駄目大人たちの酒宴
11月の第3木曜日。
それはフランスの法で定められた、あるものの解禁日である。
「お待たせしましたーっ!」
アパートの一室に、甲高い女性の声が響く。彼女は二十代後半といったところか。童顔ではあるが落ち着いた顔つきをしていて、かわいらしさを残して成長した大人の女性といった感じだ。
しかし表情は若干疲れている。制服のままここに来たということは、仕事帰りなのだろう。着込んだコートを壁に掛け、他の面子の座るコタツに向かう。
「おーう。ごくろーさん!」
「待ってたよー」
「もういいんだ、僕のクリスマスなんて、仕事一色なんだ……」
コタツには彼女の他に、三人の先客がいた。
黒髪を肩でばっさり切った女性。落ち着いた雰囲気で鍋の用意をする茶髪の男性。そして、既に相当酔いが回っているのか、机に突っ伏したまま恨み言をぶつぶつ呟いている男性。
彼女はコタツの前で、何か瓶状のものが入った紙袋を掲げた。
戦利品のように。
「みなさーん! 今年も、ボジョレーヌーボーの解禁日がやってまいりましたぁーっ!」
『イエーイ!!』
三人は揃って歓声をあげた。
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11月の第3木曜日。
それはフランスの法で定められた、とあるワインの新酒の解禁日である。
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コタツでは鍋が、ぐつぐつと湯気をたてている。
最近めっきり寒くなってきた。夜風にあたって冷えた身体に、このコンビは最高だ。さっそくコタツに潜り込もうとすると、正面に座っていた黒髪の女性に注意をされた。
「レイ。外から帰ったら手洗いうがいだ。忘れんなよ?」
レイと呼ばれた女性は、むくう、と不満げな顔をしたものの、素直にそれに従った。
「はーい。ガッコーの先生は、やっぱりそういうとこ厳しいですねえ」
「今時の高校生だって、そのくらいはしつけされてんぞ」
「わかりましたよぉ。悪かったですね駄目な大人でー」
言いながら、洗面所に向かう。途中の台所で、エプロンをつけた茶髪の男性が鍋用の白菜を切っていた。
「れいちゃん。なに飲む? ビール? 日本酒? 焼酎?」
「とりあえずビールでー」
「オッケー」
男性は冷蔵庫を開け、冷えたグラスと缶ビールを取り出した。第三のビールではない。本当のビールだ。
レイがコタツ戻る頃にはちょうど、茶髪の男性も席についていた。ビールも机に置かれていて――グラスに注がれるときを、今か今かと待っている。
「ほれ、起きろ匠。乾杯すっぞ」
黒髪の女性に揺すられて、匠と呼ばれた、酔っ払っていた男性ががばりと身を起こした。
端正な顔立ちをしているのだが、酔っ払って赤くなった顔と、ずれた眼鏡、無精髭で色々台無しになっている。彼は寝ぼけた目つきであたりを見回しながら「はえ? 先輩、これから本番ですか?」と言った。先輩と呼ばれた黒髪の女性が、苦笑いしながら匠に言う。
「そうだ本番だぞ匠。これからがアタシたちの、本当の本番だ!」
「イエーイ!」
「イエーイ!!」
まだ一滴も飲んでない他二人が、おかしなテンションで追随して叫ぶ。「そうか、本番ですかぁ……」と嬉しそうに言った匠が、空になっていたグラスにどばどばとビールを手酌した。
レイと茶髪の男性も、それぞれ自分のグラスに酒を注ぐ。レイはビール、茶髪の男性は芋焼酎のロックだ。
黒髪の女性が杯を掲げる。こちらは日本酒。
「おーしおまえら、酒は行き渡ったか? じゃあ始めっとすっか!
『酒を愛する音大卒業生の会』、今日も元気に、アルコール摂取! かんぱーーーーいっ!!」
『かんぱーーーーーーい!!!』
駄目大人四人が一斉に酒をあおる。全員イッキだった。
ぷはぁ――と心からおいしそうな息を吐いて、黒髪の女性が杯を机に置いた。
「くはーッ。うめー!! やっぱ仕事の後の一杯は最高だな! 沁みるぜ!」
完全におっさんの台詞を吐きながら、追加の酒を杯に注ぐ。一升瓶からだくだくと注がれる日本酒。その瓶を見たレイが、目を見開いた。
「ほっ、鳳凰美田の純米吟醸、『美田亀の尾米』じゃないですか!? そんな飲み方して、もったいない!?」
「ケチくせえこと言ってんじゃねえよ! 酒だってうめえっつって飲んでもらえるのが一番だろ!? 価値がわかって飲んでんだから、野暮なことは言いっこなしよ!」
江戸っ子みたいなことを言って、酒をあおる学校の先生。あわわわわ、とレイが彼女の五臓六腑に消えゆく酒たちを見つめていると、コタツの一角にいる茶髪の男性が、今度は焼酎の陶器から自分のグラスに酒を注いでいた。彼はレイに言ってくる。
「れいちゃん、職業病だねえ。酒の瓶が気になってしょうがないんだ」
「そりゃあ、酒問屋に勤めてれば、職業柄気になっちゃうもので――って、都賀先輩までなにやってるんですか!? それ吉四六の壷じゃないですか!?」
「あははー。さすがれいちゃん。貴重性をわかってるねー?」
「言いながら爽やかにあおりやがったぞ、この腐れ楽器屋が!!」
カパカパと都賀はグラスをあけていく。ああ、酒蔵のおばちゃんたちが毎日手作業で詰めている、大量生産できない貴重な品が……。レイは心の中で、おばちゃんたちに土下座をして謝った。でもありがとう。こんなおいしいものを、世の中に出してくれてありがとう!!
「イエーイ! やっぱビールはスーパードライだぜーい!!」
あっさり復活して、レイも自分のグラスにビールを注いだ。冷たいグラスから喉に流し込む。このキレ味がたまらない!
「くはーっ! やっぱ仕事終わりのビールサイコーーーっ!」
先輩と同じことを言いながら、たんっ! とグラスを机に置く。なんだかんだ言って、彼女も先輩たちと同類なのであった。
都賀が不思議そうに、そんなレイに訊く。
「れいちゃん、なんで普通のビールなん? 最近はプレミアムビールとかも人気じゃない?
ほら、プレミアムモルツとかエビスとか、アサヒだったら、あれ、熟撰だっけ? そういうのさ」
「ふっふーん。先輩わかってないなあ。酒ってのはねえ、料理と一緒に飲んでなんぼなんですよ。プレミアムビールみたいな濃いやつだと普通の料理の味を上回っちゃって、なんとなく味がわからないまま終わっちゃうんですよねー。贈り物にはいいですけど、日常的に飲むなら、断然普通のビールでしょ!」
酒飲みにしかわからない理屈で、レイは都賀にドヤ顔をした。「なるほどー」とわかったのかわかってないのか、都賀はにこにこと続けて訊く。
「じゃあ、なんでドライ? 一番搾りとか、黒ラベルとかは?」
「あー。それは単純に好みの問題です。キリンは私にはちょっと苦く感じるし、サッポロはなんか、牧歌的な味がしますよねえ」
キリンは伝統派、アサヒは革新派、サッポロはのんびりやさんでサントリーは趣味に生きる自由人だ。
「まったくサントリーは、今年もプレミアムモルツメーカー品切れしやがって!」
業界愚痴を言いながら、レイは次のドライの缶を開けた。工場が全国に三箇所しかないからもう作れません、とか、どんな言い訳だ。とっとと上場して資金を集め工場を作り、私たちにビールを提供しないか!!
「ビールを! もっと、ビールを!!」
「お、乗ってきたね、れいちゃん。冷蔵庫にビール、まだあるからね」
「感謝します先輩!!」
敬礼して、ぐびりとビールをあおる。都賀もぐびぐびと焼酎を飲み、鍋の様子を確認している。そして、都賀の正面にいる匠は――
「ほうら城山先輩! 寝てないで! 飲んで飲んで! 飲んで私の会社に貢献して!」
ビールをこぼして泡だらけになったグラスを片手に、城山匠はコタツに撃沈していた。ひん曲がった眼鏡越しに見える瞳は、既に現実世界を見ていない。
こりゃあきっと、明日は記憶が飛んでるんだろうな――と、学生時代を思い出して、レイは懐かしく思った。みんなでアホみたいに飲んで騒いでいた学生時代。うん、今とあんまり変わらない!
「クリスマスにコンサートをやるんです……今年も彼女とのデートの約束ができませんでした……いい加減僕振られそうです、振られそうなんです……!?」
ぶつぶつ呟いていた匠は目を見開いて起き上がると、手近な酒瓶から酒を猛然と注いだ。
「売れない音楽家の僕にせっかくできた彼女なのに!? 待って!? 行かないで!? 僕が悪かったです!? でも、仕事しないと僕はお酒も飲めないんです!?」
「本音が出たね」
「クリスマスなんて西洋の宗教行事じゃん!? 日本関係ないじゃん!? 日本は日本人らしく、お・も・て・な・しの精神で初詣とかで作法に困ってる外国人とかを優しく教えてあげればいいんじゃないですか!?」
「先輩はその西洋楽器を吹いてお金を稼いでるんですが」
「もうやだコレ!? 酒飲まないとやってらんないんだよチクショー!!」
大演説の末、匠は手にしたグラスを一気にあおった。透明な液体が、喉の奥に吸い込まれていく。
そして全部飲み干した瞬間に――匠はその場にひっくり返った。
匠が飲んだ酒の瓶を確認して、黒髪の女性が言った。
「あ。今こいつが飲んだやつ、ウオッカだったわ」
「ああ、サントリーウオッカの100Pですか。アルコール度数50度のやつですね」
「カクテル作る用に置いといたやつなんだけどな。もう空じゃないか」
「使えねえな。こいつ起こして買出しに行かせるか」
口々にひどい台詞を吐く酔っ払いたち。匠は真っ赤な顔をして、眠りこけている。とりあえずほっとくことにした。
レイの持ってきた紙袋を見ながら、黒髪の女性がつぶやく。
「なんかもう、日付変わるの待つのめんどくせえな。飲んじまおうかボジョレー」
「だめですよ!? フランスのワイン職人の意地にかけて、それ以上に私の職にかけて、そんなことは許しません!!」
黒髪の女性が紙袋に手を伸ばそうとするのを、必死になって止めるレイ。都賀がまたしても、レイに訊く。
「れいちゃん。ボジョレーヌーボーってよく解禁日って言ってるけど、あれなんなの?」
「よくぞ訊いてくれました!!」
レイが力強く立ち上がった。拳をにぎり、最高の熱をもって、質問に答える。
「フランスのボジョレー地方で今年作られたワイン。それがヌーボー!
フランスの法律は酒飲みに厳しく、今年の酒を飲み始めていい日を、がっちりと決めてしまったのです!! それが11月の第3木曜日、つまり明日!!」
「なんでだよ」
「フランスのワイン職人たちは、自分たちが作ったものを不完全な形で世に送り出すことを望みませんでした――。彼らは万全を期して、自分たちの作品であるワインをきっちり仕上げてから、世に送り出すことにしたのです!!」
「プロ根性だねえ」
「そうです! 私は彼らの心意気に感服したからこそ、解禁日前に開けて飲むような無粋な真似はしたくない!! わかってくれましたか先輩!?」
「なるほどわかった」
「ありがとうございます! では、歌いましょう! 彼らを讃える歌を! 大丈夫、私たちは音大卒です――きっと立派に歌えます!!」
せーの、と指揮を振る真似をして、レイは歌い出した。
「酒が飲めるぞ!」
『ヘイ!』
「酒が飲めるぞ!!」
『ヘイ!』
「飲める飲めるぞぉーお、酒が飲めるぞ!!」
『ヘイ!!』
見事な歌いっぷりだった。寸分の狂いもなく揃っていた。駄目な大人たちだった。
「よーし、じゃあとっときのを出しちまうか、音楽を愛するアタシらにぴったりの一品だ――響、30年!!」
「10万円のウイスキーキターーーーーッ!!!」
今夜最高の盛り上がり。浴びるように酒を飲みながら、駄目大人たちの夜は更けていく。
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11月の第3木曜日。
それはフランスの法で定められた、ボジョレー地方で作られたワインの新酒の、その解禁日である。
日本はフランスより早く日が変わるため本家のフランスより早く飲めるということで、日本人の初物好きに乗っかって売り出された商品だ。
「午前0時以前の販売および消費 厳禁」と書いてはあるものの――フランスの法のため、実は日本では罰せられることはない。
だがそれでも開けるのをためらうのは、待ちに待ったものを開ける「その瞬間」を、大切な誰かと共有したいからだ。
かつて大切な時間を共有した者たちは、それを知ってか知らずか――ワインの瓶を傍らに置き、思い出話に花を咲かせる。
「ほんっとこいつ女運悪いよな。前もなんか、変な女にひっかかってなかったか?」
「ああ、『私と音楽、どっちが大事なの!?』って詰め寄られたっていうアレですね」
「そんなもん音楽に決まってんじゃないですか! そんな馬鹿なこと言う女はうんこですようんこ!!」
「レイ、食事中にうんこ言うな」
「お酒足りないね。持ってくるよ」
「おう! 酒だ酒だー!!!」
飲めれば別にいいらしい。
幸せそうに眠る匠は、「先輩……また、一緒に……楽器を……」と寝言を言いながら、今夜もそんな仲間たちに囲まれていた。
高校生が頑張っている話を書いていると、大人たちが馬鹿やってる話が書きたくなります。