01 老人の穏やかな死
老人は、ふと目を覚ました。
使い慣れたベッドから身体を起こそうとするが、体中に鉛でも流し込まれたかのように重い。
浅い呼吸を何度か繰り返してから、全身の力を振り絞り身体を起こそうとする。が、4回目で諦めた。
「あぁ、暗い……」
目を開けても、ぼんやりとしか物が見えない。
しわがれた声は聞くものも答えるものもおらず、薄暗い部屋の中では、アンティーク物の柱時計がカチコチと音を立てていた。
麻宮健人は、先月91歳になったばかりだ。
明治生まれの祖父の代から続く写真館を護り続けてきたが、つい十年ほど前に、日本や米国で大手フィルムメーカーがフィルムの生産をやめた。
200年近く続いた、フィルム写真の文化が絶滅した瞬間を見届けてなお、健人はデジタルカメラを手にすることはなかった。
古典技法と呼ばれる湿板写真の技法を研究し、自らカメラを作り上げるまでに至っていたものの、やはり時代の波というものには抗えなかった。
写真館の客足はぱったりと途絶え、時折物好きな客が写真を撮りに来る程度。最後に客の写真を撮ったのが何年前だったか、もはや思い出せなくなっている。
「…………身体が……重い……」
口の中だけでもごもごと呟いて、目を閉じる。
還暦の頃に、長年連れ添った妻の沙織と死に別れて以降、健人はひとりこの狭い写真館で生きてきた。
子宝に恵まれず、夫婦2人だけで、食べていくのにもギリギリといった程度の収入。爪に火をともすような生活だったが、不思議と健人は幸せな人生だったと振り返ることが出来た。
ただただ慎ましく、妻と写真とカメラを愛した90年。特段善行を積んだわけでもないが、悪行にも手を染めていない。ひたすら平凡で、小さく、取るに足らない人生だったかもしれない。だが、健人は満足していた。
ふぅ、と大きく息をはくと、まるで鉛でできた身体がベッドに沈むように感じる。
不意に、閉じたまぶたの向こう側が明るくなる。
目を開けると、まるで天使のような羽の生えた何かが、自分に向かって手を伸ばしていた。
嗚呼、お迎えですか。沙織さん、今逝きますよ。30年も待たせてしまいましたね。
そう考え、老人はシワだらけの顔に穏やかな笑みを浮かべる。
健人の死は、報じられることも誰にも知られることもなく、ただの独居老人の孤独死として扱われた。
近所の老夫婦からの『写真館のおじいちゃんの姿を3日くらい前から見ていない』と通報をうけ、健人の家を訪ねた警察官が見たもの、それは事件性など微塵も感じられないほど、穏やかで安らかな死に顔を浮かべた、孤独な老人の姿だった。
突如、真っ白い空間にファンファーレの音が鳴り響く。
「うわっ?」
唐突な金管楽器の音に、健人は思わず耳をふさぎ身を屈めた。
彼が驚いたのはファンファーレだけではない。
自分が立っていること。
腰と膝と背中、それに肩と首と肘に痛みがない。
耳をふさいだ手を顔の前に持ってくると、シワのないみずみずしい肌の手の甲。
さらに、悲鳴のように驚きの声を挙げたときの、潤いのある若々しい声。
どれも、健人が失って半世紀が経とうという、『若さ』だった。
「大往生、おめでとうございまぁす! 麻宮健人さん、ですね?」
「え? ……あ、は、はぁ、そうですが……」
突如、健人の眼の前には小柄な、小学生くらいの女児であろうか。満面の笑顔を浮かべた可愛らしい子供が立っていた。
「91年間、お疲れ様でしたぁ! 麻宮さんは人生での『功徳ポイント』が転生・転移可能レベルに達していましたので、これから新しい人生を送って頂けます!」
「……新しい、人生、ですか?」
慎重に言葉を区切って、子どもと視線を合わせるようにしゃがみ込む。
以前なら杖をついても『しゃがむ』という動作にはかなりの覚悟が必要だったのだが、今は何のためらいもなく膝を曲げてしゃがむことが出来た。
「はいっ! 今流行りの、異世界転生、異世界転移っていうやつですね!」
「……いせかい、てんせい……?」
「…………あれ? えっと、麻宮さんってひょっとして……異世界転生とか異世界転移、ご存知ない感じです?」
「はい、存じませんね……」
「あ、あの、ラノベって読んだことありません? あとあの、えっと、異世界ものの漫画とか?」
「は、はぁ、らのべ、ですか……小説はもっぱら歴史小説ばかりで漫画は特に読みません。その、手塚治虫の火の鳥とか、横山光輝の三国志とか、そういうものなら多少は」
「うわぁ昭和ぁ……あ、あの、えっとですね? 異世界転移っていうのはですね? その、何ていうか……『亡くなった方が、地球とは違う世界で生まれ変わって人生をやり直す』っていう感じので、今すごく人気が高いコンテンツでして」
「ということは、僕はやはり死んだんですね。あの、妻がこちらにお邪魔しませんでしたか? 名前は麻宮沙織というんですが」
「いや、えっと、その、えーっと……す、すみません、奥様はちょっと存じ上げないんですけど」
「……僕は、死んだあと妻に逢えるのを楽しみにしていたんですが、そううまくは行かないものなんでしょうかね……」
「あの、大多数の方はその、転移とか転生とかしないんです。麻宮さんは生前に善行をたくさん積まれて、それで『善き人』枠で異世界転移っていう、そういう流れのアレでして、はい」
だんだん女児の表情が困惑に染まってきた。
このところ、特に日本人を転移や転生させる際には、非常に話が早かったものだ。中には「テンプレ」の一言だけで大まかに自分が置かれた状況を把握する者すらいたくらいだ。
「えっと、すみません、自己紹介が遅れちゃってましたね、私は異世界の女神というやつでして」
「はぁ、これはどうも、ご丁寧に」
健人は穏やかに、深々と頭を下げる。つられて女神を名乗った女児も慌てて頭を下げる。
「最近日本人の方で、『死んだあとに別世界の発展に貢献したい』と申し出られる方がすごく多くてですね? それで、まぁその、転移や転生する先の世界の状況に応じて『特典』といいますか、優遇措置をさせていただいてましてですね?」
「ほうほう、なるほど」
「で、ですね? このところ結構たくさんの方が転移された先が、やれ魔王との戦争だやれ追放だやれ悪役令嬢だと、まぁなかなかにシビアな世界が多くてですね? それで特典をかなり払い出してしまっていまして……」
「はぁ、随分とまた世知辛いところなんですねぇ……」
しみじみと腕組みをして、健人は女神が指し示す地図のようなパネルを覗き込んだ。
健人はテレビゲームなどの経験がない。令和の時代にスマホも持っていなかった。パソコンはシルバー教室で触った程度で、取引先への年賀状などもパソコンとプリンタではなく、懐かしのプリントゴッコやシルクスクリーンなどの技法を使っていた。
そのため、情報が表示されるパネルなどというものは全く馴染みがなく、大変物珍しそうに覗き込んでいる。
「今その、麻宮さんにお渡し出来る特典が、なんというかこう……大変にこう、良く言えば地味、悪く言えば『パッとしない』ものばかりでして……それでその、まぁこれは私の裁量っていう具合になるんですが、全部差し上げちゃおうかなと」
「いやいやそんな、全部なんて」
「麻宮さんが転移する予定の世界ですけど、まぁぶっちゃけた話平和です。種族の存続をかけたような大きな戦争もないし、明確な人類の敵対種みたいなのもいない。まぁ害獣駆除とかはありますし、こう、国家間の軽い小競り合いとか揉め事みたいなのはありますけど、大規模な戦争はもうかなり長い事ない、っていう具合の世界なんです。特に麻宮さんは生前善行を積んでおられましたし、麻宮さんご自身も争い事は苦手なんじゃないかなーって思いまして」
「はぁ、ありがたいですね。僕はどうしてもこう、何と言うか、争い事というか揉め事は苦手でして」
少しばかり気恥ずかしそうに頭をかくその姿は、いかにも穏やかで人畜無害そのものだ。戦いや争いに向いていないであろうことは、ひと目見ただけでも嫌でも理解できてしまう。
「麻宮さんが転移する先は、すっごく平和で穏やかな、『バルゴ』という世界です。転生だと赤ちゃんからのスタートなんですが、麻宮さんの場合は今のその、19歳の健康な身体状況でのスタートですね。あと、転移されるかたも転生される方も、共通特典として『亜空間収納』というのを持っていただいてます。これはまぁ一言で言えばインベントリ……って分かんないですよね。まぁ、目に見えない、重量を感じない、容量がほぼ無間の倉庫を持ち歩けると思ってください」
「なるほど、その、それでは荷物をいくらでも持ち歩けるという訳ですね? まぁ持ち物については良いんですが、その、生活費なんかは……?」
「んっとですね、お金についてはぁ……まぁ、一時金的な? そんな具合のをお渡し出来るんですけど、基本的には転移した先で稼いでいただいて、って感じです。あと、バルゴの通貨は『クローネ』で、小銅貨1枚が1クローネで、日本円でいう100円くらいです。大銅貨1枚は500円、小銀貨1枚が1000円、大銀貨が5000円、小金貨が1万円、大金貨が5万円、白金貨は滅多に出ないですけど、1枚で百万円です。物価は日本と比べると安いですね。パンが5つで小銅貨1枚とか、素泊まりの宿が小銀貨1枚から1枚、日本円で1000円から、高いところで3000円ってとこですね。一時金としてお渡し出来るのは100万円相当で、大金貨10枚に小金貨30枚、大銀貨20枚、小銀貨40枚、大銅貨100枚、小銅貨100枚になります。現金は出来れば亜空間収納にいれておくと、盗まれることもないですし安心ですね」
「そうですか、それではまぁ……何ヶ月かは生活ができるんですね」
「あぁいえいえ、物価は日本と比べても安いですから、贅沢しなければ1年くらいは暮らせます。その間にお仕事を探して頂くことになりますね。あと、神殿に来て礼拝をして頂ければ、礼拝1度につき小金貨を1枚お出しする具合で、生活の補助をお出しする予定です」
なかなかのドヤ顔で童顔の女神はふんぞり返り、まっ平らな胸をそらす。
「それはありがたい話ですが……その、礼拝だけでそんな毎回1万円相当というのは、あなたにとっても無理になるのでは」
「いえいえいえ、そんな事無いです! 礼拝ってすごく大事なんですよ? 私達神族は、管轄する世界で生きる生命の『祈り』が活力源なんです。祈りを捧げられない神は死んじゃうんです。だから、礼拝して頂くことは私にとっても死活問題なんです。だから、礼拝に謝礼を出すのは神として当然です」
「……僕が生きていた国では、神様にはお祈りをしてもなかなかこう……謝礼の類はなかったんですが」
「あー、いますいます。そういうのっていますよ。貰うだけ貰って返すモン返さないっていうの。まぁ、神様側が大変な状況だったりしたらそういう事が続いたりもしますね」
「そうなんですか……」
「ま、私はアレですよ。世界も平和な状態になったし、神の調停とかその辺の介入もほとんど要らないですし。まぁそれで割と余裕がありますんで、それもあって謝礼をお出し出来るんです。なので、礼拝は遠慮なくしていただいて大丈夫ですよ」
健人は腕組みをして何事かを考え込んでから、女神へと少しばかり怪訝な顔を向けた。
「その、僕の特典というのは、具体的にどんなものになるんですか?」
「あ、はいはいそうでした、そこ説明しないとですよね? 心の中で『ステータス』と念じてみてください」
「はぁ……ステータス」
ひゅん、という軽い音と同時に、健人の眼の前に半透明に光り輝くパネルが現れる。
「おぉっ? こ、これは?」
「これがステータスパネルっていうものです。今の麻宮さんの状態を表したものですね。生命力はゼロにならないように注意してくださいね、死んじゃいますから。あと、この『スキル』っていう項目が特典が入ってるところなんですが」
健人の眼の前のパネルの下に表示されている『スキル』の項目には、いくつか文字が羅列されている。
祈祷、増幅、反転、亜空間収納、定着、器用、長命、頑健といった項目が箇条書きになっており、それぞれの項目のすぐ横に『レベル10』と記載されている。
「これが麻宮さんのスキルです。合計で8つなんですが、内2つは転移される皆さんに持って頂いてる祈祷と亜空間収納ですね。残りの6つは麻宮さんの固有スキルっていう事になります。本来なら皆さんレベル1からのスタートなんですけど、レベル10は最高値なんです。これは私からの、御長寿のお祝いだと思ってください」
健人はじっと目の前の文字に見入っていた。
器用、長命、頑健は意味が分かる。
恐らくは手先が器用になり、健康で長生きができるということだろう。
だが、残りの3つ、増幅と反転、それに定着はどういうことだろうか。
「これは……どういうことでしょうか……」
「ん? どうしました? なにか珍しいのありました?」
「いえ、これなんですが」
健人がパネルを指差すが、女神は少し困った顔で首を横に振る。
「あの、ステータスパネルって、基本的に本人にしか見えないんですよ。私は神ですんで『ステータスパネルが出てる』っていうことは分かるんですけど、通常はパネルが出てる事自体わからないんです。っていうか、普通の人はステータスとか見れなくって、スキルも授かりはしますけど本人しかわかんないんですよね」
「そ、そういうものですか……では、その……使い方が分からない物があった場合は?」
「あー、まぁ時々あるんですけど、申し訳ないことに試行錯誤していただくしかないんですよね」
健人は、生前の老いた頭とは全く違う、格段に冴え渡った頭を高速で動かしていた。
増幅、反転、定着。これらの言葉は、健人にとって心当たりがあるどころか、人生において馴染み深いものであった。
この3つを組み合わせれば、写真の『現像』が出来るかもしれない。
そう考えついたときには、思わず笑みを浮かべたが、すぐに残酷な現実に打ちのめされることになる。
フィルムがないのだ。
写真を撮影するには、カメラとフィルム、つまり写真機と、光を写し取るもの、そして写し取った光を目に見える形に、そして光に当てても変質しない形に定着させる物が必要になる。
他のすべてが揃っても、どれか1つでも欠けたら写真は成立しない。
「……ダメ、ですか……」
しょげかえった健人に、女神は慌てて取り繕ったような笑顔を向けた。
「ま、まぁアレですよ! 人間なにがあるかわかんないじゃないですか、ねっ? バルゴはまぁ、そのー……麻宮さんが生前使ってた、何でしたっけ? かめら? でしたっけ? そういうのって無いんですけど、でもまぁ増幅だってこう、弱い風を強くしたりも出来ますし? 反転なんて凄いんですよ? 力の方向を反転させたりとか? ねっ? すごくないです?」
女神の必死のアピールも、健人の心には届いていないようだった。
「……そうですね、無いものを頂けたのですから、不満を持ったりしてはいけないですね。どうにかして使い方を探ってみることにします」
満足げな笑顔で頷いた女神は、健人の手を引いて巨大な祭壇のような場所へと登る。
「それじゃあ麻宮さん、心の準備は良いですか? あんまりここに長時間いると魂が不安定になっちゃいますんで、転移しようと思います」
「分かりました。お願いします。……そうだ、服とか、そういうものは」
「大丈夫です! 転移先で『一般的で地味な服』になるように調整しますから。あと、転移したら人前でステータス確認は避けたほうが良いです。あと、亜空間収納もバレると利用されやすいですから、できるだけ人目を避けた方がいいですね」
「ありがとうございます。気をつけます」
祭壇が優しい緑色の光に照らされる。
健人の身体が光に溶け込み、自らの手が透け始めていることに、ほんの少し驚きの表情を浮かべた。
「麻宮さん、あなたは功徳を積んだ結果として新たな人生を歩むチャンスを得ました。新しい人生でも是非、幸せになってください」
「そうですね……妻には、もう少し待って貰うことになるでしょうか」
健人は薄っすらと笑みを浮かべ、そして周囲が緑色の光に包まれた。




