01.消えてしまいたい
いたい。
肋骨が折れているのだろうか、呼吸のたびに痛みが襲ってくる。電気を流されたような鋭い痛みに思わず声が漏れそうになるが、無理やり押し込め足を進める。
くるしい。
痛みを抑えようと呼吸が浅くなる。早く、早くと足を動かすが、理想通りには進まない。とにかく少しでも離れたい。酸素が不足しているのか、視界が白く、霞んでいくような気がする。
いたい。
口の中で血をかみしめる。幸いなことに歯は折れていないようだが、口内をスッパリ切ったようだった。ぐっと唇を引き結ぶと、奥歯が傷口にあたり、ビリっとした痛みが頬の内側に広がった。
くるしい。
口を大きく開けたいがこのままだと口の周りが血だらけになってしまう。行儀が悪いと少々躊躇したものの、心の中で「ごめんなさい」と、誰に向けてでもない謝罪をつぶやき、口内に溜まった血をその辺に吐き出した。
いたい。
そういえば、靴を履いていない。裸足なのだ。今更になって気付くなんて。少しは冷静になってきたのだろうか。靴を取りに戻ろうか、いや、そんなことはできない。まだ混乱している。
くるしい。
胸が痛い。やはり肋骨が折れているのか。
いや違う。
胸が、胸の中心、奥底が、握りつぶされているかのように痛いのだ。
そう気づいた途端、涙が溢れてくる。
なぜ泣いているのか、それは苦しいからだ。
なぜ苦しいのか、それは体のあちこちが痛むからだ。
なぜ痛いのか、それは──
足が止まった。
さりとて上がった息はすぐには収まらず、少しでもこの鋭痛を和らげようと呼吸を小さく細くすることでしか現状対処が思いつかない。口内にまた血がたまっている。
頬の内側はきっと傷口が塞がりにくいだろうから、しばらくは痛みが続くだろうし、血が止まらければこの不快感は収まらない。
足の裏もきっと傷だらけだろう。左右どちらの足も全体にズキズキとした痛みがあり、土の感触を全然感じない。
歩けなくなると困るから、細かい傷だけだといいな。
違う。そんなことが原因じゃない。
胸が痛いのだ。胸が苦しいのだ。
心を傷つけられて、だから、泣いているのだ。
理解した途端、全身から力が抜けた。
膝から崩れ落ち、嗚咽が漏れる。
「うっ……ああぁぁぁ……」
いつの間にか幸福な時間よりも、苦しい時間のほうが多くなっていた。3年と半年、短いようで最後の1年半は地獄のように長く感じた。男女とはこんなにも自分を抑え込まないと関係を続けられないものなのか、と悩み試行錯誤した時間は結局全て無駄に終わった。
いくら言葉で傷つけられても、自分が悪いのだと反省した。不快な思いをさせてしまった自分にも原因があるのだと、次からは気を付けよう、と。
今日初めて手を上げられた。
平手で頬を打たれたのだ。
寝不足で踏ん張りが利かなかったのか、はたまた頭に血が上った彼が力の加減を誤ったのか、気づいた時には私の体は1メートルも離れていたはずの階段を転がり落ちていた。
彼も予想外だったのだろう。私は何が起きたかわからずに、階下であおむけに転がったまま打たれた左頬を抑え、先ほどまで私が立っていた場所を見上げると、口をポカンと開いたままの彼が両手を中途半端に上げたまま固まっていた。もしかして落ちそうになった私をつかもうとしてくれたのかな、とずれた考えが頭をよぎり、彼に何か声をかけようと体を起こそうとした時、一拍遅れて襲ったわき腹の痛みに、鈍い声が口から漏れた。
瞬間──
『めんどくせぇな。ちょっと叩いたくらいで。今わざと落ちただろ。お前マジでウザすぎ。明日、家事も仕事もサボんなよ。』
頬を打たれるよりも、階段から落ちるよりも、何よりも強い衝撃を頭に受けたような気がした。
もう耐えられなかった。逃げ出したのだ。
もういい。なにもいらない。
仕事も、家族も、彼も、ぜんぶ、ぜんぶいらない。
裸足のまま、家を飛び出した。日が沈んでしばらくたっていたため、薄ぼんやりとした街灯に照らされた暗闇の中を走った。少し行ったところで車道沿いの歩道を走った。後方から車のエンジン音が聞こえてきて、歩道沿いの森のなかに逃げ込んだ。きっと追いかけては来ない。そんな面倒なこと、今の彼はしない。わかっていてもただただ彼から逃げたい一心でここまで走ってきたのだ。
真っ暗な中走って、痛みを感じて、立ち止まって、泣いて、気付いた。
「どこに行けばいいんだろ」
行くところなんてない。身体が痛い。心が痛い。どうしていいか、どうしたいのか、わからない。
暗い森のなかで座り込んで、どれくらいの時間が経ったかわからない。
「優菜!!!」
突然耳元で名前を呼ばれ、腕を掴まれた。
「お前!!何やってんだ!!こんな森ん中入って、何するつもりだったんだ!!」
激怒して顔を真っ赤にした彼が怒鳴っていた。
しまった……
さっき、おっきな声で泣いたから聞こえちゃったんだ。
あの車、きっと雅弘の車だったんだ。
追いかけてくるなんて、思ってなかった……
いやだ。やだやだやだやだやだやだ────
全身を使って、彼の腕を振り払った。
また走る。全力で。今度こそ追いつかれないように。
後々思い出してみれば、混乱と興奮のせいか、身体の痛みなど感じていなかった。
やだやだやだやだやだやだ…
声も聞きたくない。顔も見たくない。もう彼のことを考えるのも嫌だ。ぜんぶ。いやだ。いたい。くるしい。つらい。
消えたい。
一瞬のうちに、魔法みたいに、はじめから、何もなかったみたいに。
そう思った瞬間、足元が光った。
昼間よりも明るい圧倒的な光に目も開けられず、咄嗟に両腕で顔を覆い、それでも足は止めなかった。まるで超新星爆発のような未知の光への恐怖よりも、彼への拒絶が強かった。
ふと、なにかが香ってくる。優しい香り。花の香りだろうか。少し甘くて、でも重くない。どこかで嗅いだような、不思議と心が安らぐような……地面を蹴っていたはずの裸足の足は、空を切るように足裏の感覚がなくなっていた。全身が心地の良い浮遊感に包まれる。
なんとなく、覚えているのはそこまでで。
あとは眠ってしまったのか、意識が飛んだのか────
自分でも何が起こったのかはわからない。




