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「こんばんは、龍の御方。貴殿の頸級を頂戴に参上しました」
宣言とともに、再び開眼する。
邪魔立てするなら、先にこの龍を始末すればいい。
絶対の自信に拠る彼女の優位は、しかし、直後に崩壊した。
「龍脈が、ない……?」
無様な声が漏れる。
眼前の龍には、急所となる龍脈が視えなかった。
黄金の絹糸が優雅に舞い、たゆたうあの独特な紋様が、白銀の龍には存在しない。
――いいや、あった。
眼を眇めて凝視する。ごくわずかに視える煌きは、確かに龍の命脈だ。しかし、なんて薄い。これではないも同然だ。
こんなにも細い、しかも流動する脈を飛刀で捉え、穿つなど不可能に近い。
内心焦るうち、両眼に刺すような痛みが走った。
(……限界か)
少し、眼を遣い過ぎたらしい。
後先考えず酷使し続ければ、最悪失明しかねない。
仕方なく力を解くと、再び鮮やかな色彩が彼女の視界に広がった。
今夜は月が明るい。
照らし出された戦場に、生々しい喧騒が蘇る。血潮と氷雪が舞い、刀剣が鳴り響く銀世界が。
あつらえたような舞台の中心で、白銀の龍はいまだ立ち尽くしている。
──と、初めてその唇が動いた。
「レ――」
最初の音は、そう聞こえた。
あるいは「エ」だったのかもしれない。
いずれにせよ、最後まで耳を傾ける気はなかった。
元の龍身に戻られては厄介だ。
龍脈を突けないのなら、即物的に討つしかない。
いかに頑丈な龍も、頸を落とせば絶命する。
幸い、敵は油断しているようだ。
狙いを定め、両手に持てるだけの飛刀を取り出す。
一気に間合いを詰め、それらを呆け面の龍に叩き込んだ。
眉間、咽喉、心臓、眼、手首──。
急所ばかりを狙った投擲は、思いがけず失敗に終わった。
いとも容易に、それも完璧に、白銀の龍に防がれたのだ。
この近距離で、ただの一投も、かすりもない。
でたらめにもほどがある。
あと数歩というこの近さで、四肢をどう動かせば、こんな芸当が可能になるのか。
漆黒の剣を抜く瞬間と、その軌跡は、視えた。
しかし、彼女に知覚できたのはそこまでだ。
鋼を弾く音すら、耳に届かない。
ほんの一瞬、ごく軽い剣の一振りで、気づけば飛刀が雪面に刺さっていた。
それも、遣い物にならない姿で。
よく見ると、飛刀の刃は半ばから断たれ、その断面は鏡のように光っている。
覗き込めば、驚愕する自分の顔が映ることだろう。
(──莫迦な)
今度こそ本当に、血の気が引いた。
自分も龍討師だ。多少の武道の心得はあるので、解る。
これは、なまなかな努力でどうにかなる領域ではない。長命の龍だからこそ可能な、達人の域を超えた技だ。
もう一度、白銀の龍がたずさえた剣に視線を投げる。
黄金の鍔から伸びたその剣身は、主と対を為すような黒鉄色をしていた。
濡鴉のような質感は見るからに鋭く、触れた途端、指が落ちてしまいそうだ。さぞかし名のある名工が鍛えた業物なのだろう。
あの絶技は、単に剣の斬れ味が良いのか。
それとも、担い手の腕が良いのか。
あるいは、その両方か。
(この、化物が)
胸裏で悪態をつく。戦況は極めて悪い。
ちらと横目に見た龍兵の練度も、予想以上だ。龍討師一人を相手に、数名がかりで着実に対応している。味方の援護は期待できそうにない。
(どうする)
一か八か、討って出るか。
思考を巡らせたとき、それを遮るように男の声が響いた。
「お下がりください、テンブコウッ!」
白銀の龍が発したものではない。
声の主を見やると、先ほど頸の皮一枚で存えた、不寝番の龍がいた。剣を手に、慌ただしい足取りで白銀の龍に駆け寄る。
テンブコウと呼ばれた龍は、きょとんとした顔で不寝番の龍を見返した。そこでようやく我に返ったらしく、金の瞳に力が宿る。
長い睫毛を上下させ、育ちの良さを感じさせる優雅な所作で、白銀の龍はかぶりを振った。
「いや、お前はほかの討師を。彼女の相手は私がしよう」
「しかし、それでは御身が……」
「我が名において命ずる。下がれ」
低い、けれど、その美貌に相応しい声音で命じる。
女のような顔立ちで確信が持てなかったが、この低声から察するに、やはり男のようだ。配下に厳しく言い置くと、テンブコウなる龍は彼女に視線を戻した。
──戦るか。
気負い、身構える。
鋭い眼光にさらされるかと思いきや、ふ、とそのまなざしが和らいだ。
「どうか武器を収めてくれ。私はそなたに、何もしはせぬ」
違和感しかない、柔和な笑顔でそう告げる。
誰が、そんな戯言を信じるものか。
出かかった台詞を呑み、彼女は白銀の龍との間合いを計った。この龍に敵意があろうがなかろうが、こちらの為すべきことは一つしかない。
すなわち、悪しき龍の討伐だ。
再び、地を蹴る。
飛刀を逆手に持ち替える。
雪面を駆け、白銀の龍に肉薄した。
龍脈が視えない今、しかも手練の龍相手だ。
飛刀のような、殺傷力の低い暗器で致命傷を与えるには、
(咽喉笛をかき切るッ!)
渾身の一撃。
しかし、互いの武器の間合いが違い過ぎた。
やはり黒剣をたずさえた龍の方が、はるかに速い。
瞬間、自分の腕ごと飛刀が落ちる光景が脳裏を過ぎるが、
「斬るなよ、コクエイ」
白銀の龍の、妙な独白が落ちる。
突き出した飛刀は吸い込まれるように黒剣の鍔に食い込み、言葉通りぴたりと停止した。
彼女の飛刀と黒剣の力が拮抗し、刃を軋ませ――……いや。
拮抗など、してはいない。
間近で見る龍の涼しい顔に、彼女は悟る。
受け流すことも、斬り伏せることもできるが、あえてしない。
甘んじて受けている。手心を加えられているのだ。
その証拠に、彼女が飛刀にどれだけ力を込めようと、白銀の龍はびくともしない。変化もせず、人身で、この腕力だ。
(気に喰わない)
舐めているのか、強者の余裕か。人を莫迦にして。
無色の殺意に、焔色の敵意が宿る。
大きく舌打ちし、彼女は一時後退した。
白銀の龍は追わず、ただこちらを見送るのみだ。追撃はしない。
ぬるいその反応にも、彼女の怒りは募った。
格が違う、というその事実に異論はない。敵は龍の将帥と思しき剣の遣い手だ、実力は認める。彼我の差が読めぬほど、彼女は未熟ではない。
だから、怒りの所以は別だ。
腹に据えかねたのは、その態度──これほどの力を有しておきながら、反撃の一つもしない。まるで彼女を侮辱しているとしか思えない、その態度だった。
(忌々《いまいま》しい……)
唇を噛む。
若輩であろうと、この身は龍討師。
それがすべてで、己の存在意義である。
戦場の死は名誉だ。むしろ本意だというのに、その価値もないと、この龍は言うのだろうか。惰弱な人の娘など、自ら手を下すまでもないと。
「もう、よさんか? 勝負はついただろう」
視線で周囲を示し、白銀の龍が告げる。
気づけば、龍兵との戦闘は収束しつつあった。
討師五十人に対し、龍兵の数は二百強。いかに龍討師と言えど、この戦力差は覆せない。修練を積んだ兵に、量で押されてはなおさらだ。そもそも龍討師は、白兵戦に向かない。元来は隠密、暗殺を基とする衆なのだから、当然である。
彼女はつとめて感情を消し、白銀の龍に問いかけた。
「わたしとあなたの勝負は、まだついていません」
「その力量なら、彼我が読めぬわけではあるまい」
「臆しましたか? 龍ともあろう御方が」
「是と言えば、武器をおさめてくれるだろうか?」
「まさか」
一笑に付す。
降伏など論外だ。生き恥を晒す気はない。
圧倒的に有利なはずの龍は、彼女の応えを聞くとあからさまに表情を曇らせた。
「何ゆえ、そなたは死に急ぐ?」
「簡単なこと。それがわたしの『お役目』だからです」
言い終わる前に、彼女は戦闘を再開した。
もう、この龍を討てるとは微塵も思っていない。
死は覚悟の上だ。
最後に一矢、この男に報いることができればいい。
そう、一撃。
一撃与えれば、それで。
がむしゃらに飛刀を放つ。
それ予期するように、漆黒の剣が閃いた。
飛翔する刃はことごとく断たれ、あっけなく払われる。
彼女は足を止めず、そのまま白銀の龍の懐に飛び込んだ。
腿に括っていた最後の短刀を抜き、勢いのまま振りかざす。
完全な捨て身。
我ながら隙だらけである。
敵にとっては絶好の機会だろう。
歯を食いしばり、固く両眼を閉じる。
どうせ、この男の龍脈は視えないのだ。
あとは斬られた反撃で、武器を取り落とさないように。
血が滲むほど握りしめた短刀を、感覚だけで振り下ろした。
心臓を貫かれるか。
あるいは、頸を刎ねられるか。
……そのどちらでも、良かった。
短刀に、確かな手ごたえが伝わる。
痛みはまだ来ない。恐る恐る、瞼を持ち上げる。
彼女が握った短刀は、眼前の龍の肩に、ざっくりと突き刺さっていた。
息を吐く。白い。
胸が上下している。心臓は動いている。
頸もまだ繋がったまま。両手足も健在だ。まだ自分は生きている。
今、何が起きたのだろう?
放心したまま、ゆるゆると顔を上げる。
すぐにそこに、極めて端整な面があった。
眼の錯覚か、その表情は微笑んでいるようにすら見える。
身体の力が抜ける。
真っ白な雪の上に、血のついた短刀がぼとりと落ちた。
「な……なぜ………」
「――なぞ、」
つぶやく龍の呼気が頬を撫でる。
思わず肩が跳ねた。
わからない。何一つ、わからない。
だが理解できないなりに、自分がこの龍の琴線に触れてしまったことを、彼女は悟った。それほど、顕著だったのだ。
──白銀の龍は、憤っていた。
深く、静かに。そして苛烈に。
穏やかな声を、優しげな双眸を裏切るように。
白銀の龍の、抑揚を排した美しい旋律が告げた。
「『役目』なぞ、知ったことか」
「え……?」
疑問符がのぼる。
自分に向けられたようには聞こえなかった。
しかし、ならば、誰に宛てての怒りなのだろう。
わからない。理解できない言動に、当惑するばかりだ。
ただ──ただ、ほんのわずか。
瞬く刹那に、この龍の命が惜しいと思った。
この龍の存在が得難いと、そう思ってしまった。
それだけ、この龍は美しかったから。
だから、きっと、それが敗因だ。
「あなたは、いったい――」
続くはずの問いかけは、結果として紡がれることはなかった。
その前に、息が止まるほど強い衝撃に見舞われたからだ。
背にひやりとした、金属の感触。
はじめは自分の身に何が起こったのか、理解が及ばない。
一拍置いて、じわりと背中が熱を帯び、やがて熱棒を押しつけられたような激痛が突き抜けた。
ひゅう、と咽喉から音が漏れる。
いまだかつて経験したことのない痛みに、声も出ない。
醜態を晒しながら、彼女は敵であるはずの白銀の龍にすがりついた。
彷徨わせた視線の先に、真っ赤な刀剣と、それを握る無骨な腕が見えた。
持ち主は、若い男……我の強そうな顔立ちだ。
血気盛んな、金の双眸。
憶えがある。
(ああ。あの、不寝番の龍)
やけに赤い、剣をぶら下げて。立って。
そこまで考えてようやく、背を刺されたのだと理解した。
膝下が消えてしまったように折れる。許しを請うように腕を伸ばす。
視界がいやに狭くて、紅い。水に浸かったように、衣服がどくどくと湿る。
頭から雪面に突っ込むところを、すんでで白銀の龍に受け止められた。
「手を出すなと命じたはずだ!」
どこか遠く、かの龍の激昂を聞く。
先刻までのすまし顔を思い出し、彼女は鼻で嗤った。
いい気味だ。
もっと取り乱せばいい。
これでこの男の器量が知れるというものである。
「――と――……」
白銀の龍が、何か口を動かしている。
だが耳を傾ける気はない。
もう、起きているのも億劫だ。
思考を手放しかけたところで、白銀の龍に身体を引き寄せられた。
布のようなものを患部に押し当てられ、痛みで強制的に覚醒する。
見上げた夜空に、化外の美貌があった。
何度見ても嘘臭い顔立ちだ、とぼんやり思う。誰かに夢だと言われたら、きっと信じるだろう。
こうも現実味がないと、自分が生きていることすら怪しくなってくる。
案外、もう死んでるのかもしれない。
思うそばから、瞼が重くなった。
酷く、頭が重い。
世界が暗い。眠い。なんだか疲れた。
昏倒する寸前、耳もとで白銀の龍が囁いた。
もう、二度と──。
「二度と、死なせはしない」
その言葉を最後に、彼女の意識は途絶えた。
*
冬になると、里では毎年死人が出た。
だからずっと、四季の中では冬が一番嫌いだった。
逆に、好きな季節は夏だ。獄法山の春は、存在が疑わしいほど短い。秋もすぐに肌寒くなり、冬の到来に気が滅入る。となると、残るのは必然的に夏だった。
獄法山の夏は過ごしやすく、食うに困らず、収穫の秋に胸が躍る。そんな季節だ。やはり夏が一番良い、という結論に達する。
夏になると、里の周囲は白罌粟の花で満開になった。だから風花の里と呼ぶのだろう。鮮やかな空の下に、一面の白色。まるで雲の上を行くような花絨毯が広がり、咲き誇るさまは壮観だ。いつまでも夏が続けばいいのに、と幾度思ったか知れない。
彼女の、ほぼ唯一の嗜好。
彼女は、夏が好きだった。
白罌粟の丘を越えて里に戻ると、嗅ぎ慣れた香が彼女を出迎える。鼻腔をくすぐる、甘い香り。いつもふわりと心が浮き立つ。この香を吸えば、どんなにつらいときも気持ちは満たされた。
古びた門をくぐり、住まいのある修練堂へ向かう。色褪せた板張りの床を、赤く腫れた素足で歩く。幸い自分の身体は丈夫で、手足の指は十ずつ健在だ。人によっては寒さで指が欠けたり、片足を失ったりする。
最悪なのは、凍傷で眼が駄目になることだ。龍討師にとり、瞳は命だ。これだけは、なんとしても守らなければならない。
そんなことを考えつつ、がらんとした堂の中を進む。不思議なことに、人影はまったくない。彼女一人だ。
いつものように閉め切った室内は薄暗く、香で常にけぶっている。左右の壁には武術指南用の暗器がずらりと並び、奥にかかった御簾からは、うっすらと紫煙がくゆっていた。
(今日の『お役目』を果たさないと……)
雑巾がけの桶を拾い、何気なく廊下に出る。
そこで突然、何者かに背を斬りつけられた。
熱い。
思考が白熱する。
膝が崩れ、床板が傾ぐ。
身体が泥に浸かったように重くなる。
一呼吸するたび、背筋に尋常ではない激痛が走った。
異常に咽喉が渇く。陸に放られた魚のように水が恋しい。そのくせ、汗は滝のように流れるから不毛だ。
苦しみ悶え、獣のような様相で床に転がった。こめかみから鼻を伝い、汗がぼたぼたと滴る。汗は途中から真紅に染まり、くたびれた床板を鮮やかに濡らした。
死ぬのだろうな、と漠然と思う。
絶えず天地がひっくり返るような、苦痛。
脳髄が灼け爛れるような、灼熱。
吐血のさなか、あまりの痛みに本気で死にたいと願った。
生きることが、こんなにも苦しいものならば。
さっさと息絶えてしまった方が、ずっといい。
――だれか、たすけて。
かみさまにすがったら、真っ白な死神が現れた。
携えた黒い剣の刃を、頬に押し当てられる。
冷たくて、心地がいい、と彼女は思った。