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「ちんたらしてんじゃねぇよ、愚図がッ!」


 容赦のないこぶしが飛ぶ。

 壁に肩をしたたか打ちつけ、崩れるように黎珠は床に倒れた。


 龍兵に捕縛され、黎珠が連れて行かれたのは地下の石牢だった。さびれた風景に、既視感が胸を刺す。光が届かず、寒さと湿り気を帯びた牢は、獄法山での暮らしを想起させた。

 身体からだだけでなく、精神こころきしむ。あの頃は当たり前だった環境が、今はとても苦しい。


 黎珠が立ち上がれずにいると、数名いた龍のうち、兵長らしき男が近寄ってきた。無造作に黎珠の髪を掴むと、無理やり顔を引き上げさせた。


つうッ!」

「下等な猿が! 家畜の分際でオレらに楯突たてつこうなんざ百万年(はえ)ぇんだ──あ?」


 不気味なほど唐突に罵倒が止む。

 龍兵はおもむろに黎珠の上着に手を入れると、何かを握り引き抜いた。

 しゃらん、と聞き憶えのあるが耳に届く。

 すぐに何を奪われたのか理解した。


「返してください! お願いします、それだけは──」


 なりふり構わず、物乞いのように龍兵の足にすがる。

 しかしそんな黎珠の懇願も、すげなく別の龍兵によって振り払われた。


「猿が金の頸飾くびかざりだぁ? てめえ、何様のつもりだよ? 分不相応にもほどがあんだろ」

「違います! それはわたしの物ではありません! ある方の、大切な頸飾くびかざりで――」

「ぴぃぴぃうるせぇぞ! 黙れ、下賎な猿がッ!」


 こぶしを振るわれ、石壁かべに側頭部を殴打する。

 龍相手に武器を奪われ、両手に枷もかけられている以上、黎珠に反撃は不可能だ。為すすべもなく、黎宝珠の頸飾くびかざりは龍兵の手に渡った。


「こいつは没収だ! シガク様のお達しがあるまで、猿はせいぜい地べたを這いずり回ってろ」


 品のない嗤い声とともに、牢の鉄格子が閉められる。

 唇を引き結んで、黎珠は嗚咽をこらえた。床にできていた水溜みずたまりで、浴びた血糊を可能な限り落とす。


 ──なかなか血が落ちない。まだ、両手の震えが止まらない。

 怖い。孤独を、暴力を、こんなにも苦しく感じている。

 けれど、昔は違った。


 里では、修練での打撲や切り傷は日常茶飯事だった。幼少時は絶命した者も多い。命の危険が多いぶん、あのときの生活の方が過酷だったはずなのに、感じ方がまるで違う。圧倒的に、今の方がつらい。

 寒くて、ひもじくて、涙があふれそうになる。どうしようもなく夏楠が、孝燕が、黒影が恋しかった。


 こんなことになるなら、黎宝珠に願わなければ良かったのではないか。あのまま崖から落ちて、一思いに死んでいれば……。

 そんな身勝手な思いが脳裏をかすめる。

 けれど。


 ──だがどうか、そなたは生き汚くあっておくれ。


 温かい声、懐かしい記憶に励まされて、黎珠は上体を起こした。

 まだだ。まだ、死ねない。

 この程度で、負けてなるものか、と歯を喰いしばる。


 どんな夜も必ず明けると言った、夏楠の言葉を思い出す。

 そうだ、生きてさえいれば、きっとまた逢える。それまでは死ねない。なんとしてでも、生き延びてみせる。


 ──今のわたしには、人としての意思がある。


 自分はもう、使命を果たすだけの龍討師にんぎょうではない。自ら考え、行動し、判断する力がある。その力を彼らにもらった。


 心をしずめて、黙考する。

 殺されかけた原因は、いったい何に起因するのか。


 高貴な龍を下民が呼び止める行為は、確かに不敬だ。罪に問われることは理解できる。だがあの反応は、それ以外にも何かがあったように思えてならない。黎珠が何か、決定的な過失があったのではなかろうか。


 あのとき自分は、何をした。


 北嶽を呼び止めたことを除外すると、あのわずかな問答の中、該当しそうな言動ことは絞られてくる。

 あのとき黎珠が繰り返したことと言えば、


「夏楠の、名を呼んだ……?」


 ウンショウとのやり取りでも、黎珠は夏楠のことばかり口にしていた。そのたびに彼は憤慨し、最後は見切りをつけられたのだ。


(夏楠の名を口にすることが、この上ない無礼にあたる?)


 だが、釈然としない。黎珠が連呼したのは夏楠の名であって、ウンショウや北嶽は関係ないはずだ──とまで考え、黎珠ははっとした。


 何故、根拠もなく無関係などと言い切れる?

 あれほど似た容姿だ。関係など、あってしかるべきではないか。

 李は、夏楠の死後二十年ほどと言っていた。仮にここが二十年後の層雲宮なら、北嶽は夏楠の血縁である可能性が高い。双子か、兄弟か、あるいは──。


(あるいは、親子……)


 北嶽は龍だ。外見と実齢が一致しない。

 ゆえに、彼が夏楠より年長である可能性もあるが、あの龍脈の強さは老いてはいまい。黎珠の印象としても、北嶽の振る舞いは非常に若く見えた。それこそ、黎珠とさして変わらぬほどに。


 仮に彼が夏楠の実子だとすれば、黎珠は北嶽尊父(そんぷ)の名を呼び捨てたことになる。それも避諱ひき呼びせずに、いみな丸出し、敬称なしでだ。

 思考がそこに至ったとき、黎珠は弾かれたように思い出した。


〈龍にとり、名は身の証であると同時にくびきだ。ゆえに、龍は本名を『いみな』とも言う〉


 黒影は、そう言っていたではないか。

 龍にとり、名は単なる呼称ではないと。特別な意味を持つと。

 約定にいみなを添えるだけで、それは破りがたい誓約になると──聞かされていたではないか。


 それに、それにだ。

 以前、避諱ひき呼びは不要だと言った夏楠に、孝燕はなんと返した?


『構いまくりですよ。長たるあなたに私がそんな真似しちゃ、下の者に示しがつきませんでしょうが──』


 側近の孝燕ですら、かたくなにいみなを避けていた。つまり龍にとって、本名の扱いはそれほど重要なのである。間違っても、目下の者が気安く口にしていいものではなかったのだ。


 迂闊にもほどがある。動転していたとはいえ、己のあまりの阿呆さ加減に失神しそうになる。

 だがいくら後悔したところで、もうあとの祭りだ。


「おい、雌猿めすざる


 黎珠が自己嫌悪にさいなまれていると、牢の外からお呼びがかかった。この石牢へ入れられてから、大してときっていない。食事だろうか。


 不思議に思いつつ鉄格子に寄ると、先ほどとは別の龍兵が姿を現した。集団ではなく、単身だ。龍兵は鍵で格子の戸を開くと、黎珠を外へと連れ出した。

 不信感が胸に湧く。この状況で、黎珠を外に出す理由がわからない。


「あのう、どこへ行くのですか?」

うるさい。黙ってついてこい」


 取り付く島もない。

 龍兵は黎珠に繋いだ鎖を引き、どこかを目指し歩いてゆく。暴力的でないだけ先ほどの龍よりましだが、黎珠の不安は募るばかりだ。


 牢獄を出て、小さな門を三つくぐる。何故だか、洛邑らくゆうの外へ外へと連れて行かれる。しまいにはのどかな川辺にたどり着き、とうとう城外の景色が見える位置まで来た。もう少し歩けば、城邑じょうゆうの外へ出てしまう。かといって、龍兵に黎珠を見逃すそぶりはない。


 まさか城外そとで処刑か、と思い始めた矢先、川縁かわべりにたたずむ青年に黎珠は眼を奪われた。


「遅えよ、何やってた? 許してやっから言ってみろ」


 いらいらと足踏みをする、不機嫌顔の北嶽がそこにいた。

 きらめく川面かわもを背に立つ彼の横顔は、それがしかめ面であっても、やはり非の打ち所がない。


 北嶽を視界に収めるなり、黎珠を連れた龍兵はその場にひざまずいた。続いて、ひたいと両手を地べたに擦りつけるような礼を取る。


 一瞬、唖然あぜんとした。


 里長の前でも、野外でこのような礼は取ったことがない。片膝をついた礼が基本だ。室内ならまだしも、野外でひたいをつけはしない。

 だが、思い返せば──最初に北嶽と遭遇した際、人龍は地に額をつけて平伏していた。あのときは気が回らなかったが、これが高位の龍に対する本来の礼なのだろう。


 ぼうっとしていると、北嶽の咎めるような視線が向く。慌てて黎珠も龍兵にならい、地面に額を押しあてた。


「も、申し訳ございません、北嶽様。猿を引きずり出すのに、少々手こずりまして……」


 おびえた様子で龍兵は言上する。

 すると、北嶽のあざける声が頭上に降った。


「そりゃそうだ。たかが人の女相手に怖気ビビって逃げ出すんだもんなぁ、お前らは。ったく、使えねぇにもほどがある。玄州兵のいい名折れだ。この腑抜けが」

「面目ございません……」

「女は置いていけ。さっさとおれの視界から失せろ」


 命じられるなり、龍兵は逃げるように小川から去っていった。残されたのは、北嶽と黎珠のみである。

 ──これは異常だ。おかしい。

 いくら拘束中とはいえ、近衛もつけずあるじと龍討師を二人きりにするなど、あり得ない。無用心が過ぎる。


 そもそも、龍討師を捕縛したのだ。もっと騒ぎになっても良いはず。だが周囲には、兵も官吏の姿もない。少なくともおおやけには、黎珠は龍討師と知らされていないようだった。そうでもなければ、もうくびねられている。


「お前さぁ」


 不意に北嶽に話しかけられ、黎珠は思考を中断した。

 伏せていた顔を少し上げ、上目遣いで北嶽を見上げる。肩越しにこちらへ向けられた面立ちは、やはり夏楠と酷似していた。


「いっそ、ここでおれに襲いかかってくれよ。なんか殺す理由作ってくれりゃあ、おれもこんな面倒なことしねぇですむし」

「…………」


 黎珠が沈黙を守ると、北嶽は「ふん、つまんねぇ奴」と独りごちた。


「こい。こっちだ」


 北嶽は背を向け、黎珠の鎖を引いて川辺を進む。無防備に見えるが、臨戦態勢であることは一目瞭然だ。少しでも怪しい動きをすれば、途端に斬って捨てられるだろう。先ほどの言葉通りに。


 素直に北嶽に従って歩くと、やがて緩やかな丘となり、その上には小さな建物が建っていた。小ぢんまりとした休憩所だ。柱と屋根で組まれた吹きさらしだが、決して貧相ではない。川辺にひっそりとたたずむ姿は、むしろ絵になる。凝った意匠の腰かけを始めとして、随所に洒落しゃれた装飾がほどこされていた。


「やっほー。こっちこっち」


 そんな場所で二名を呼んだのは、陽気な西嶽だった。円卓に茶器を広げ、屋根の下で優雅に茶を啜っている。そしてやはり、彼にも御付きの者はいない。北嶽も西嶽も、かなり位の高い龍と思われるのに、妙である。

 西嶽は膝の上に頬杖をつくと、不機嫌な北嶽に怖じることなく口を開いた。


「北嶽ー。僕、『誰にも話聞かれたくないからそれ用のへやよろしく』って言った気がするんだけど?」

「なんだよ、ここじゃ不満か」

「いいや、凄く良い。逆転の発想だね。丘で見晴らしが良くて、誰か来たらすぐにそれとわかる。野外で密談と思われにくいし、万一見つかっても茶会と言い訳できる。おまけに川音で会話が聞こえない。素晴らしい選択だ。ここを北嶽に進言したのは、誰かな?」

「どうせ察しはついてんだろ?」

「まあね。北嶽にこんな的確な助言をする子なんて、リィくらいだ」

(リィ……李君?)


 必死で会話を拾う黎珠の先で、西嶽は小童こどものようにぱたぱたと足を上下させた。


「あーいいなー、僕も欲しいなー。若くて頭が良くて、優秀な子がさー。うち、おっさんばっかなんだもん」

「……変態(じじい)が」

「僕にそっちの趣味はないし、まだそんなとしでもないよ。まったく、可愛くないねぇ。綺麗な容貌かんばせが台無しだ」

「まさか。眼の錯覚だろ? おれはその程度で崩れる顔なんか、持ち合わせちゃいない」

「説得力があるとこが腹立つなー。君もそう思わない? 龍討師のお嬢ちゃん」


 急に水を向けられ、黎珠は肩を跳ね上げた。

 つい、許しを得ずに西嶽を見上げてしまう。


 ──やはり知られている。龍討師だと。

 しかし、ならば何故、自分は生かされているのだろう。


 疑問に思っていると、後ろから北嶽に頭を押さえつけられた。が高い、ということだろう。


「なあ。こいつ、ほんとに龍討師なのか? こんな弱っちい刺客、初めて見たぞ。龍殺しっつうぐらいだから、もっと熊みてぇな女じゃねぇのか?」


 そうたずねる北嶽を見て、彼はまだ半信半疑であることを知る。口調から察するに、西嶽に教えられたのだろう。


(ということは、西嶽公の計らいで、わたしが龍討師であることを伏せている?)


 何故だろう。龍討師は龍にとって、これ以上ない脅威だ。仮に黎珠が西嶽の立場なら、その事実を周知させ、速やかに排除する。隠しなどしたら、逆に手間がかかってしょうがないだろう。


 そんな黎珠の心中を知ってか知らずか、西嶽は声を低めて北嶽に念を押した。


「人を見かけで判断しちゃ駄目だよ、北嶽。あと、さっきも言ったけど、この娘が龍討師だってことは黙っておけよ? 露見バレたらさすがに庇いきれないし、まわりも黙っちゃいない。一応、大立ち回りのときに居合わせた兵はウンショウ以外、僕の方で差し替えておいたから。箝口令かんこうれいもきっちり敷いたし、詳しく調べられん限りは大丈夫だと思うけど」

「へいへい。玄州こっちは、ぼんくらしかいねぇから露見バレねぇよ」

「……あのねぇ、北嶽」


 気のない返事をする北嶽に対し、西嶽は不満げに言い募る。


「そもそも、ここにいるのが僕らだけなのだって大問題なんだぞ? まあ、北嶽は単独ひとりでも強いし? 常に放置、もとい自由を謳歌してるから、わからんかもしれんけどさぁ。僕みたいな超絶名君が、近衛と臣下を言いくるめて単身ここへくるのが、どれだけ大変だったことか……」

「あんたの苦労はわかったよ。聞くこと聞くまでは黙ってる。でも、龍討師こいつはウンショウ倒した技だけ警戒してりゃ問題ねぇよ。逃げるばっかで度胸もねぇし」

「だってさ? 見くびられたもんだねぇ、天下の龍討師が」


 話しかけられ顔を上げると、西嶽は眼鏡越しに黎珠を見て笑いかけた。

 その油断ならない瞳に確信する。やはり彼は、若くはない。かなり年嵩の龍だ。


「さて、そろそろ本題に入ろう。あまり長く不在にすると、臣が気づく。お前には聞きたいことがわんさとあるんだ。速やかに僕らの質問に答えたまえ。ああ、最初に忠告しておこう」


 そう言うと、西嶽は袖から小ぶりの鏡を取り出した。


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