第2章 魔女の目覚め①
東京を代表する都市として名を馳せている都市、新宿。
夜の十時。不夜城と呼ばれる歌舞伎町にとってはまだまだ宵の口だが、診療時間をとっくに過ぎた病院の周りだけは、異世界のように、静寂に包まれていた。
「姉さん」
静寂が、若い女性の叫ぶような声によって破られた。
「姉さんは、どこ?」
夜間出入口に詰めていた守衛が、女の顔を見て凍りついた。
幽鬼のような青白い顔に、狂気を帯びた目。
身体全体から、まるで今、殺人を犯してきたような殺気が漂っている。
美しい顔立ちだけに、余計に鬼気迫るものがあった。
「あ、あなたは?」
かろうじて驚愕から立ち直った守衛は、自分の職分を全うしようと、勇気を振り絞った。
「姉さんはどこよ?」
守衛の言葉など耳に入らなかったかのように、女が鋭い声で、叩きつけるように言った。
目に宿る狂気が、一層増している。
「あなたは?」
背筋に悪寒を覚えながらも、守衛は、女を落ち着かせようと、努めてゆっくりとした口調で、もう一度問いかけた。
「姉さん」
女は守衛を無視して、叫びながら、病院の中へと駆け出した。
「ちょっと、君」
守衛が慌てて、女の後を追いかけた。
「待ちなさい」
薄暗い廊下の中ほどで女に追いついた守衛が、女の腕を掴んで止めた。
「離してよ」
華奢な身体からは想像もできないほど強い力で、女が、守衛の手を振りほどいた。
女の顔が、般若のような形相になっている。
狂ってるのか?
守衛が怯んで、一歩後ずさりした。
「わたしは、ここへ運び込まれた、園田瑞穂の妹よ。姉さんはどこなの」
守衛の胸倉を掴まんばかりの勢いで、女が語気を荒げた。
「園田瑞穂?」
「電車に轢かれて、ここへ運ばれたって、連絡をもらったのよ」
女性が新宿駅でホームから転落し、運悪く到着した電車の下敷きになったという、先ほどラジオで聴いたニュースを、守衛は思い出した。
なんでも、スマホに夢中になって歩いていた若い男が、ホームの前に立っていた女性と接触し、そのはずみで、女性はホームに転落してしまったということだ。
その女性を助けようとして、傍にいた男性がホームに飛び降りたが間に合わず、その男性も、一緒に下敷きになってしまった。
二人は、夫婦だったそうだ。
ぶつかった男は、二人を助けようともせず、その場を逃げ去った。
警察は、その場に居合わせた人々の証言や、監視カメラなんどで、男の行方を追っているという。
そんなに周りが見えなくなるほど、スマホで何をしていたんだろう?
そのニュースを聞いたとき、スマホや携帯を、ただの通信道具としか思っていない守衛は、不思議でしようがなかった。
ニュースでは、その女性が身籠っていたことまでは流していなかった。
多分、その段階ではわからなかったのだろう。
知っていたら、そんなネタが大好きなマスコミのことだ。
大々的に、センセーショナルな取り上げ方をしたに違いない。
むろん、お涙頂戴で視聴率を上げるためだけに。
視聴率を前にしては、人の尊厳などおかまいなしなのだ。
「そういえば、つい、一時間ほど前に、救急車がやってきて慌ただしかったですが、あれがそうだったんですね」
守衛の目が、恐怖の色から一転、同情の色に変わった。
「どこへ運ばれたの?」
「さあ、そこまでは」
守衛が首を振ったとき、廊下の奥から、二人の警察官が現れた。
ひとりは若く、もうひとりは年配だ。
女性と守衛の声が聞こえていたのだろう。
「園田靖男さんと、瑞穂さんのご家族の方ですか?」
年配の方が、事務的な口調で尋ねた。
「瑞穂の妹の、結城志保です」
志保が、身分を名乗った。
「姉さんはどこです?」
「他に、ご家族の方は?」
年配の警官は、志保の問い掛けには答えず、またもや質問してきた。
「いないわ。姉さんも義兄さんも、家族はわたし一人だけよ。それより、姉さんと義兄に合わせて」
怒気を含んだ志保の口調に、若い警官が反応した。
「君、警察に向かって…」
志保を怒鳴りつけようとした若い警官を、年配の警官が手で制した。
「いや、申し訳ありません。これも職務でして」
さしてすまなさそうに、軽く頭を下げた。
志保はそれには答えず、苛立った表情で、警官を見据えていた。
「なにか、身分を証明するものはお持ちですか。これも、職務でして」
志保の苛立ちなど、まるで意に介さないような、いたって暢気な口調で言って、年配の警官が、志保に手を差し出した。