第19話 ほめる
黄金の祝福を受け、金色の鳥と化したノクスは、閃光のように空を駆けた。
稲妻のように速く、しかし鳥の羽ばたきほどの静かさで、金色の尾を引いて大空を渡っていく。
”──おかしい……、こんなに長くこの力を維持できるなんて……。
もうとっくに限界を超えているはず……。”
ノクスは空を滑空する中で、違和感に気づく。
この絶大な力が発揮できる時間は、驚くほど短い。その限界を越えようとするなら、生命力と引き換えにしなければならない。
しかし今、それをせずに、限界の壁を超えている。
自分が強くなったわけでも、この力の制御ができるようになったわけでもない。この力は、そんな生易しいものではない。だからこそ、禁呪として封印したのだ。
本来、セレーネ以外には扱えないはずの黄金の祝福。それを、イシュチェルは簡単に行ってみせた。おそらく、前回の戦いのときに見て、そして覚えたのだろう。にわかには信じられないことだが、これまでのイシュチェルを見れば納得もできる。
ノクスは腕の中の、途方もない才能と、底知れぬ力を併せ持つ少女に視線を落とす。
”──そうか……これは、イシュチェルの力……。”
イシュチェルはノクスの腕にしっかりとしがみつきながら、空から見える光景に、無邪気な瞳を輝かせていた。
●○●○●
一方その頃、路地裏の戦いは終わりを迎えつつあった。
『大丈夫か?』 アタエギナが、ロナの魔法を受けたイラルギに声をかける。
『大丈夫ニャ。少し火傷しただけニャ。』
身を守ってはいたものの、炎刃の魔法に焼かれた体はいくつもの裂傷を受けていた。それでも、血を滴らせながらイラルギは気丈に笑ってみせた。
対して、ロナは同じ言葉をセレーネには掛けられなかった。
地面に倒れ、かすかに呼吸をしているだけの彼女は、このまま放っておけば死んでしまうほどの重傷だった。
大丈夫な状態でない人に、その言葉を掛けるのはあまりに残酷過ぎた。
すぐにでも駆け寄って助けたかったが、敵を目の前にしてそれは叶わない。
もはや魔法を使うこともままならない今の自分では、彼女を抱えて逃げることも不可能だった。
選択肢はあった。だが、どれを選んでも活路は見いだせず、追い詰められていた。
イラルギとアタエギナは、残った獲物に狙いを定める。二人から放たれる殺気を肌で感じ、ロナは覚悟する。
もう二人を相手して、勝つことなどできないだろう。だが、それでも杖を握る手は緩めず、最後まで立ち向かうため身構えた。
攻めてきた方を必ず道連れにする──その悲壮な気迫が、勝利を確信していた二人の足をわずかに止めさせた。
イラルギとロナの視線が鋭く交わる。
刹那、二人は互いに息を呑み、立ちはだかる相手の姿をまっすぐに見据えた。
その時、イラルギはロナの瞳の奥に敵意と、覚悟と、小さく映る自分の姿をはっきりと捉えた。それ以外の周囲の音も景色も、意識から消えていた。
『いい、試合だったニャ……。』
そのロナの姿に、イラルギは自然と言葉を漏らした。
絶望的な劣勢でも諦めないその姿に胸を打たれたわけではない。ただ、命を懸けて立ち続けるその姿勢を、戦士として無視できなかったのだ。
「……また、やりましょう。」
ロナは敵の視線の意味を悟り、短く息を吐くと、礼を返した。
また、があるとは到底思えないとしても……。
イラルギとアタエギナは、同時に前へ踏み出した。
作戦があったわけでも、合図を送り合ったわけでもない。ただ、ロナの気迫の前に、最善と思われる行動を選んだだけだった。
ロナからどんな攻撃を仕掛けられても、互いを庇いつつ、そしてどちらからでも仕留められるように、慎重に間合いを縮めた。二人が一歩前に進むたび、ロナの限られた選択肢は潰される。そして、それだけ死が迫る。
──だが、次の一歩でその歩調が乱れた。アタエギナが突然立ち止まったのだ。
その変化に気づいたイラルギが見た彼女の顔は、凍り付いたように固まっていた。背筋には一筋の冷や汗が伝い、指先までわずかに震えている。
彼女は怯えていた。しかし、それはロナへの恐怖ではない。見えない何かが、首筋に氷の刃を当てているかのような、本能をかき乱す恐怖だった。
嗅覚や聴覚に優れるイラルギよりも敏感に、彼女はまだ姿を見せぬ何かを察知していた。
ロナを正面に見据えたまま、アタエギナは視線を外しふいに空を見上げる。
その遥か彼方──大空の一点に、かすかな金色の閃光が揺らめいていた。
『──っ! ひ……』 それを視界に捉えた瞬間、アタエギナの体が小刻みに震え出した。
その異様な反応に、イラルギの耳が跳ねる。
次いで、視線の先に淡く揺らめく金色の光を見た瞬間、その正体を悟る。──あれは、一瞬にしてアタエギナの体を割った、勇者の力。
今はまだ遥か遠方で輝く光の点にすぎない。だが、あの光は瞬く間にこちらに迫ってくるだろう。
彼女たちにとってそれは、対峙してからでは遅い、避けようのない死そのものが形をもった存在だった──。
イラルギの胸には、震えるアタエギナの身と、キュンティアの安否の両方が引っ掛かる。だが、その両方を気にかける時間はもう残されていない。
『アタエギナ! お前はキュンティアのところへ行くニャ!』
イラルギは鋭く指示を飛ばす。今の彼女ではまともに戦えず、足手まといにしかならない。それなら、キュンティアの元へ走らせ、無事を確かめさせる方がはるかに役に立つ。
それに──たとえ二人で勇者の前に立ったとしても、全く意味など無いだろうから……。
身がすくみ、一歩も動けないアタエギナに、イラルギは再び声を上げる。
『早く行くニャっ! キュンティアを見つけたら、あの場所で落ち合うニャ!』
その言葉に、ようやくアタエギナの足が動き出した。
彼女は、仲間を見捨てて逃げるつもりなど毛頭ない。ただ、全身を締め付ける恐怖に思考が麻痺し、自分の行動の意味を考える余裕すらなかったのだ。
ただ本能に従い、勇者の気配を避けるように路地を抜け、彼女はひたすらにキュンティアが向かった方角へと駆けていった。
ロナは、その一部始終を何もせずに見送っていた。
逃れられない死を届けに来たはずの死神が、眼前で背を向けて走り去っていく──その光景は奇跡のように思えたが、まだ気を緩めるわけにはいかなかった。
胸の奥に生まれた小さな安堵を押し殺し、ロナはなおも杖を握り締め、残るイラルギに備えていた。
イラルギは一瞬、勇者が到着する前にロナを仕留めるべきかと考えた。
しかし、傷を負った自分一人で、限られた時間の中、彼女を仕留めるには、相当の危険を背負わなければならない。相打ちになってしまうことも十分考えられた。
それならば──無駄と分かっていても、迫る勇者の前に盾となり、仲間のために少しでも時間を稼ぐ。そのために命を使う方が、まだ意味がある。
奇しくも、二人の利害は一致して、戦場にしばらくの静寂が訪れた。
──しかし、それはそう長くは続かなかった。
その姿が視界に現れるよりも早く、まず大気が低く唸り戦場の空気を震わせ、到来を知らせた。それは、味方には歓喜を、敵には絶望をもたらす戦場の角笛だった。
次の瞬間、天鳥と化したノクスが、羽音ひとつなくゆるやかに舞い降りた。金色の光が周囲を包み、地に落ちた影を濃く揺らす。その輝きの中、ノクスは二人の間へと歩を進める。そして、どちらにも等しく視線を送った。
ロナはその姿を目にし、胸の奥が熱くなるほど歓喜した。だが同時に、彼がこの力を行使しているその代償を思い、心がざわめく。
「ノクス……。」 何と言ったらいいか分からず、ただ、名を呼ぶことしかできなかった。
一方、イラルギは身を震わせていた。
肌を刺すような膨大な力の波動は、まるで魔王の眼前に立たされたかのような圧迫感を放つ。息をするだけで喉が締まり、背筋が凍りつく。
圧倒的な力の前では、策も罠も意味をなさない。何一つ通用せず、ただ捻り潰されるだけだろう。
アタエギナが、普段からは想像もできないほど怯えていたその理由を、今、骨の髄まで理解していた。彼女はこの力をその身に受けて、何よりも本能が死を悟ったのだろう。
もはや策など無かった。ただ、勇者を少しでもここに縛り付ける。
ただ、それだけを考えてイラルギは、本能に逆らい勇者に対峙した。
勇者はそっと身をかがめ、イシュチェルを地面へ降ろした。それと同時に、金色の光はふっと掻き消えた。
これほど長くこの力を使い続けたのは、初めてだった。それでも、ノクスにも、イシュチェルにさえ、目に見える異常はなかった。
膨大な魔力の代償を、二人で分け合った──それ以外、考えられなかった。
これまでの経緯から、イシュチェルが並外れた魔力を秘めていることは理解していた。だが、まさかこれほどとは思わなかった。こんな小さな体に秘められたその力は、ノクスをもはるかに凌ぎ、底の見えない深淵のようにさえ感じられた。 その深淵を垣間見た瞬間、ノクスの胸の奥はほんの僅かに震えた。それが何なのか、彼自身もまだ分からなかった。
「ロナ〜〜!」
地面に降り立ったイシュチェルは、別れてからまだ数刻しか経っていないロナの胸に勢いよく飛び込んだ。
「助けに来たよ。」
そして、この緊迫した戦場の只中だというのに、屈託のない笑顔を花のように咲かせた。
「……ありがとう。でも……、私より、セレーネを助けなきゃ。」
ロナはその笑顔に応えると、すぐにセレーネのもとへ駆け寄った。荒い呼吸を繰り返す彼女にそっと手を伸ばし、残ったわずかな魔力で、不慣れな治癒魔法の詠唱を始める。
「セレーネ、かわいそう……。」
ロナに合わせるように、イシュチェルも隣に膝をつき、小さな手をそっと添えた。
「いたいの、いたいの、とんでけぇー。」
そんなまじないのような言葉とともに、イシュチェルの小さな手から温かな光が生まれる。それは柔らかくセレーネを包み、やがて溶けるように彼女の体へと染み込んでいく。その光が消えていくにつれ、彼女の呼吸は穏やかに落ち着いていった。
一方、ノクスは敵と対峙していた。
ロナたちに一切の邪魔が入らぬよう、睨みを利かせイラルギを牽制しつつ、手にした剣を静かに構える。剣先から放たれる気迫は、勇者であることを証明するように輝きを放っていた。
その切っ先を真正面から受けるイラルギは、先ほどまでの勇者に感じた恐怖が薄らいでいるのを自覚していた。金色の光が消えた今、勇者の圧倒的な威圧感は薄らいでいた。
それでも油断はしていなかった。あの力で戦わないのはなぜか、と冷静に分析していた。
手負いの自分には、その価値もないと思われている、そう考える事もできた。だが、今の状況で、あれほどの力を態々発動しながら、すぐに解く理由としては納得できなかった。
おそらく力に見合うだけの代償や制限が存在するのだろう、それは容易に想像できた。そしてさらに、一歩考える。あの金色の光が消えたのは、イシュチェル様を抱き下ろしたのと同時だった。
──ひょっとしたら、その代償をイシュチェル様に肩代わりさせていた。
しかし、彼女を抱えたまま戦うわけにはいかない。だから、勇者は力を解くしかなかった──
魔王を滅ぼしうる金色の光の正体に、イラルギは朧気ながら辿り着いた。同時に、この力を封じる方策を考え付く。
だが、それを誰かに託すことはできないだろう──とも予感した。
”──闢”
イラルギの機先を制し、空気が裂ける音とともに、勇者の最速の一閃が走った。放たれたその斬撃は、彼女を切り裂いた。
鋭い痛みが脳に届いたのは、何が起こったのか理解してからのことだった。だが、その遅れて押し寄せた激痛は、生きている証でもあった。
黄金の光を纏っていなくとも、この男の力は十分すぎるほど脅威だった。
倒すことは叶わなくとも、足止めさえできればいい──その考えは、たった一太刀で打ち砕かれる。目の前の勇者の攻撃に、どう対処したらいいか分からない。
悩む間もなく、次の瞬間には命を奪い取られていても、何の不思議もなかった。
そのイラルギの予感に応えるように、ノクスは容赦なく、全力で剣を振り下ろした。
最上段に構えた刃に全力を込め、稲妻のごとき速度で振り下ろす。
”──天一閃”
この世の理を分かつ、閃光のような斬撃が、空と地と敵を裂いた──……はずだった。
しかし、放たれたはずの勇者最大の一撃は、まるで魂が抜けたように輝きを失って、ただ虚空を切り裂いた──。
天鳥となってここに舞い降りた時点で、ノクスの魔力はすでに尽きかけていた。斬撃を加速させる”闢”ならまだしも、最大の力を放出する”天一閃”を放つ余裕などなかったのだ。
イシュチェルが金色の祝福で補っていたのは、ノクスの不足分の魔力に過ぎなかった。
死を覚悟していたイラルギに、その瞬間は奇跡のように訪れた。
落とすはずだった命が、何事もなく、確かにこの胸に残っている。心臓の奥で跳ねる鼓動に、彼女は思わず息を呑む。
そして、安堵する間も惜しみ、瞬時に状況を見渡し、考えを巡らせた。
勇者は、魔力切れを起こしている。やはりあの金色の光は、一時的な力と引き換えに、代償を支払わせるのだ。それは、自分の考えを裏付ける結果でもあった。
そして、この戦場に残る敵たちにも、ほとんど力は残されていない。もうあの力を使うことは出来ないだろう。
それが分かってしまえば、ここで戦う理由は、もはやイラルギにはなかった。優先するべきは、生きて帰ることだった。
次の瞬間には、この戦場からイラルギは、迷いなく逃げ出した。その背には、恐怖も安堵もなく、ただ生への本能が渦巻いていた。
一切振り返ることなく、逃げ去っていくイラルギを、ノクスはただ見送るしかなかった。枯渇した魔力では追撃もままならず、追うにしても敵の方が遥かに足が速かった。
ノクスは肩の力を抜き、仲間たちの様子に目を向ける。
セレーネの傷は、イシュチェルの魔法によって完全に癒えていた。ロナも激しく消耗していたが、それより敵が去った安堵の方が勝っているようだった。
そんな二人の間で、イシュチェルは笑顔を浮かべ、戦いの緊張がすっかり解けた空気に無邪気に溶け込んでいた。
─…しばらくして、駆けつけたトリウィアも合流し、全員が揃ったところで宿へと戻ることにした。
戦いの後の静寂と、誰も欠けることなく乗り切った安堵の空気が、彼らの間に小さな平穏をもたらしていた。
●○●○●
「──ずびまぜんでじだ。」
戦いが終わり、宿に戻ったその日の晩、勇者はこの戦いの原因を詰められ、床の上に正座させられていた。勇者の顔面は、片方が手形に赤く腫れあがり、もう片方のまぶたは見るも無残に垂れ下がっていた。
「いいですよ、そんな…。顔を上げてください、ノクス。」
無体な扱いを受けるノクスを気遣い、ロナは優しく声を掛けた。しかし横から、トリウィアが口を挟む。
「いいのよ、ロナ。このバカはこのぐらいの扱いを受けないとわからないんだから。ねぇ、セレーネ。」
未だ怒りが収まらない様子のトリウィアは、セレーネに同意を求める。
「そうですわね、トリウィア。」
そう言いながらも、セレーネはゆっくりと勇者に近づき、その傷ついた顔に手を当てる。すると瞬く間に、ノクスの顔は元の状態に回復した。
「回復魔法は人を賢くすることはできません。一体、何度言ったら、わかるのかしら?」
そう言って笑顔で語りかけるセレーネの瞳に、ノクスは深淵を垣間見た。
「ノクスは頑張ったょ。」
深淵を覗いた恐怖に駆られ、震えながら正座しているノクスの頭を、イシュチェルが撫でる。
それは理不尽な責めを受けるノクスには、何よりの癒しとなった。
──この夜の安らぎは束の間に過ぎない。
だが、仲間たちの絆がある限り、どんな困難も乗り越えていける。笑い声と慰めの声が混ざり合う中、彼らはそれぞれの胸に覚悟を抱きつつ、次なる戦いへと歩み出していた。
●○●○●
─…人里離れた山野の、放棄されたあばら家。
イラルギはそこに身を潜めていた。かつてイシュチェルを奪った際、一時の隠れ家とした場所だった。
イラルギはそこで、仲間の帰還を待った。
状況を考えれば、キュンティアの生存は絶望的だった。もし彼女が命を落としていれば、アタエギナはどうなるだろうか……。ここには戻らず、怒りに狂い、無謀にも一人で勇者たちに挑むかもしれない。
そんな不安を抱えつつ、ただひたすらに待っていた。
たとえ、何日でも待つつもりだった。──だが、その必要はなかった。
その夜のうちに、二人は揃って姿を現したのだ。暗がりから現れる影を見た瞬間、イラルギの尻尾は歓喜に震え、待ちわびた主人を迎えるように二人に飛びついた。
『キュンティアっ! よく生きてたニャっ!』
飛びつくように駆け寄ったイラルギが、耳をピンと立て、千切れんばかりに尻尾を勢いよく振り散らかす。
『ええ……。なんとかね。でも……』
イラルギの喜びとは対照的に、キュンティアの声は弱々しく、真っすぐイラルギを見ることもできない自責に囚われていた。
『おっと、それ以上は言うなっつったろ? また次、なんとかすりゃいいんだよ。』
そんなキュンティアの肩を支えながら、アタエギナはすかさず割って入り、軽く笑ってのける。その手は乱暴そうにみえて、優しいものだった。
冷えた空気の中、何もない小さなあばら家に、再会の温もりだけが満ちていく。傷だらけで何も得ずに帰ってきた彼女たちだが、その瞳の奥に宿る炎は、何も変わることはなかった。
──こうして、互いに深く傷を負いながらも、生き延びた者たちは、それぞれの場所で束の間の安らぎを得た。
共に過ごす時間というものは、人にも魔族にも違いはないのかもしれない。
ひとつの戦いは終わった。だが、その刃が交わった瞬間に刻まれた因縁は、やがて新たな戦いを呼び寄せるだろう。
その時まで、しばしの休息を──仲間の温もりが、傷ついた心を満たすまで……。
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勇者様は月を目指す 第2章 作戦変更 完
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