6
あれから十日ほど過ぎた。
毎日三食口にするようになったレイジュの回復は、めざましいものだった。全快ではないにしろ、もう日常生活を送るぶんには支障がない。
しかし次の一手について、彼女はどうしたものか考えあぐねていた。
寝台に腰かけたまま、窓越しにぼんやり空を見上げる。太陽を背に飛び立つ小鳥の群を眺め、レイジュは深く溜息をついた。
──休み過ぎて、気持ちが悪い。
里では、どれだけ不調でも鍛錬に出ていたのだ。これでは逆に持て余してしまう。本当は討って出たいところだが、まだカナンと渡り合うだけの力はない。
それどころか、たとえ傷が完治しても正面切っての討殺は不可能だ。急所である龍脈が視えない上、実力の差が如何ともし難い。別の手を考えるべきである。
(ならば、やはり毒が有効……)
龍殺において最善は龍脈を突くことだが、次善には毒が挙げられる。人身の龍ならば、身体構造は人と同じだ。致死量は変わるが毒でも殺せる。これなら実力は関係ない。
問題は、それだけの効力をもつ毒薬の入手だった。幸いレイジュは調合ができるが、肝心の材料がない。自決用に仕込んだ奥歯の毒は、知らぬ間に取り除かれていた。さすがに層雲宮から里へ採りには戻れまい。
「──さま、──……ジュ様」
そも、現在地が曖昧だ。近場で素材を探そうにも、土地勘がない。仮に誰にも見つからずに外出し、運良く採取できたとして、今度は調合する場所がない。道具もない。おまけにこの寝室は、わりと頻繁に出入りがある。
毒殺は、原則一発勝負だ。気取られないことこそが肝要となる。少しでも勘づかれれば、成功率は極端に下がってしまう。
「──ジュ様、レイジュ様」
ならばやはり、無茶を承知で奇襲をかけるか。
隙をついて上手く急所に当たれば、カナンに致命傷を与えられるかもしれない。勝算は泣きたくなるほど低いが、それぐらいしか、ほかに道は──。
「レイジュ様!」
「ぴゃあッ!?」
素っ頓狂な声が出た。
慌てて振り返ると、いつの間にか横にコウエンが立っている。
朝餉の一件ののち、レイジュの世話はほぼコウエンが引き受けていた。なお、主であるカナンは二日にいっぺんほど昼時に現れ、ひとしきりどうでもいい話をして帰っていくのが常だ。
「ああ、申し訳ありません。先ほどからお呼びしていたのですが、お返事がないものですから」
「いえ、それは失礼しました」
詫びるコウエンに、レイジュは苦い気持ちでかぶりを振る。
……どうも最近、勘が鈍っている気がする。もしや、食事に五感が衰える薬でも盛られているのではないか。
そんな疑念を顔に出したつもりはなかったが、
「私どもは何もしちゃいませんよ。我々には殺気がないんです。レイジュ様は、殺意に鋭くていらっしゃる。だからです」
「あなた、読心術まで心得ているのですか?」
視線に明確な敵意を乗せ、コウエンを睨めつける。
対するコウエンは怖じる様子もなく、大仰に肩をすくめてみせた。
「そんな大層なもんじゃありませんよ。私は小心者ですから、他者の顔色を窺うのが得意なだけです」
「小心? こうして龍討師の前で堂々と姿を晒す、あなたが?」
「そうですよー。私もあの方も、本当は怖くて仕方がないんです。けれど、もう歩みは止められませんから」
含みのある表情でそう言い、コウエンは金の眼を伏せる。
「わかりませんね。何が、そんなに怖いのですか?」
「はて、レイジュ様のことでは?」
「とても見えませんね。あまりにふてぶてしくて」
「お褒めいただき光栄です。これは我ら、精一杯の見栄でございますれば」
白々しい笑顔ではぐらかすと、コウエンはそそくさと茶器の支度を始めた。飲み薬のほかに、最近は日替わりで飲茶が用意される。今回もそれだろう。
作業するコウエンを眺めつつ、レイジュは半ば呆れを込めて呟いた。
「あなたと会話していると、ときどきカナンと話しているような錯覚に陥ります」
「ご冗談を。私などより、テンレイコウとお話される方がずっと楽しいでしょう?」
「楽しそうに見えますか? わたしが」
「はい。ですがまあ、あの方の幸せ波動が強烈で、少々かすんで見えるのは事実ですが」
「……瘴気にあてられたのでは?」
病む前に、魔除けの護符でも買った方がいい。早急に。
「あ。そうだ、忘れてました。実はレイジュ様にご報告がありまして」
唐突に言うとコウエンは手を止め、レイジュに向き直った。日数的にはカナンがくる頃合いだ。何事かあったのだろうか。
「なんでしょう?」
「テンレイコウ、ほんとは午後いらっしゃる予定だったんですけど、今日はこちらへお見えになれないんです。お風邪を召されましてね」
「風邪? あのカナンが?」
鬼の霍乱か、天変地異の前触れか。
正確にレイジュの考えを読み取ったコウエンは、苦笑しつつこぽこぽと茶を注ぎながら頷いた。
「ええ。昨夜早めにお休みいただいて、もう大方治ったんですけどね。大事をとって、今日の外出は控えてもらいました。万が一、レイジュ様にお移ししたら大変ですし」
「さしものカナンも、風邪には勝てませんか」
「まあそうなんですが、あの方、なかなか病状を認めてくれなくってですね。健康だ、問題ないの一点張りで、ここに至るまでけっこうな駄々をこねまくったんですよ。で、最終的に私がそのへんにあった花瓶を振り上げたところで、ようやく納得してくれました」
と、内容と裏腹な爽やかさでコウエンは語る。
どうやら彼に魔除けの護符は不要らしい。多分、もう病んでる。
「昔っから、どうも御自分の体調を過信するところがあるんですよねぇ。ま、今回は年甲斐もなくはしゃぎ過ぎたんでしょう。おかげで、私の為事も増えてしまいました。今日はまともにお仕えできそうにありません。ひらにご容赦くださいませ」
「構いません。身体もだいぶ動くようになりましたし、独りの方が気楽ですから」
「そう言っていただけるとありがたいです。となりの寝殿にいらっしゃるテンレイコウは、寂しくて泣いちゃうかもしれませんが」
「泣きますか、あれが?」
「勿論、嘘泣きです」
「なるほど」
猛烈な説得力だ。
レイジュが相槌を打つ横で、円卓に飲茶を揃え終えたコウエンは、優雅に一礼した。
「本日のお茶は、蜜蘭香をご用意いたしました。茘枝のような香りが特徴の、飲みやすいお茶です。こちらの馬拉糕は生地に紅甘藷を加えて、優しい味に仕上げています。ぜひご賞味くださいませ。一緒に果水の入った水差しも置いておきますので、こちらもどうぞご自由に」
「果水とはなんですか?」
「果汁、蜂蜜などをちょこっと混ぜたお水のことです。ほぼ水だと思ってください。これはほんのり檸檬の味がしますので、すっきりさっぱりしたい場合はこちらがおすすめです」
ほぼ水。ほぼ水ならば、普通に水を出せば良いではないか。
そこにわざわざ果汁を混ぜる神経がレイジュには理解できないが、金持ちの道楽にいちいち突っ込んでいてはきりがない。そのまま聞き流しておいた。
「私は夕餉の刻限に、また参りますので。それまでどうぞ、ゆっくりおくつろぎくださいませ」
「わかりました」
贅を尽くした食卓を睥睨しつつ、レイジュは了承する。
普段はこれで終わりなのだが、今日に限ってコウエンは立ち去るそぶりを見せず、その場にとどまった。
「……何か?」
「一つ、お訊きしてもよろしいでしょうか?」
いつになく真剣な眼でコウエンが問う。
どうやら無駄話ではなさそうだ。レイジュは背筋を伸ばし、慎重に訊き返した。
「なんでしょう?」
「御前の頸級を狙うなら、何故、私を生かしておくのです? ご覧のとおり、私は龍です。寿命もあるので、龍脈もよく視えることでしょう」
「あなたは昇山しましたか?」
間髪入れずにレイジュが問うと、コウエンは束の間虚を突かれた表情を見せたあと、首を振った。
「いいえ、私は文官です。あの場では足手まといとなりましょう」
「でしょうね。あなたの手は綺麗過ぎますし、動きも武芸者のそれではありませんから」
同意すると、コウエンは怪訝な瞳をレイジュに向けた。
「武官を殺せ、との命だったのですか?」
「いいえ、『昇山せし悪しき龍を殺せ』です。あなたは昇山していない、ならば、討伐の対象ではありません」
「こっそり登っていたかもしれませんよ?」
「それはないでしょう。カナンが昇山した以上、あなたが出向く利がありません。不測の事態に備え、後詰めを任せた方が安心です。それにカナンがあの山に、文官を連れて行くとも思えませんし……。龍ですら、昇山を躊躇うのですから、あの山は」
「やはりあなたは、本来賢い」
「……はい?」
出し抜けにコウエンに言われ、間抜けな声が出た。
今の会話の流れでこの相槌は、少々文脈がおかしい。
しかしコウエンはレイジュを意に介さず、屈託のない笑顔を浮かべた。
「獄のごとき冬と、法が統べし山──獄法山は、非常に過酷な場所とうかがっております。ご推察のとおり、軟弱な私にはいささか、荷が重い」
するりと口にしたその一節は、里の者以外、知りえぬ詩だ。
途端、脳裏で弾かれたように警鐘が鳴る。敵意と語気を強め、レイジュはコウエンに問いかけた。
「どこで獄法山の名を知ったのです? あれは地図にも載らない、未開の山ですよ?」
「ごもっとも。良い傾向です」
「はい?」
「獄法山の話、私はテンレイコウからうかがいました。御前も昔、ある御方から聞いたそうです」
「それは誰です?」
「私からは申し上げられません。恐れながら、こちらに関しては御前に直接お訊きくださいませ。──では、私はこれにて」
「ま、待ちなさいッ!」
意味も分からないまま、唐突に話を打ち切られてしまう。
声を荒げて呼び止めるも、コウエンはどこ吹く風で奥の間へ消えてしまった。
──いったい、彼は何を確認したかったのか。
一瞬、詰め寄って脅しをかけようかとも思ったが、やめた。そんなことをしても、コウエンは口を割らないだろう。知り合ってからの日は浅いが、今までのやり取りで予想はつく。
裏切り者の存在は気になるが──まずは最優先事項の対処が先決だ。
すなわちカナン、悪しき龍の討伐である。
(カナンの病。この機を逃すわけにはいかない)
多少なりとも弱った今こそ、一矢報いる絶好の機会だ。
決意を新たに肘を突き、寝台から身を起こす。床に足を下ろし、そっと立ち上がってみた。多少、背中が攣る感覚はあるが、痛みはない。軽く歩き回るくらいなら支障ないだろう。
寝間着のまま戸棚をあさり、目当ての物を取り出す。まさかとは思ったが本当に、莫迦丁寧に手入れされた飛刀が保管されていた。
懐にそれを隠すと、意を決してレイジュは外へ足を踏み出した。
そして──廊下に出るなり、レイジュはその場に立ち尽くした。
今日は天気が、すこぶる良い。空は青く、気温も高く、雪は溶けきっている。探索にはもってこいと言えよう。
空から視線を落とす。
一応覚悟はしていたが、この層雲宮は想像以上に広大な敷地にあるようだった。玄州らしい峻厳な山々を背景に、今レイジュの眼前には、巨大な庭園が広がっていた。
野晒しでは決して成立しない、美しく整えられた庭木の枝や草花。広がる蓮池を的確に区切り、随所に半円を描くよう渡された石橋。その連なりの奥に見える複数の離宮、等々──。
景観に対する強い恣意と、美意識が伝わってくる。門外漢のレイジュでもわかる。腕のいい庭師の手と、維持に莫大な財をかけねば、こうはいかない。
(それにしても、蓮の花って……冬は枯れますよね?)
足もとにある、薄桃色の花を観察する。池に浮かぶ無数の蓮は満開だ。もともとそういう品種なのか、あるいは、この土地特有のものなのかもしれない。何せ、このあたりの気候は玄州とは思えないほど温暖だ。季節が狂っている可能性がある。
「いえ、今はそんなことよりも……『お役目』を果たさなければ」
声に出して奮起する。
何よりも、まずはカナンだ。
コウエンが『となりの寝殿』と言うからには、そう遠くはないはず。この場から近い御殿だろう。周囲に見える建物の中からあたりをつけ、レイジュはその方角へ足を向けた。
蓮池を縫い、蛇のように蛇行する廊下をひたすら歩く。道中は静かなもので、途中、誰かと遭遇することもない。常々層雲宮の危機管理がおかしいと思っていたレイジュだが、実際に歩いてみると別の観点も生まれた。
どうもこの宮の立地は、天然の要塞らしい。周囲の山が目線より下にあるので、獄法山ほどではないが、かなりの高さがある。玄州山脈の特徴を考えると、切り立った山の頂上を切り拓き、造られた宮殿なのではないだろうか。
(だとすれば、この宮の周囲は、崖)
多分、断崖絶壁だ。
だからこそ、侵入者への警戒が薄い。
しかもレイジュが寝起きする寝殿は、敷地の最奥に位置するようだ。長であるカナンの寝殿がとなりなら、ここは敷地の中でも最深部に違いない。兵からすれば、何重もの堅い警護のその先にある、主君の寝所──禁域なのだろう。
橋の下を流れる鴨の親子を見つつ、自分なりの分析をまとめてみる。
恐らく、そう間違ってはいないはずだ。その証拠に、池で非常食の食料まで飼育しているではないか。万全の構えだ。そして美味しそうだ。
つらつらと考えながら石橋を渡り終えたところで、レイジュは目的の寝殿にたどり着いた。
やはり、警護の兵はいない。しばらく物陰から観察していると、一度だけ龍の女官が桶と手拭いを抱えて寝殿に入り、退出した。カナンの風邪は治りかけという話だったから、寝汗でも拭うためだろう。
女官が完全に立ち去ったことを確認し、レイジュは寝殿へと潜入した。
(息の根は止められずとも、必ず一矢報いてみせる)
強い決意を胸に、殿内を探索する。案の定、中は無人かつ無龍だ。カナンがいるとすれば、殿内の最も良い室──東南の角だろう。
懐から飛刀を取り出す。息を殺し、足音を忍ばせて回廊を巡る。幸い、この寝殿内には中庭が造られていた。奥から水音がするので、ここにも庭池があるようだ。多少の物音はこれで紛れる。都合がいい。
中庭に沿うようにして回廊を進んでいくと、かすかな金属音がレイジュの耳に届いた。足を止め、耳を澄ませる。
しゃらん、しゃらん、と鳴るこの独特な高音を、レイジュは知っている。間違いない。これは、レイホウジュの頸飾りの音だ。
ここまで聞こえるということは、窓を開け放しているのだろう。あれだけ後生大事に持っていた頸飾りだ。この先にいるのは、カナンと断じて問題ない。
逸る鼓動を抑え、さらに慎重に回廊を行く。
ほどなくして、レイジュはカナンの寝所と思しき室の前に到着した。
この寝殿は中央に中庭を配し、各室と回廊がぐるりと周囲を囲む設計のようだ。どこからも中庭を堪能できるように、という配慮なのだろう。もちろん、カナンがいると思われる室も中庭に面している。
回廊から中庭へ半身を出し、室内の状況を確認する。
感じられる気配はひとつだ。木々に隠れて中は見えないが、物音から察するに、かなり近い。どうやらカナンは、独りで庭先に出ているようだった。
仕掛けるならば、今しかない。
室の前に戻り、飛刀を握りなおす。
そこでふと、レイジュは扉に吊り下げられたものに気づいた。
把手の部分に、何やら文字の書かれた板がぶら下がっている。
曰く、
『入浴中』
これは……『取り込み中』『入るな』という意味だろうか。
療養中の来訪者への指示なのだから、まあ、そんなところだろう。無性に不安を掻き立てられるが、その程度で屈するレイジュではない。このような好機、そうそう訪れるものではない。
板を無視し、把手に手をかける。
そっと動かすが、鍵はかかっていない。
よし、一気に畳みかける!
「カナンッ! お命ちょうだ──」
扉を蹴破り、侵入したレイジュの名乗りは、そこで急速凍結した。
果たして目当ての龍は、確かに、室にいた。
いたのだが──。
「ん?」
控えめな、しかし品の良い調度品で整えられた室。
その開け放たれた窓辺にたたずむ、痩身の美しい青年が独り。
完璧な比率を誇る体躯には、左肩に不自然なまでの大きな傷痕が見える。
くるりとこちらに振り返ったカナンは、普段通りの呑気さで──さらに言うと、一糸纏わぬ素っ裸だった。
「………………」
「レイジュ、何故こんなところに。わざわざ見舞いにきてくれたのか?」
「………………」
「私は大事ない。心配させてすまなかった。ああ、大袈裟に伝えたのは、コウエンだな?」
「………………」
「そなたの方が、よほど安静にせねばならんというのに。まさか私のために、見舞いにきてくれるとは」
〈あー…………おい、カナン〉
近くの机に置かれていたコクエイが、いたたまれない様子で呼びかける。
が、カナンはまったくもって態度を崩さなかった。
「こんな遠くまで、たった一人できたのかね? 難儀だったろう、すまなかった」
「………………ッ」
〈カナン。おいカナン、聞け!〉
「そうだ、レイジュ。私の室には露天風呂があってね。傷にも良いゆえ、そなたもゆっくり浸かっていくと──」
「………………ッッ」
〈カナン! お前、せめて下を隠さんかッ!〉
「…… ──ぴ、」
「ぴ?」
「ぴぎゃあああああああああああああぁぁぁ── ──ッ‼」
間の抜けた、けれど渾身の絶叫が、殿内に響き渡った。