第42話 乾いた土
歩き始めてから一時間ほどで、アスファルトの舗装が完全に途切れた。
路面は粗い砂利道になり、その砂利もやがて失われて、踏み固められただけの赤土の山道になった。
道の両脇から、夏草が膝の高さまで覆いかぶさるように生い茂っていた。
その真ん中だけ、草が平らに踏み倒されている。
倒れている草の幅は、ちょうど大人ひとりが通れる広さだった。
この未接続地帯(白地)の山道を往来する人間の少なさが、その細い幅にそのまま刻まれていた。
明石さんが立ち止まり、胸ポケットから一枚の紙を取り出して広げた。
方眼紙だった。青い升目の上に、定規を使わずに黒い鉛筆でフリーハンドで引かれた線。
一本の道。二本の谷筋。そして、三つの小さな丸。
駅名も、集落の名も、山の名前すらも、文字はひとつも書き込まれていなかった。
「……地名が、ひとつも書かれていないんですね」
「文字を書けば、この紙を拾った奴に集落の場所が知れるからな」
明石さんは一番奥にある丸印を、親指の爪の先でグッと押さえた。
「帳場の関口さんの手書きだ。あの人の描く丸は、必ず右上からペン先を入れて、左下で閉じる癖がある」
明石さんは紙を小さく折り畳み、胸ポケットの奥へと仕舞い込んだ。
「ここから真っ直ぐ西へ進む。急な尾根をひとつ越えれば、目指す集落があるはずだ」
「あと、どのくらいかかりますか」
「足が持てば、二時間だな」
私たちは再び歩き出した。
山あいの急斜面に入ると広葉樹の木々が増え、足元の山道に木漏れ日の斑模様の影が落ちた。
道の片隅の土の中に、白く丸い磁器の碍子が転がっていた。
かつて電柱の頭に電線を固定していた碍子だ。木製の電柱のほうはすでに腐り果て、根元だけが土の中から杭のように突き出ていた。
割れた古い舗装コンクリートの断面から、細い鉄筋が三本、外へ向けて不格好に曲がっていた。
赤錆びて、先端が丸く削れている。
政変の混乱期に、誰かが持ち去って金に換えるには、あまりにも細く価値のないゴミだったのだろう。
私は鞄から、駅で買った干し芋の袋を開け、半分に千切って明石さんに手渡した。
奥歯でグッと噛み締めると、芋の硬い繊維が歯の裏側に生々しく残った。
甘い。
だが、都市の合成甘味料の人工的な甘さではない、太陽と土の素朴な甘みだった。
港の帳場で毎日食べていた合成ゼリーやパンには、この噛み切れない植物の繊維の手ざわりが一切存在しなかったのだ。
舌の先で歯の裏の繊維を擦りながら、私たちは無言で山を登った。
私の身体の奥底が、驚くほど静まり返っていた。
街から遠く離れるにつれて、頭部の共鳴が薄れていくことは列車の中で十分に分かっていた。
だがいま、その感覚はほぼ完全なゼロに近かった。
路面の給電網が死滅していても、大気中の微小なスマートダストだけは、風に乗って山あいにまで流れてくる。
極めて薄く、途切れ途切れに。それでも、完全なゼロではない。
蜘蛛の糸よりも細い微弱な律動が、風の匂いとともにやって来ては、プツプツと切れた。
生まれてから二十四年間、頭蓋骨の奥で一度たりとも鳴り止まなかったあの不可視の微振動が、その糸一本の細さにまで痩せ細っていた。
「……少しは、身体が楽になったか」
明石さんは前を歩いたまま、振り返らずに尋ねてきた。
「ええ……信じられないくらい、静かです」
「大気中に、国家の砂粒がないからだ」
明石さんは言った。
「都市にいるあいだ、君の耳はずっと、あの膨大な知能の網と摩擦を起こし続けていたんだ。……自覚がなかったとしても、あれは君の肉体にとって凄まじい負荷だったはずだ」
「……あれが、負荷だったんですか」
「人間という生き物はな、生まれた瞬間から背負わされているものの重さだけは、自分自身では絶対に分からんものなんだよ」
明石さんは右肩に重い革鞄を提げ、左の脇の下にあの平たい金属缶を抱え込んで歩いていた。
どれほど坂道が急になり、息が上がって肩が上下しても、その金属缶だけは絶対に持ち替えようとはしなかった。
政変の前と後に書かれた膨大な記録から、この男が自らの手で書き写した、魂のノートがその中に入っているからだ。
身体にかかっていた電磁の重圧が消えると、全身は確かに羽のように軽くなった。
だがその軽さと引き換えに、自分の足元が大地を踏みしめている感覚が、定まらなくなっていった。
都市の中にいた頃、私はあの不可視の電磁の律動によって世界を先読みして生きてきた。
自動配送車の微小な加減速で曲がり角の向こうの危険を察知し、改札の手前の電磁波の乱れで人混みの流れを読み、ミリ秒の計算の反射で都市を歩いてきた。
だが、この白地においては、その便利な生体感覚は一切使えない。
私は二十四年ぶりに、生身の人間の目と耳だけを頼りにする、原始の世界へと戻っていたのだ。
◆◆◆
突然——左の頬の皮膚が、カッと熱くなった。
直射日光の熱ではない。私たちは深い木陰の中にいた。
熱は、左の頬骨のすぐ上に、ピンポイントで照射された。
一秒にも満たない刹那のあいだに、肌の表面温度が、激しい痛みの直前まで跳ね上がった。
頬の毛穴が、内側から高圧で押し開かれるようにゾワリと総毛立った。
口の中の唾液が、一瞬にして干からびて乾いた。
震える指の腹で左頬を押さえると、まるで熱した鉄板に触れたかのような、他人の顔の皮膚を押さえているような異様な手ざわりがした。
「伏せろッ!」
明石さんが私の肩を力任せに掴み、山道の脇の深い草むらの中へと引き倒した。
地面に倒れ込みながら、私は自分がさっきまで立っていた場所の赤土を凝視した。
——白い。
幅三十センチほどの、細長い帯状の跡。
円形ではなく、レーザーの直線を引いたかのような白い帯。
土の中に含まれていた水分が、一瞬にして爆発的に蒸発したのだ。
湿っていた黒い山土が、一瞬で粉末状の白い灰へと変貌していた。
音は、何ひとつしなかった。
銃火器の発射音も、空を切り裂く飛翔音も、土に着弾した衝撃音も。
ただ、土の水分だけが、完全に消し飛んでいた。
私の手の甲の皮膚は、不気味なほど静まり返っていた。
街の中で自動配送車が突っ込んできたときには、激しい痺れの感覚が事前に警告を発してくれた。
だが、この場所では、何も来ない。
私の耳は、迫り来る死の予兆を、何ひとつ知らせてこなかった。
危険を私に知らせるための電磁のネットワークが、この未接続地帯には最初から引かれていないからだ。
足元に、干し芋の袋が落ちていた。
あの白い灰の帯の、すぐ真横に。
袋の口からこぼれ出た干し芋の切れ端が、白い帯の上にほんの少しだけ載っていた。
帯に触れていた側の端が、フライパンで焼かれたように黒く反り返っていた。
「……ADS-Mだ」
明石さんが土に顔を押しつけたまま、低く呻いた。
「軍用の指向性マイクロ波兵器だ。人間の皮膚の水分を一瞬で沸騰させる。直撃を受ければ、肉が内側から破裂するぞ」
明石さんが言い終わる前に、第二射が飛来した。
頭上だった。
私たちの頭のすぐ上の、草の穂の先端を薙ぎ払うように通過していった。
音もなく、草の葉が熱で小さく縮れた。
鮮やかな緑色だった草の葉が、わずか一秒で赤茶色へと変色し、炭化してボロボロと私たちの腕の上に落ちてきた。
触れた腕の皮膚が、鋭く熱かった。
焦げた青草の匂いと、熱湯の湯気の匂いが、鼻腔を突いた。
「動くな、昊……絶対に頭を上げるな」
明石さんの声が、押し殺したように低い。
私は息を殺し、微動だにしなかった。
頬の下の山土は、冷たく湿っていた。
だが、わずか一メートル向こうの土は、白い粉になって完全に乾ききっている。
生と死の境界線が、わずか腕一本ぶんの距離しか離れていなかった。
耳を湿った地面に押し当てていると、ドクンドクンと激しく脈打つ自分の心臓の鼓動が、土を通して遅れて耳元へと返ってきた。
草の中で顔を土に擦りつけながら、私は全身の神経を研ぎ澄まして、撃ち手の電磁の律動を探し求めた。
風が運んでくる、糸のような微弱な律動。
その細い波形のどこを探しても、私たちを撃ち殺そうとしている兵器の振動が、何ひとつ引っかかってこない。
必死に探した。
——何もない。
この攻撃の背後には、国家の知能機械の意志など、最初から存在していなかったのだ。




