手に徹した。
中学生たちは自分の攻撃が当たったことを単純に喜び「こいつやっぱり大した事ねえ!」と谷佐子をバカにした。
だが少女部の黒帯を締めている高校生たちは、指導組手を決して崩さない谷佐子の底力を恐れ始めた。
1発は当てることが出来る。いや、「当てさせてもらっている」
だが当てた後は、必ず反撃を貰ってしまうのだ。しかも避けられない。
突きを当てたら突きを当てられ、蹴りを当てたら蹴りを貰ってしまう。
もちろん寸止めだが、突きも蹴りも風圧が凄い。そしてほぼ見えない。
分かっているのに、まったく避けられない。
高校生たちは組手を数度経験してから、すぐに態度を改めた。
絶対に敵わない相手だと認識したのだ。
やがてナメた態度を最初に改めた高校生たちの変化を、中学生たちも敏感に察した。
そしてふとしたきっかけで、谷佐子が阿賀沢警備所属であることが練習生たちに知れ渡った。
その時すでに阿賀沢警備は「国内最強」の呼び名が高く、海外でも「ケルベロス(地獄の番犬)」と呼ばれて一目置かれていた。
阿賀沢警備がイリーガルチームや傭兵たちからの襲撃や撃退の様子を撮影し、エビデンスとしてネットで公開していたからだ。
特に警備員たちが装着しているボディカメラの映像がネットで非常にウケていた。
そして実は伸於谷佐子本人もネットで公開されている映像に写っていた。
通常は黒いマスクとヘルメットとバイザーで半分以上隠れていたが、たまたま谷佐子がバイザーを上げている時にカメラに撮られたのだ。
ネットでその映像を見つけた高校生たちが稽古前に興奮した様子で谷佐子にスマホを見せ確認してきた。
「こ、この動画に写ってるの谷佐子さんですよね!?」
「そうだがマスクしてるのによく分かったな」
「マジっすか!カッケー」
「スゲー!谷佐子さんはケルベロスの人だったんですね!」
とたんに中高生の練習生たちはキラキラした目で谷佐子を見るようになり、「ヤサコ先輩、仕事の話を聞かせてください」と慕われるようになった。
『これが地元、というやつか』
谷佐子自身は地元といえば、小学校や中学校の同級生たちと遊んだくらいの思い出しかない。
しかも今となっては進学や就職などで、みんなが散り散りになっている。
空手の道場を通じてできた新しい地元とのつながり。
こういうのも悪くはないな、と谷佐子は思い始めていた。
7月間末に休みが取れるようなら、空手道場で計画している合宿に参加してみようと思った。
参加するのは小学生が主体だが、自分も食事などの日頃のお世話はできるだろう、と思ってのことだ。
そして1番はすでに老齢に差し掛かっている師範への手助けになれば、と思ってのことだ。
それは谷佐子自身の今までの人生には生じえなかった、「持てる者」の思想だった。
今回は閑話です。
前の話で出た阿賀沢警備について、新人の目線で描いてみました。
この話は登場人物が多いためなんとか登場が途切れないようにしたいと考えています。
特にラフラカーンやレオナといった女性陣の扱いが、貞操逆転世界では難しいですね。
今後も頑張って、キャラクターが魅力的に映るエピソードを重ねていきたいと思います。




