第一話 婚約破棄とマタギの記憶
「フランチェスカ・シトロン! 貴様との婚約は、今日この場をもって破棄する!」
朗々とホールに響く声に、周囲がざわめいた。それもそのはず、王立学院で最大のイベントとも言える、卒業生の門出を祝う舞踏会で、まったく似つかわしくない不穏な宣言だ。
しかも名指しされたのは王国で最も権勢を誇る公爵家のご令嬢。声の主はその婚約者である王太子殿下である。
さらに言えば、婚約者であるご令嬢を突き飛ばし、床に倒れ込ませた状態での宣言だったものだから、良識のある者は全力で眉をひそめた。
卒業生のみならず、在校生とその両親、保護者も参加を許されている場でのことだ。生徒は貴族しかいないので、当然参加者も皆貴族。これがこの国の王太子か、と暗澹とした気持ちになるもの。何やら面白い見世物が始まったようだと扇の下で笑みをこぼすもの。反応は様々だが、共通するのは、誰もが様子見とし事の行方を見守る選択をしたことだ。
すなわち、床に倒れ伏す令嬢――フランチェスカ・シトロンに救いの手を差しのばす者はひとりとしていなかった。
嫌悪、好奇、憐憫。様々な視線を一身に集めたフランチェスカは、この時、とんでもない混乱の中にあった。長年友好を温めてきた婚約者に公衆の面前で突き飛ばされ、身に覚えのないことで罵られ、婚約破棄を宣言されたのだから宜なるかな。
フランチェスカの婚約者であり、この国の王太子、レイモンド・アース・ライオネルは、倒れ伏したまま愕然と自分を見上げるフランチェスカを、冷え切った眼差しで見下ろしていた。何やら汚いものでも目にしたような、侮蔑に満ちた双眸に背筋が凍る。
恋こそしていなかったが、生涯連れ添う相手だと、愛せるよう努力し、慕ってきた相手から向けられた嫌悪の感情に、鉛を呑んだように胸が重くなっていった。
「半分とはいえ血を分けた妹に対する冷酷な仕打ち――それも、この国を救う予言の聖女への暴虐は見過ごせない」
レイモンドは良く通る声でそう言って、傍らの少女の腰を抱き寄せた。薄桃色のふんわりとしたドレスを身に纏った、淡い栗色の髪の可愛らしい少女。……フランチェスカの異母妹、マーガレットは、大きな桃色の眸にうるうると涙を浮かべている。
「お姉さま……、そんなにあたしのことが気に入らなかったのですか? 暴漢を雇って襲わせるほど……」
肩をふるわせ、マーガレットは涙をこぼした。怯えきったような、というには、その表情にどこか愉悦を滲ませていたけれど、レイモンドがそれに気付いた様子はない。
いや、レイモンドだけではない。その後ろにずらりと控えている、フランチェスカとも長く親しんできた幼馴染みたち……宰相の子息であるセシルや、近衛騎士団長の子息であるタキオン。他にも学友として親しんできた者達が、一様にフランチェスカを睨みつけているのだ。
「そ、んな……こっ」
そんなことはしていない。
そう否定しようとしたのに、声が震えてうまくいかない。どんなときでも淑女にふさわしい態度を取れるよう、厳しい教育を受けてきたのに。
いや、しかし、このときばかりは仕方なかったのだ。
フランチェスカは混乱していた。
婚約者に、幼馴染みたちに、異母妹に、謂われのない罪で糾弾されていたから。
もちろん、それもある。
だが、他にも理由があった。
(この記憶は、何!?)
レイモンドに突き飛ばされ、床に倒れたその瞬間から、フランチェスカの脳裏を駆け巡る、覚えのない記憶が、混乱に拍車をかけていたのだ。
真っ白な雪山。
粗末な木の枝と葉で作られた、小屋とも言えないような小屋。
藁の傘を頭から被り、獣の皮を着て、黒い筒を背負い、槍を片手にした男達が雪山を走る。
雪原の中、黒く大きな獣を、大声で追い立てて――……。
そんな、見たことも経験したこともないはずの記憶だ。
「シトロン公爵も、とうに貴様を見放したぞ。煮るなり焼くなり好きにしろとのことだ。今すぐその首を刎ねてやりたいところだが、仮にも元婚約者であったのだからな。温情だ。国外追放で留めてやる」
レイモンドがつらつらと、断罪の言葉を吐いている。
けれどもう、フランチェスカには反応することができなかった。頭の中を渦巻く膨大な記憶に、今にも意識を失いそうになっていたからだ。
真っ青な顔のフランチェスカの両腕を、レイモンドの命を受けた兵士が掴んで無理矢理立たせ、引き摺るようにホールから連れ出され――。
そうして、気付けば。
フランチェスカは粗末な馬車に乗せられ、王都の城門をくぐり、走り続けること三日。国境沿いの山中に置き去りにされのであった。
卒業式は年の瀬、星誕祭に行われる。つまりは真冬。あたりは雪に覆われていた。
こんな時期に令嬢がひとり、身一つで放り出されたのだ。のたれ死ねと言われているようなものではないか。
遠ざかる馬車を見送って、フランチェスカが途方に暮れたのは、ほんの数分のことである。
馬車に乗っている間に、なんとか整理した記憶が、フランチェスカに呆然とその場に留まることを許さなかったのだ。
――歩け。
じきに吹雪が来る。
それまでに、安全な場所に身を隠せ。
記憶の中の男が、そう言っている。いや、正確には、男の経験からの警告だとも言えるだろう。
とにかく、フランチェスカはその内なる声に従った。山道を登っていくうちに、うっすら積もっていた雪が深くなって、いつの間にか履いていたヒールが脱げてなくしてしまっても。
何日もかけて吟味して、王都一の仕立屋に仕上げて貰ったドレスの裾が、枝にひっかかって破れても。
少しでも安全な場所へと避難しなくてはならない。国境の城門は閉ざされ、そして何より、王族によって国外追放を言い渡されたフランチェスカには城門の内側に入る術などないのだから。
はらはらとこぼれる涙すら、すぐさま凍り付きそうな寒気に身を震わせる。夜会のためのドレス姿に、防寒性などあるはずもない。移動中、お情けで渡された薄い毛布を肩に巻き付け、必死に雪山を歩き続ける。
この山を越えた向こうは隣国の領土だけれど、はたしてそこまで辿り着けるだろうか。
弱気の虫が騒ぎ出せば、内なる声がなんとかなる、とそう言った。
――斜面はゆっくりと、ジグザグに歩け。
――焦るな。歩く速度は一定に。
――吹雪さえしのげば、野ウサギを捕って食って力を付けろ。
そうすれば、隣国まで歩いて行って、身につけていた宝石を売れば良い。それでいくらかの金になる。そうしたら、山刀と、できれば鉄砲を買うのだ。
そうして山で獲物を獲って、毛皮や肉を売って暮らせば良い。
内なる声が、生き残る術を教えてくれる。
それは、国一番の権勢を誇る公爵家の令嬢、フランチェスカ・シトロンの記憶にはない知識であり、経験であった。
だけれど、内なる声は、既にフランチェスカに馴染んでしまっている。誰に言われずとも、自分自身が一番理解していた。
この記憶は、自分のものである、と。
フランチェスカがフランチェスカになる前の――前世の記憶。
生まれは日本、東北の山村。
職はマタギ――マタギの鉄次。
二度打ち無しの鉄と云われた、名うてのマタギであった記憶が、フランチェスカを生かすのだ。
「こんなところで……、死ぬものですか……!」
悔しかった。
悲しかった。
腹立たしかった。
何故こんなことになったのか――。
訳もわからぬまま、死んでなるものか。
その一心で、フランチェスカは歩き続け、そうして見つけた洞窟に避難した。少しでも入り込む風雪から身を隠そうと、岩陰に張り付くように座り込み、両手足を擦り合わせ寒さに耐える。
本当なら、岩穴の入り口を塞いで、焚き火で暖を取りたいところだ。しかし生憎と持っているのは、薄いボロ毛布の他、スカートの下に忍ばせていた護身用の細い短剣と、身につけていたアクセサリーだけである。火付けの道具など何も持っていない。
探せば山の中にあるものでどうにかできたかもしれないが、今のフランチェスカには道具になるものを探し集める余力すらなかった。
かろうじてできたのは、洞窟の周辺で見つけた杉の木から、枝葉を集め岩穴の地面に敷き詰め、布団代わりに被ることくらいだ。
火を生み出す魔法でも使えたら、どんなにか良かっただろう。しかし、フランチェスカに扱える魔法は、身体強化だけだ。それ以外の魔法は、どれほど努力しても身につかなかった。
神聖力があると、幼い頃確かに神殿で見いだされたはずなのに。フランチェスカのそれは、己の身体能力を強化するだけで、異母妹のように他者の傷を癒やしたり、力を増幅したりすることもできなかった。
――そんなだから、捨てられたのか。
レイモンドは、ありもしない罪をでっち上げてまで、フランチェスカを追い出したかったのか。
それほどまでに、婚約者に疎まれてしまっていたのだろうか。
真っ暗な洞窟の中で、身を縮めて凍えていると、鬱屈としたことばかり考えてしまう。弱気になっていてはいけない。心が負けたら、立ち上がれなくなる。
いっそ洞窟の中を歩き回っていれば、少しはマシだろうか。
――いや、ダメだ。無駄に体力を減らしてはいけない。
内なる声はそう言う。
けれどこのままじっとしているのも辛い。
洞窟に灯りがともったのは、フランチェスカが弱気に折れそうになったときだ。
ひらひらと、何か明るいものが浮いている。ほんの小さなそれでも、真っ暗な洞窟ではいかにも目立った。
続いて、足音。
何者かが洞窟の中に入ってきたのだ。
どくん、どくんと心臓が早鐘を打つ。
護身用の短剣を握りしめ、様子を伺う。小さな光源が何かすら、良くわからない。黒い何かがうごめいている。
獣だろうか。まさかこの岩穴は獣のねぐらだったのか。そんな気配はなかったが、この吹雪だ。どこかから避難してきたのかもしれない。
相手はまだこちらに気付いていないようだ。
――それならば。
死にたくはない。
捨てられて、死を望まれて、そのまま思い通りになどなってやるものか。
生き延びてやるのだ、何がなんでも。
短剣を強く握りしめ、フランチェスカは最後の力を振り絞って、己に身体強化の魔法をかけた。そうして、強く地面を蹴り、獲物へと襲いかかる。
襲われる前に、仕留めるのだ。
――覚えているのは、そこまでだった。
本日はここまで。明日から一日一話、夕方に更新予定です。




