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この島にはバスが来ない

目の前に、鮮烈な青が飛び込んできた。

渡り鳥の声が、それが海だと教えてくれる。


座っているベンチがギィと音を鳴らす。

錆びついて汚く、誰も座りたがらない古い椅子だ。


いつから寝ていたんだろう。

頭上の太陽が燦々と俺の頭を焼いている。


太陽の光を浴びて、バス停の影が横に長く伸びている。まるで、もう一人誰かと一緒にバスを待っているみたいだ。


海のそばにいたからか服が潮臭いし、体がベタベタする。


大きくあくびをし、ぐーっと背伸びをする。


「湊ー?そこで何してんだい?」


おばあちゃんは割烹着で手を拭きながら、危なっかしく、港の段差を降りて近づいてくる。


「ばあちゃん、いやぁ、バスを待ってるんだよ」

「はぁー、そんで、一体どこへ行こうと言うんだい?」

「高田さん家に行こうと思って。最近、ぜんぜん顔も合わせてないからさ。いとこがいるのに、会いに行かないのもなんか寂しいじゃない?」


忙しない蝉の声が耳を掠める。


「そおか、そおか。それはいいことだな」

「だが、湊。さっきから村のみんながあんたを探してんだ。そろそろ行くぞ」

「そうだったの、わかったよ。ばあちゃん」


立ち上がると、錆びついたベンチから赤茶けた破片がぽろりとこぼれ落ちた。

靴底の溝に入り込んだ砂を地面で擦り落とす。けど、どうせ土がまた挟まるから意味はない。


ここは、大きな畑が所せましと立ち並んでいる。

風がよく通るここは、島の反対側の海までよく見える。

村人全員の食い扶持を支える命綱だ。

勿論海にでて、魚を取ったりもするが、大切な海の恵みだ。たくさん狩ってしまっては、この海に魚がいなくなってしまう。



道中、口笛草を千切り、不格好な音を鳴らす。

何度練習してもうまくいかない。


いつもの風景。いつもの日常。

俺が生まれた頃には電気すらなかったこの島も、今ではひと通りのものが揃っている。

それでも食卓にならぶ食材は、たいして変わり映えしない。


用済みとなった口笛草を頬ると、大きな籠が視界に入ってきた。



「おはよう湊。今日もいい天気ね」


つばのある帽子を被ったおばちゃんが家の裏から顔を出した。

片手にはスコップを握り、背には大きな籠を背負っている。


「おはよう、おばちゃん。今日も畑仕事?精が出るね」

「そうなのよ、今日は土の気分も良さそうで。ほら!」


瑞々しい濃いみかんがカゴいっぱいに積まれている。


「今日だけで、こんなに採れちゃったの。こんなにあってもうちだけじゃ食べきれないから」


こんなに立派なみかんは見たことがない。一度齧れば、大地の養分を吸い切った蜜の汁が溢れ出すだろう。胸の内が、その甘さで満たされるような気がした。


「ほらほら!持ってき!食べきれなかったら村のみんなに分けていいから」


そうだ、汐にもこの美味しそうなみかんをお裾分けしないと。


「ありがとう、ばあちゃん。後でゆっくり食べるよ」


おばちゃんは満面の笑みを浮かべ、そのまま庭の裏に戻って行った。


両手にみかんを抱えながら、道を歩く。

一つ手にとって匂いを嗅ぐ。

なんとも芳しい香りなんだろう、特産品として売れそうだ。


いつも背丈の高い雑草が生えているこの道には、蛇とか危険な虫がいるかもしれないから慎重に歩かないといけない。

坂を歩く。この島は小さい割に高低差がある。

坂の向こうから、よく知った顔が近づいてきた。

麦わら帽子に、白いタンクトップを着た、小麦色に焼けた肌が歳の割に若々しく見せている。


「おっ、湊か!」

「爺ちゃん、おはよう。今日も朝から釣りをしてたの?」

「おう!今日はぎょうさん釣れたんだ、ほれ、見てみろ」


持っていた大きな水色のバケツをどんと勢いよく地面に下ろす。

その中には魚が何匹もひしめき合っていた。尾鰭をばたつかせて、水が弾け飛び光を纏わせる。

必死になってのたうち回っているのを見るに、活きのいい魚だ。


「こんな肥えた魚は久しぶりだ」

「そうだね爺ちゃん。小さい魚じゃなくて、身の大きい魚だ」

「そうさ、前みたいな痩せほせた魚が、食卓に並ぶのを考えるだけでも寒気がしてくる」


また大きなバケツを片手で持ち上げると、ずり落ちた麦わら帽子を被り直す。


「湊、昼飯はうちに来な!とびきりの塩焼き、出したるわ」

「ありがとう、爺ちゃん。昼になったらそっちに行くよ」


坂道を上った先には村のみんなの憩いの場、大広場がある。

ここで、今年の豊作を願うお祭りをすることが多い。と言っても、みんな飲み食いしてどんちゃん騒ぎするだけなんだけどな。


今日も日差しが暑い。

日陰に行こうと、林に視線を向けると木漏れ日の下で、汐が村のみんなを眺めているのを見つけた。


「おーい!汐、そこで何やってんだ」


汐と一緒に木漏れ日の下に入る。涼しいが、夏の熱気が頬を撫でる。


「湊、そういえば聞いた?儀式が始まるって話」

「あぁ、さっき爺さんから聞いた。儀式なんていつぶりなんだろうな」

「本当にね。俺も儀式って言っても何をするのかいまいち知らないんだよね。湊は知ってる?」

「いーや、知らないよ。……って、汐、その服どうしたんだ?」

「実はね、儀式に参加させてもらえることになったらしくて。儀式の前はこの服装をしないといけないらしいんだ」


袴を翻し、足首から足袋が覗く。


「だったら汐は儀式の内容は知ってるだろ」

「そう思うだろうけど、俺も内容は知らされてないんだ」


汐はそういうと困ったような顔をする。


「へー、こんな島に隠し事するほど大したものはないだろ」

「ふふ、同感」


そうこう話していると、村のみんなが大広場に集まり何やら談笑しているようだ。


「ちょっと、俺みんなと混ざってくるわ」


大広場はただの広場ではなく、この島を横断する大きな一本道の中央に位置している。

みんなで踏みしめて作られたこの丸い獣道は、村のみんなの憩いの場になっている。


近づくと何やら騒がしい。

村役場の前に大きな人だかりができている。


そして、みんなの中心には道中だべった爺さんがいた。


「おお、やっと来たか湊」

「待たせちゃって、悪いね」

「いんや、気にしなくてええ。それより、神様に捧げる貢物が決まったんだ」


その言葉を聞いた、そこらで談笑していたばあちゃんたちがのこのこと集まってくる。


「あら、爺さん。そんな大切なこと。なんで私らに教えてくれんかったんだい」

「いやぁ、実はちゃんと決まるかどうか。わかんなかったんだよ。だが、そんことはもう心配ねぇらしい」

「それならいいけど、あたしらにも色々準備がありますから。次から早めにいってくださいよ。まったく....」


爺さんに強く言い放ったねえさんは、俺の腕の中にあるみかんを見た途端、さっきの不機嫌な様子から一変した。


「湊。それってどこで貰ったんだい!」

「そりゃあ、あのみかん畑のおばちゃんとこだよ。この島のどこに、あのおばちゃん以外のみかん屋がいるんだ」

「あらあら、そうだったわ。それより、ねぇおねがい。それ、ちょっと分けてもらえない?」

「別にいいけど....」

「やった!みんな~湊から、みかんの差し入れだって!」


話が違うと思う間もなく、逞しい女性らに腕の中のみかんが攫われていき、残り一個になった。

その様子を隣で見ていた爺さんが気の毒そうな顔をしてこっちを見てきた。そんな、かわいそうな人みたいに見ないでくれ。


瑞々しいみかんを剝きながら、ひと房ずつ摘ままれていく。

そして、新しい話題に花を咲かせ始めた。


「ねぇねぇ、みんな、聞いて聞いて」


その声は、みんなの関心を惹こうと、忙しない音を放つ。


「さっき聞いたんだけど、龍神様に捧ぐ貢物が決まったそうよ」

「あらあらぁ、それはよかったわぁ。このごろ、てんで決まらなくて不安だったんだから」

「そうねぇ、最近は天気は悪いし....このままうまくいくといいんだけど」


愉快そうに、はたまた悲しそうに表情をころころ変えながら、村の端から端まで聞こえそうなおしゃべりが繰り広げられる。


「あの女衆は大人げない。甘味ぐらい自分で取ってくればいいものの」

「別に気にしてないよ。元からみんなに配るつもりだったしね、俺一人じゃ食べきれないよ」

「ほう...みんなに配る....」

「最後の一個は渡さないよ?」

そういいながらポッケに最後のみかんを隠すと、爺さんはしょぼくれた空気を滲み出してどっかにいってしまった。

あんたも大概だよ。


そう思っていると、後ろから草履が地面を撫でる音がして振り返る。

汐がすこし面白そうに笑っていた。


「湊、儀式の準備で忙しくなるだろうし。その間に少し遊ばない?」

「いいね、どこに行く?」

「いつも遊んでる、あそこ。それに◼️◼️◼️◼️のこ◼️◼️もあ◼️からね」

「……汐?」

「どうかした?」

「いや、なんでもない」


不審な気持ちをよぎったが、飲み込んで気分を入れ替える。


「よし、乗った!じゃあ競争な!」


湊が走り出すと、汐もつられて走り出す。


朱い橋の前に先に着いた。いつも通り、美しい橋だ。

向こうの島に行けるように、村のみんなで橋を作ったんだっけ。

その美しい、鮮烈な朱。

青い海から浮いているような異質さを放っている。

まるで、朽ちることも色褪せることも許されないように。


眉間を顰める。

その時、朱い色が揺れた気がした。


見間違いだろうか?

よく目を凝らしてみると、橋がどくどくと脈打つかのような、下品な生気を滲ませていた。

朱い、朱いその色が――まるで俺たちのことを舌なめずりしているみたいだ。


「湊、相変わらず足が早いね。全く追いつけないよ」


息を切らしながら、汐が追いつく。


「……湊?」

「汐、あの橋って村のみんなと一緒に作ったんだよな」

「うん、そうだよ。何当たり前のこと言って」

「そういえば、湊。村のみんなにみかん配ってたじゃん?俺にもくれない?」

「あ、あぁ。いいよ」


そうポッケから取り出した、瑞々しいみかんを手に握る。

その瞬間、猛烈な不快感が手のひらに充満した。

みかんを凝視する。何も起こっていない。本当に、美味しそうなみかんだ。

それなのに───カビが生え、芯まで腐った腐臭の塊を、手のひらに押しつけられているような気がした。

腐り落ちた死体を抱いているような、あの錯覚。


「?どうしたの」

「いや……このみかん、虫食いがあるみたいだ。ごめんだけど、これはあげられない」


すごい嫌な予感がする。

汐が、さっきの橋の揺らぎに似ている気がした。

これを渡してしまったら、汐はもう会えないんじゃないかって。

……たかが果物に何言ってんだ俺。


「えー!残念。みんな美味しそうに食べているから食べてみたかったんだけどなぁ?」

「今度、俺がみかんをまたもらいに行ってやるよ」

「いいの!ありがとう〜」

「汐は面倒くさがりだからな」

「へへ」


遠くから、村のみんなが呼んでいる声が聞こえる。


「みんなが湊のことを呼んでるみたい。先に行ってなよ」

「あー…………わかった」

「うん、終わるまで待ってるよ」


足取りが重い。

なんだか、胸の底に冷たい水を詰め込まれたような不快感がある。


大広場に戻ると、すでに準備が始まっていた。

大工仕事をする者、鍋を囲む者、材木を運ぶ者。みんな、何かに取り憑かれたように動いている。


「なあ、そんなずっとやってなかった儀式を、今わざわざする必要なんてあるのか?」

「何言ってんだ湊、そんなん、この村のために儀式はやるんだ」

「そうだ、変なこと言ってないで働け働け」

「それに湊。あんた、ずっと島の外に出たがってたんだろ?」

「そうそう、寂しいけどよぉ。あとちょっとで外に出てくんなら、村のみんなを助けてくれてもええんじゃないのか?」

「儀式は明日だからさ?それまでは頼むよぉ」


……外に出る?

外に出る?どうして?


「なあに、そんな素っ頓狂な顔をして、湊から言い出したんじゃないか。俺は外で暮らしたいんだってさ」


そうだったっけ……?


……そうだったよな。


なんで忘れていたんだろう。確か、バスが来たのがきっかけで、外に興味を持つようになったんだっけ。

なんで、今まで忘れていたんだろう。


ふと、広場の奥に目をやると、質素な村には不釣り合いな大きな神社が聳えていた。

その周りには竹が密生し、空を塞ぐように伸びている。風が通っているはずなのに、葉一枚揺れていなかった。


——こんな建物、あったっけ。


考える間もなく、大きな角材の束を手渡された。

その重さに思わず落としそうになる。


「ずぅーっと、龍神様を待たせちまったんだ。早く準備ぐらい手伝ってくれ」


忙し立てるように言うと、大きな木台を背負って軽快な足取りで、村の奥に消えていった。


「早う、早う」


その声に急かされるまま、俺は準備の輪に入った。






それでも、胸の奥には――あの悍ましい朱色が、まだこびりついていた。

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