第112話 署名
〔Kの記録〕
中央裁可院の綴り。
表紙に、庁名はない。〈当院〉としか書いていない紙が、この国には一種類しかない。院を名乗れるのは、ここだけだ。
綴じは、紙縒りではない。麻の糸で、二つ穴を通してあった。
一枚目は、評定の写しだ。
機械が出したものだ。
◆◆◆
評定の文体は、役所の文体ではない。
主語がない。理由も書かない。並んでいるのは、選択肢と、その見積りだけだ。
〈件 北部方面某区域における統制の回復〉
〈甲 現状維持。回復までの見込み、算定不能。当該区域外への波及、増〉
〈乙 既存装備による区域封鎖。所要人員、大。回復までの見込み、長〉
〈丙 新型系統の全面運用。所要人員、小。回復までの見込み、短〉
〈丙を可とする〉
三つのうち、丙だけが人手を要さない。
要さないものを選ぶ、というのが、この機械の癖だ。
写しの下端に、一行ある。
〈本評定は、当該区域を対象として算定した〉
区域を対象として算定した。人の数は、この紙のどこにも出てこない。
◆◆◆
二枚目が、裁可の欄だ。
欄は七つ。縦に並び、それぞれに官職の刷り込みがある。
六つに、肉筆の署名がある。
字は、六つとも違う。
一つは小さく、角が立っていて、撥ねがない。一つは太く、撥ねが長い。一つは細く、行の間が広い。
残りの一つが、空欄だ。
空欄の脇に、付紙が貼ってあった。
厚い。
他の六人は、この綴りに一行も書いていない。署名だけだ。
書いているのは、差し戻した一人だけだ。
◆◆◆
付紙の文面は、三段ある。
〈一 評定は、当該区域を対象として算定している〉
〈二 区域を対象とする措置は、区域内に在る者を一律に扱う〉
〈三 当院は、一律に扱われる者の数を、受け取っていない〉
その下に、二行。
〈当職は、本件の可否を判ずるに足る記載を得ない〉
〈評定の差し戻しを求める〉
反対とは書いていない。
賛成とも書いていない。
書いてあるのは、判ずるための数を受け取っていない、という一点だけだ。
署名。和気清人。
この紙の中で、いちばん長い文章を書いた者が、いちばん短い結論を出している。
◆◆◆
三枚目は、再評定の写しだ。
同じ様式だ。同じ機械が、同じ件について、もう一度算定している。
〈件 北部方面某区域における統制の回復〉
〈甲 現状維持。回復までの見込み、算定不能〉
〈乙 既存装備による区域封鎖〉
〈丙 新型系統の運用〉
〈丙を可とする〉
甲乙丙は、同じだ。結論も同じだ。
違うのは、下端の一行だけだった。
〈本評定は、対象を一名として算定した〉
区域が、一名になった。
差し戻しの理由は、区域内に在る者の数が書かれていないことだった。
対象を一名にすれば、その数は要らなくなる。
数えられていない者を数えろ、という求めに対して、機械は、数えなくてよい書き方を返した。
求めは満たされている。
7つのうち6つが署名済み。差戻し1。2度目の評定で、1つの区域が1名になった。
1名と書けば、数えなくてよいのは誰か。
答えは、同じ紙の上にある。区域の欄が、二枚目までは在って、三枚目には無い。
◆◆◆
四枚目に、再評定に対する裁可の欄がある。
空欄だったところに、署名がある。
和気清人。
付紙は、貼られていない。差し戻しは、一度だけだ。
その下に、もう一つ欄がある。首席裁可者の欄だ。
再評定の場合にだけ、この欄が要る。
署名は、大きくも小さくもない。
一字ごとに、間が空いている。急いでいない字だ。
そして、一画の終わりで、必ず一度止まっている。止まったところで、インクがにじんで、丸くなっている。
高木統。
この署名は、この国のどの紙にも、活字では出てこない。
◆◆◆
綴りの背に、控えが一枚とじてある。
〈首席裁可者の署名を要した件数について(照会)〉
回答は、二行だ。
〈当院開設以来、再評定に付された件、五件〉
〈うち、首席裁可者の署名を要したもの、五件〉
十九年で、五件だ。
そして、二度目の差し戻しは、この院の記録に無い。
一度差し戻せば、機械は書き方を変えて戻ってくる。書き方が変われば、差し戻した理由のほうが消える。
理由の消えた者に、残っている欄は一つだけだ。
◆◆◆
五枚目は、決定の通知だ。
宛先が四つ。防衛省、技術廠、保安省、情報局。
本文は三行。
〈標記について、丙を可とする評定を裁可した〉
〈対象は、一名だ〉
〈所要の措置を執られたい〉
通知の余白に、鉛筆の書き込みが一行ある。
細い字だ。筆圧が軽く、紙の裏に跡がない。
〈一名の氏名は、この綴りのどこにも書かれていない〉
〔Kの記録 ここまで〕




