秋原獅子のシリアスなコンプレックス
「秋原……」
俺は目を丸くして、テーブル越しに秋原の顔を見上げた。
彼女が絶えず浮かべていた不機嫌そうな仏頂面は、すっかりと影を潜めていた。その代わりに、どこか吹っ切れた様なはにかみ笑いが、その顔に浮かんでいる。
その顔を見た俺も、彼女と同じように表情を緩めた。
「……やっと、自分の気持ちに素直になれたんだな、お前」
「……うん、まあ」
俺の言葉に、秋原はコクンと頷き、言葉を継ぐ。
「例の、10年前の事件のせいで、私は北武ライオンズが大嫌いになった――それは確かだ。自分の“獅子っていう名前が、嫌で嫌でしょうがなかった。出来るならば、すぐに名前を変えてしまいたくて、パ……親にせがんで泣き喚いてた」
「……」
秋原の言葉に、俺は深く頷く。彼女の気持ちが、俺には痛いほど良く解った。
何故なら、昔の自分も、秋原と全く同じだったからだ。
自分の“天狼”という名前が、よりによって、某BLマンガの主人公の名から採られたと知った俺が、どれ程悩んだ事か……。
多分、10年前の秋原も、俺と同じくらい悩んだんだろうと思う。
そう思うと、俺は彼女に深く同情した。
「……んだよ、田中。気色悪ぃ目で見つめやがって、ゴラ」
……前言撤回。こいつの気持ちなんて、金輪際酌んでやるもんか!
と、心中で毒づきながら涙目になっている俺の事は置き去りにして、秋原は淡々と話を続ける。
「――でも、その時の怒りの気持ちを、今の北武ライオネルズにぶつけるのは違うんじゃないか……今日の試合を観てたら、自然とそう思えたんだ」
「……時間が経って、北武ライオネルズの事を赦せるようになった――そういう事かな?」
そう尋ねる行方会長に、秋原は小さくかぶりを振った。
「いや……あの時の事は赦せねえよ。他のチームがルールに則っているのに、10年前の北武のフロントはズルして、優秀な新人を金で釣ってたんだからな。私は、そういう卑怯な真似をする奴の事は、絶対に赦せない」
秋原は、眉を吊り上げてそう断言するが、「……でも」と続けた。
「……この前、そこの部長に言われる前から、私は薄々気付いてたんだと思う。自分が憎んでいるのは、10年前の北武であって、今ペナントレースを戦っている北武の選手たちは無関係なんだ……ってな」
「……」
「だから、嫌いだ嫌いだ言いながら、私はパ……親父がリビングのテレビで北武の試合を観ている時に、チラチラ盗み見してたし、新聞のスポーツ欄を広げて、北武の記事を探し読みしてたんだろうな……」
そう言うと、秋原は前髪をいじりながら苦笑いを浮かべた。
「それでも、自分が北武の事を気にかけてるって事を認めたくなくて、無意識に目を背け続けていたんだけどさ……今日の、9回表の攻撃の時に田中に言われた事で、ようやく自分の本当の気持ちがどうなのかを思い知ったって訳だ」
「――じゃあ」
それまで黙って秋原の話を聞いていた俺は、ゆっくりと口を開き、彼女に尋ねかける。
「名前の事はどうなんだ? “獅子”っていう自分の名前を、好きになる事ができたのか?」
「……まだ、良く分かんねえ」
俺の問いかけに、秋原は困ったような表情を浮かべた。
「やっぱり……ライオネルなんて名前、北武ライオネルズに関係があろうとなかろうと、普通じゃない名前な訳じゃんかよ。正直、もっと普通の名前が良かったなぁ――っていう気持ちは今でもあるし、これから無くなる事も無いと思う」
「……そうだよな、確かに。じゃあ――」
「……でも、心なしか、昨日までよりも“嫌悪”っていうか“拒絶”っていうか……そういう気持ちは薄くなってきてるのも確かなんだ」
そう言うと、秋原は頬を掻きながら照れ臭そうに笑った。
「まあ……ウチのパパが、どういう気持ちで私に“獅子”って名前を付けたのか……さっきの試合を観て、何となく分かったような気がするし……今は、私なりにこの名前を大切にしていこう――そんな気になってる」
「……そうだよ!」
秋原の言葉に、目を潤ませながら大きな声を上げたのは、春夏秋冬だった。
「ライオネルって、いい名前だよ、ししょーっ! 強そうで、優しそうで……何だか、ししょーにピッタリな名前だと思うの!」
「そうですよ、秋原さん!」
春夏秋冬の言葉に同調したのは、黒木さんだった。彼女は眼鏡を外し、紙ナプキンで目尻を拭いながら、大きく頷く。
そして、その横で、撫子先輩もまた、柔らかな微笑を浮かべて、秋原に頷きかけた。
「良かったわ、秋原さん。あなたが、自分の名前に肯定的に向き合えるようになって」
「……ど、ども」
秋原は、三人の言葉に、顔を真っ赤にしながら金髪に指を突っ込み、乱暴にわしゃわしゃと搔き乱した。……どうやら、それが秋原なりの照れ隠しらしい。
俺たちの間に、和やかな空気が広が――らなかった。
「――うんうん、良かった良かった! これも全て、このオレの緻密な計算通り!」
大団円の空気をぶち壊したのは、偉そうにふんぞり返る矢的先輩――!
矢的先輩は、エホンとわざとらしい咳払いをすると、秋原の方に身を乗り出しながら言った。
「で――、こっからが本題な訳なんだけどさぁ!」
「な……何だよ……」
矢的先輩の圧にタジタジとなる秋原。……そりゃ、こんな気色悪い作り笑いを浮かべた顔を近付けられたら、たじろぎもするだろうよ……。
そんな秋原の様子もお構いなしに、矢的先輩は更に言葉を継ぐ。
「何だよもこんだよも無いぜ! お前、忘れた訳じゃないよな? そもそも、何で俺たち奇名部が、貴重な部費を費やして、こんな不快な試合を観に来たのかをさ!」
「不快な試合って……単に、アンタの贔屓のロッチが負けたからじゃん」
「うっさい、シリウス! シャラップ!」
思わず呆れ声を上げる俺をぎろりと睨みつけた後、矢的先輩は、傍らのカバンから、しわくちゃになった一枚の紙を取り出し、秋原の前に置いた。
自分の前に置かれた紙を見下ろしながら、秋原は怪訝な声を上げる。
「こ……これ、は?」
「見りゃ分かんだろ? 『入部届』だよ、入部届!」
矢的先輩は、秋原の問いにぞんざいな口調で答えると、口角を三日月の形に上げ、更に身を乗り出して言った。
「今日は、お前に北武ライオネルズのプレイを見てもらって、北武のマイナスイメージと、自分の名前に対するコンプレックスをキレイに払拭してもらおうっていう趣旨で、オレが企画した作戦。――そして、そのオレの目算は、今のお前のリアクションを見る限り、見事に当たったって訳だ」
「ま……まあ……うん」
矢的先輩の放つ異様なオーラに呑まれ、目を真ん丸にしたままコクコクと頷く秋原。
それを見た矢的先輩の顔に、満面の笑みが浮かぶ。……そのわざとらしいまでに胡散臭い笑顔は、傍から見たら完全に詐欺師のそれだった。
「そうだろうそうだろう! よーし、そうと決まったら話は早い!」
そう言いながら、矢的先輩は胸ポケットに手を突っ込むと、何かを取り出し、秋原の目の前に突きつける。
……それは、先端にロッチのマスコットであるカモメをモチーフにしたキャラ“シーちゃん”の頭部がくっついた、ノック式のボールペンだった。
そんなものを目の前に突き出されて戸惑う秋原に向かって、矢的先輩は高らかに叫ぶ。
「さあ、秋原獅子よ! この入部届に、サインをハッキリクッキリと書き、我が栄光の奇名部の一員となるのだ!」
「あ……」
「お前が部員になれば、奇名部の部員数は五人……! そうなれば、奇名部の部費削減問題は解決よ! ダーハッハッハッハッ!」
「あ……あのさ……!」
「へへーん! 残念だったな、スギィッ! ウチの部を准部に落として、オレを困らせてやろうという姑息な姦計も、これで水の泡だぜ! ケケケッ、ざま―見やがれ!」
「な……なな何の事だ、矢的っ! ぼ、ぼぼぼ僕は、決してそんな私情に駆られて、あの議案をと、通した訳では――」
「あ……あの!」
「カッカッカッ! お前のちっこい脳味噌がひねくり出した企みなど、このスーパーラーメンツケメンオレイケメンなパーフェクトガイ・矢的杏途龍サマにはお見通しよ――!」
「あの! ゴメンッ!」
「アッハッハッ! 素直に謝るとは、なかなか殊勝じゃないか、スギよっ!」
「あ……いや、今のは、僕じゃない」
「……え?」
得意満面で有頂天だった矢的先輩だったが、武杉副会長の言葉に、ふと我に返った。
そして、訝しげな表情を浮かべ、ちょこんと首を傾げる。
「じゃあ……今のは……?」
「あ……あの、今のは、私……」
おずおずと手を挙げたのは――秋原だった。
彼女は神妙な表情を浮かべながら、そっと入部届を矢的先輩の方へ押し戻すと、深々と頭を下げ、小さな声で言った。
「……ゴメン、なさい。私……アンタ達の部活に……入る気は、無いんだ……」




