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勇者様は月を目指す  作者: 世葉
第2章 作戦変更
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第18話 まんぞくする

 勇者の異変に、動揺を隠しきれないトリウィアの横で、イシュチェルはノクスの手をぎゅっと握り、嬉しそうに目を輝かせた。

「行こう! 行こう! 婚前旅行!」

 ノクスは虚ろな目で、イシュチェルの要求に応える。

「ああ、イシュチェルが行きたいところに連れて行くよ。」

 彼は小さなイシュチェルを軽々と抱き上げ、指差す方へと馬車を降りて歩き出す。


「ちょっと……どういうこと? 待って!」

 トリウィアは慌てて二人を追って馬車を降りると、手を伸ばして二人の背中を引き留めようとした。

 だが、さらに彼女の背後から別の手が伸び、彼女の首筋に冷たく指を搦めた。


「──かはっ……! こふっ……!」

 背後から絡みつく腕が、蛇のように締め上げる。キュンティアの明確な殺意と、魔人としての膂力が、容赦なくトリウィアの首を圧迫していた。並の人間なら頸椎ごと粉砕されてもおかしくない力だ。

 喉を塞がれ、空気が奪われていく中、トリウィアは必死に腕に爪を立てる。しかし、その腕はびくともしない。

 手探りで懐を探り、指先で冷たい感触に触れた瞬間、迷わずナイフを引き抜き、背後の腕に突き立てた。


 刃が肉を裂き、温かい血が指先を濡らす。だがそれでも、腕にかかる力は衰えない。視界の端が暗く染まり、意識が闇に沈むその寸前まで、トリウィアは足掻く。すると、血のぬめりが首筋と腕の間を滑らせ、拘束がわずかにずれた。

 その一瞬の隙に、全身をひねり、トリウィアは相手の腕から身を引き抜いた。


「はぁー…っ、はぁー…っ、はぁー…っ……。」

 喉が焼けるように痛み、肺が空気をむさぼる。言葉よりも何よりもまず、呼吸が優先された。

 目の前に、腕から赤い血を滴らせるキュンティアの姿が映る。言いたいことは幾つもあるはずなのに、声はひとつも出なかった。


 キュンティアもまた一言も発せず、刺さったナイフを無造作に引き抜き、血の滴るまま地面に投げ捨てた。

 次の瞬間、その身を包む魔法の膜を解くと、仮初めの人間の姿は霧のように消え去る。そして露わになったのは──かつて死闘を繰り広げた、あの魔人の姿だった。

 トリウィアは、その変貌を真正面から目撃し、衝撃を受ける。

「─…どう…、し、て……。」 息も絶え絶えに、かろうじて吐き出した声は、震えていた。


 そう、キュンティアはもっと賢い手段を取ることもできた。

 人の姿を偽ったまま、隙をうかがい、急所へ致命となる一撃を以て片付ける。それが最も合理的で、理想的なやり方のはずだった。

 それをしなかったのは、どうしてか──。


 それは、決別のため。

 同じ境遇に生まれたトリウィアとキュンティアは、人間と魔族の垣根を超えた理解者(マブ)だった。

 だが、もうこれ以上は続けられない。そんなものは、仲間の命には代えられない。

 過去の自分を否定し、全てを破壊し、そして、これを最後の戦いとする決意だった。


 キュンティアは、その拳に濃密な魔力を纏わせた。

 瞬く間に形作られた籠手は、これまでよりもさらに巨大で、鋭利な爪を備えた凶器へと変貌する。

 ──勇者たちがこちらに気づく前に、必ず仕留める。

 その揺るぎない決意が、魔力の爪に宿っていた。


 この戦いは、誰にも決して邪魔をさせない。


 その眼光と気迫だけで、トリウィアはすべてを悟る。

 これまでの言葉も行動も、すべては偽り。敵は、自分たちのすぐ隣で、最初からイシュチェルを狙っていたのだ。ノクスがおかしくなったのも、全てはこの女の仕業。

 その為にどれほど心を痛めたか──。怒りが、胸の奥で烈火のように燃え上がる。

 だが、その炎を表に出すことはしない。トリウィアは静かに弓を構え、呼吸を整える。

 敵の姿勢、間合い、動き──すべてを冷静に分析し、迎え撃つための最善の一手を探る。

 その姿は、闇に潜み標的を狙う暗殺者そのものだった。


 そして、彼女の中にも同じ思いが芽生える。──この戦いは、誰にも決して邪魔をさせない。


 キュンティアは、一息で間合いを潰す。

 だが、その動きに即座に反応し、トリウィアも声を張り上げ呪文を唱える。

"Uruz Eiwaz Tiwaz Sowilo!"(古の竜爪よ、雷鳴を宿し敵を裂け!)

 弓弦が鳴った瞬間、三本の竜の矢が稲光のように走る。それぞれが別々の弾道を描き、空気を裂きながら正確にキュンティアを狙った。


 進路を遮られたキュンティアは、進むか、退くかの二択を迫られる。

 だが、一瞬も迷いはしなかった。より速くこの爪を敵に突き立てるため、三本のうち一つの矢の軌道に、あえて正面から切り込んだ。防御も回避もせず、稲妻の矢をその胸で受け止め、前進した。


 そして、その代償と引き換えに、鋭く伸びた右爪がトリウィアの目前へ迫る。


 トリウィアは咄嗟に、弓を立てて防ぐしかなかった。

 しかし、ぶつかり合った瞬間に分かるほど、膂力の差は歴然だった。軋む音と共に、爪の切っ先がじわりじわりと首元へと近づいてくる。


 じわじわと互いの腕と武器が押し合う、純粋な力のせめぎ合い。その中で、キュンティアはわずかに口角を上げ、低く囁いた。


『─…何て、言えばいいのかしら…。』

 それは、聞こえるかどうかわからないほどの小さな声だった。


『この出会いは、運命…。だとしたら、とても皮肉な運命よね…。

出会ってはいけない時に、巡り合ってしまったのだもの……。』


 トリウィアは、長い耳を垂らし、とても悲し気な顔を浮かべる。それはキュンティアに、いや、自分自身に対する哀れみだった。


「─…私も、出会いたくなど無かったわ…。まだ、やることが残っているもの……。

だから、絶対に、こんなところで終わるわけにはいかない。」


 出会いの時を、まるで巻き戻すように鮮明に思い返す。本当に時を戻れればどれほどいいか。二人の想いは、それはそのまま、別れの挨拶となった……。

 その瞬間を告げるキュンティアの爪が、トリウィアの首元のすぐそばまで迫っていた。


"──Ansuz Raidho Eiwaz Uruz"(翔ける風よ、竜を呼び覚ませ)

 その寸前で、トリウィアは呪文を紡いだ。

 その声が空気を震わせた瞬間、彼女の眼差しは一転し、獲物を射抜く猛禽のように鋭く研ぎ澄まされた。


 キュンティアの胸に刺さったままの一本の矢──それには、トリウィアのすべての想いが込められていた。

 その矢は、嵐を呼び込む導となる。


 魔法によって、空気が重く張り詰め、耳の奥で低い唸りが響く。肌を刺すような電気が走り、戦場を一瞬青白く染めた。

 その瞬間、まだ宙に放たれたまま残る二本の矢が、まるで雷光に導かれるかのように軌道を変えた。その軌道は、まるで生き物のように意思を持ち、甲高い風切り音を響かせながら、鋭い閃光となって胸の矢めがけて収束していく──。


”──ガシュッ! ガシュッ!”

 キュンティアの背中に連続して突き刺さった瞬間、さらに稲妻が炸裂する。

”バヂヂィヅヅヅィッッ!!”

 轟音と共に白光が弾け、キュンティアの体の中で炸裂する。

 魔力を纏ったその雷は、肉体を灼き、神経を痺れさせ、鋭利な爪の動きを一瞬にして鈍らせた。


 押し込まれていた弓が、ぐっと持ち上がる。動きを止めた爪を振り払い、一歩踏み込み、全身の力でキュンティアを押し返した。

 次の瞬間、キュンティアは力なくその場に崩れ落ちる。心臓を直撃した雷撃は、意志とは関係なく、身体の動きを強制的に止めさせた。

 もし、最初の一矢を受けたのが胸でなければ、被害は最小に留まり、勝敗はどうなったか分からない。

 だが、それはそうあるべくして、すべては必然として帰結した──。


 体が弛緩し、地面に崩れたままのキュンティアの視界に、トリウィアの靴裏が影を落とす。

 身動きの取れない彼女の頭部に向けて、トリウィアは至近距離で弓を構え、弦を限界まで引き絞った。

 手を放すだけで、終わる。しかし──、彼女は矢を放たず、ゆっくりと力を抜く。


「……あなたに、借りを返すわ。」

 キュンティアに言いたいことをすべて飲み込んで、そう言い捨て、トリウィアは背を向けた。

「──ノクスっ! イシュチェルちゃんっ! 待って!」

 そして、そのまま行ってしまった勇者たちを追いかけて去った。

 キュンティアは、その受け入れ難い屈辱を、動けぬ体でただ噛みしめるしかなかった──。


 ─…トリウィアが追いついた時、ノクスはイシュチェルを抱き上げたまま、丘の上をゆっくりと歩いていた。陽だまりの中を散歩でもするかのように、幸せそうに笑い合う。

 だが、先ほど死線を越えたばかりのトリウィアには、その光景は毒だった。


(思いっきり殴りつけて、正気に戻してやろうかしら……。)

 いくら魅了の影響があるとはいえ、彼女にはその権利があった。だが、イシュチェルの前でそれを実行するのはさすがにためらわれる。

 それに──、今は一刻を争う。


「二人とも、旅行はまた今度にして。すぐ戻るわよ、まだロナたちが戦っているのよ。」

 トリウィアは、篭絡されているノクスではなく、イシュチェルに視線を向けて言った。

「──うんっ、わかった! 楽しかったね、婚前旅行!」

 ほんの僅かな時間でもノクスと二人きりで過ごしたことに満足したのか、イシュチェルは満面の笑みで頷いた。


 トリウィアは、イシュチェルのことを知っているようで知らない。

 その出自の謎もさることながら、子供であるにもかかわらず膨大な魔力を宿し、これまで様々なところでその力を惜しみなく発揮してきた。魔族たちが、必死に奪いに来るのも、恐らくはその力のせいなのだろう。


 ただその反面、その本質はやはり子供だ。見知らぬ景色や出来事に目を輝かせ、何にでも好奇心を向ける。無邪気に笑うその表情は、時に戦場の緊張を一瞬で溶かしてしまう。どんなに危ういことをしでかしても、あの屈託のない笑顔を向けられれば、全てを許してしまいそうになる。


 世界を滅ぼす力を秘めた、無垢な子供──イシュチェル。

 まさにそんなたとえが、しっくりと当てはまるような、そんな子だった。


 トリウィアは、聞き分けの良い子を褒めるように、そっとイシュチェルの頭を撫でた。

 イシュチェルは目を細め、猫のようにその温もりを幸せそうに味わう。だが、その手はすぐに離れてしまった。

 もう一度撫でて欲しい──そのためには、また「いい子」になればいい。そう思った瞬間、ぱっと笑顔になり、ためらいもなくノクスへの魅了を解いた。


「──あれ……? 俺は、一体……。」

 ノクスが永い眠りから覚めたように瞬きを繰り返し、状況を探ろうとする。

 だが、トリウィアは一から説明してやる時間を惜しんだ。

「さ、行くわよ──」

 その言葉を、ノクスに抱っこされたままのイシュチェルが、小さく手を上げて遮る。

「待って! 急がなきゃいけないんだよね?」

「いい方法があるよ。」 その瞳は子供らしい輝きの奥に、何か企みを秘めていた。


 そして、上げた手をそのままノクスへ向けると、祈るように目を閉じた。

”黄金の火焰よ、この身を包み、全ての闇を焼き尽くせ”

 次の瞬間、祝福の光がノクスの全身を黄金に包み込み、爆発するように力が溢れ出す。


 それはまさしく、あのセレーネの黄金の祝福。絶大な一瞬の力と引き換えに、命を削る禁呪だった。

 ノクスは息を呑む。この力を発動してしまったことに。そして、それを行ったのがイシュチェルだという事実に。

 この力は、一時的に彼の能力を跳ね上げるが、その代償は急激かつ容赦ない魔力の消耗だった。

 まるで命の炎を掴み取り、力へと無理やり変換するかのように、一瞬の輝きのために全てを燃やし尽くす――そんな、あまりにも残酷な術だった。


 ノクスは戸惑った。しかし、考えている時間など無かった。

 何が起きたかを、そのすぐそばで見ていたトリウィアも十分に理解していた。

「──行って!」 長い言葉すら惜しむように、彼女は勇者の背中を押す。


 迷ってなどいられない。ノクスは決断し、抱えたイシュチェルを降ろそうと身をかがめた。

 だが、彼女は首を振り、その腕にしがみついたまま顔を寄せ囁いた。


──大丈夫だよ。──


 そのたった一言は、ノクスの迷いを消し去った。揺るぎない信頼と覚悟が代わりに満ちていく。

 ノクスはゆっくりと瞬きをして、イシュチェルを抱えたまま立ち上がる。


”──天鳥(あとり)

 次の瞬間、黄金の鳥が空を駆け、仲間のもとへと飛び立った。

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