4-6(痛哭)
何も見えないほど、暗い場所だった。
だが闇ではない。
ラウリーの目が最初に捕らえたものは、ロウソクの明かりだった。自分が先日、火の魔法を練習していた時に、ナザリが使わせてくれたロウソクと同じものだ。少しくすんだ白色で、一晩は灯り続けるだろう大きさのある、円柱状のロウソク。ラウリーは、誰かが気絶していた自分を“ピニッツ”に戻してくれたのだろうかと思った。
『誰か』と言葉で考えながらも、すぐに姿が目に浮かぶ。
クリフ。
ソラムレア船艦の船底に穴を開けた時。ラウリーは、大量の海水に自分が吹き飛ばされてしまったことを覚えている。
そうなる予測はあったのだが、それを防ぐ手段を考えるより先に体が動いて、魔法を使っていた。あの時、ラウリーはここで死んでも構わないと思った。穴さえ開けば皆、脱出できるだろう。そしたら自分の役割が終わるのだ、と。
そう思いながら吹き飛んだ自分を、クリフが受け止めてくれた。借りた服以上に身近に感じたクリフの熱さは、今もまだラウリーの腕や背中に残っている気がする。気を失ったものの、その後ずっとクリフは自分を放さずにいてくれたように思う。
きっとクリフだ。
横たわる自分の側に誰かがいる気配を感じる。目が覚めきらず光量も足らないので顔がはっきりと見えないが、彼に違いないと思った。ラウリーはこのまま目覚めないでいる方が良いのだろうかと思案した。以前、眠りかけている自分に、クリフの顔が優しかった時のように。
だが眠るふりを続けるには、ラウリーの意識は覚醒してしまっている。起きて、礼だけでも言いたい。ありがとうだけなら、クリフも自然に受け止めてくれるかも知れない。
ラウリーは2、3度まばたきをしてから目を開いた。ロウソクの光から目を離し、闇に慣れさせてから、かたわらの人物に顔を向けた。ゆるく微笑み、彼にも怪我がないことを確認して──凍りついた。
「大丈夫か?」
クリフが言いそうなセリフは、クリフじゃない者の口から出てきた。けれど、その声はクリフよりも慈愛に満ちていて柔らかく、愛情を感じる音色だった。
兄さん。
ラウリーが言おうとした言葉は、喉の奥に貼りついて出てこなかった。呼吸もできなかった。
「幽霊を見ているよう、か?」
そうオルセイが言ったので、ようやく気付いたほどだった。兄がそこにいる。生きている、という事実。
「生きて……?」
呟いた拍子に、目尻から涙が落ちた。落ちた涙に自分で驚いた。胸のもやもやが、悲しみなのか喜びなのか分からない。
ラウリーはオルセイの顔をよく見ようとして、上体を起こすために手をついた。ついた先はベッドではなかった。驚いて、手が浮いた。浮いた手で自分の体に触れてみると、体はむき出しで毛布もかぶってなかった。
オルセイの向こうに広がる景色を眺める。闇の中から浮かんでくる輪郭は、石で囲まれた殺風景な部屋だった。ラウリーが横たわっていたのもベッドでなく、石の床だったのだ。だが光景とはうらはらに、春の陽気に似た、暖かくて柔らかい空気を感じる。湿った石の臭いじゃなく、どこか花の香りがする空気だ。潮の匂いは、自分の体からのものだった。髪からも香る。血と油が混じった海と、クリフの匂い。
「クリフは? 皆は? 私は……?」
ラウリーは上体を起こそうとして、ふらついた。目眩がした。オルセイが支え、ラウリーはその腕にしがみついた。“起きる”という動作と“しがみつく”という感触は、自分に現実感を与えるどころか、余計な困惑を生んだ。
「兄さん」
至近距離にある兄の顔色を見て、ラウリーはまた表情を崩した。ほとんど闇という暗さだが目は慣れてきたし、何より兄の面影を見間違えるはずがない。オルセイはダナ神だった時よりも青白かった。
見慣れない黒いローブを着ている兄。
けれど、おもむきは『ダナ』でなく『兄』である兄。
ラウリーはそれを兄にどう尋ねれば良いのか分からず、戸惑ってしまった。
中腰でラウリーを支えていたオルセイは、そんな妹の様子に苦笑しながら少し体をずらした。
「お前を勝手に連れてきたから、クリフには恨まれたかも知れない」
ということは生きているらしい。ラウリーは体を硬くしながらも、胸の奥で息をついた。
「まず紹介しよう」
言いながらオルセイが自分の背後に手を示し、その指先をパチンと鳴らした。突然、天井から光が降ってきた。見あげると、ランプがぶらさがっていた。ロウソクの入った銀細工のランプが3つ、吊り下げられている。室内が一気に明るくなった。
オルセイがしたのは、ラウリーがずっと練習していた熱の魔法だ。
明かりの下で見る兄の顔はやっぱり青白くて、体調が悪そうである。なのに彼は何の準備もなく、その前触れも見せず、手もかざさず目標物を見もせずに、3つ一度に灯してしまったのだ。
ラウリーの目が、おののきとは違った意味で見開かれた。表情だけで充分、口ほどにものを言っている。オルセイは再び苦笑した。
「俺に魔法を教えてくれた師……のような人だ」
オルセイが示す先を見て、ラウリーはぎょっとした。兄の後ろに人がいたことなど、まったく分からなかったのだ。気配がなかった。何の荷物だろうと思うていどの黒い塊でしかなかった。
塊が動いた。
小枝のような手首が光の下に照らし出されて、黒いフードをまくり上げた。下からは、木の年輪を思わせるしわくちゃの顔と白い髪の老婆が現れた。顔をあらわにした途端に、ぶわりと老婆の『魔の気』が膨れあがった。ラウリーが知る誰よりも強い。誰よりも? そう思ってから、自分の胸に“誰か”が引っかかった。
“あの人”の気は、これと同じくらいだった気がする。
このお婆さんと同じような、黒いマント。
老婆は白い前髪の隙間から覗きこむようにして、ラウリーを見て笑った……ように思えた。少なくとも彼女の声は、笑っているかのような明るいものだった。とはいえ、その声は耳に聞こえたものではなかった。音ではなかった。胸に直接響く、思念。“念話”だ。
「自己紹介をしたことはなかったね。あたしはラハウ」
「ラハウ……さん、ですか?」
今までに聞いたことはないような不思議な、いや不気味なと形容すべき響きだった。だがラウリーは彼女の声にさほど抵抗を持たず、即答していた。以前にも聞いた気がするのだ。人と思えない音色の声や、その姿も。
するとラウリーに向けられるラハウなる老婆の意識が強くなった。彼女はまったく動いていないのに、ラウリーの目が彼女の人差し指の先に止まり、凝視してしまった。なぜか目が放せなかった。放せずにいると……その指が光ったように見えた。強い魔力の放出。同時にラウリーの脳裏にも、光が走っていったように思えた。ラウリーは思わず目を閉じた。
そして、その目を開けた時。分かったのである。
目前の老婆ラハウが誰なのか。かつて少女リンは、師と仰いでいた人はもう出て行かれましたと言った。クラーヴァ国の元宰相であり、最強の魔法使い。いや。最強の魔道士だ。
兄を連れていった人。
記憶が戻っていた。
ラハウを凝視したラウリーの目から、涙が溢れた。いつの間にか、強く手を握りしめていた。悲しみではない。まして喜びなどであるはずがない。力の入れすぎで、体が震えた。
ラウリーが睨んだ相手は、ラハウではなかった。
オルセイは激怒するラウリーに対して、初めて冷笑を見せた。予測していながらも見たくなかった顔だった。けれど、なのにオルセイは「オルセイ」なのだ。ラウリーには分かるのだ。悔しくて、ラウリーの涙は途中から違うものに変わった。
「どうして……」
ラウリーの声が途切れ、それ以上を言えなくなった。
どうしてダナ神がいるの。
どうして兄さんなの。
どうして、こんなことに。
オルセイが彼女の頬を指の背で撫でた。ダナに触れられていると思うと逃げたくなるのに、その優しい仕草はまるきりオルセイのもので、目を合わせていると、逃げる気になれなかった。
「ラウリー。女の顔になったな」
オルセイは翳りのある笑みで言った。ラウリーはどういう意味で「女」と言われたのかが分からず戸惑った。
「旅先で誰かと知り合ったか? あの魔道士か……」
オルセイは困惑する妹の顔を覗きこみながら「ああ」と何かに思いあたったらしき顔をした。
「クリフか」
「え?」
兄が何を言っているのか分からない。第三者、ラハウも見ている前でクリフの名を出されたのが、なぜか不快に感じた。
「兄さん……?」
どう会話をつなげたら良いか思いつかず、ラウリーはこわばった顔をして言いよどんだ。それを見てオルセイが「まだか」と呟いた。嬉しそうな響きにも思えたし、残念そうにも聞こえた。
今の兄とクリフの話をしたくない。
「ここはどこ?」
ラウリーは会話の流れを無視した。
自分がどこかに連れてこられたらしいとは分かるものの、この部屋がどこなのか、どのくらい経ったのかも分からない。だが自分の服装も海の匂いもそのままなのだ、何日も経過したわけではないだろう。
どうして自分が連れてこられたのかも分からない。
オルセイは肩を竦めた。
「お前もよく知ってる場所さ」
「知ってる? ロマラールなの?」
「いいや。だが、よく知ってるはずだ」
ロマラール国以外で知っている場所など、今回の旅で通ったところしかない。
「そのうち分かる」
ラウリーは乾いた目でオルセイを見た。
「兄さん……いえ。ダナと呼ぶべき?」
オルセイは寂しげに苦笑した。
「俺をダナだと思うか?」
「いいえ」
兄が求めている答えだと分かっていて答えたが、嘘ではない。
「兄さんって呼ぶわ」
「嬉しいね」
「でも元の兄さんじゃないわ」
ラウリーは恐れずに言い、兄の腕に触れた。その向こうにいる老婆はまた、それきり沈黙してしまった。だが眠っているのでないことは分かる。先ほどまでと違い、ずっと気配を感じる。ラウリーを包んで見張っているような空気を感じる。ラウリーは心の奥底で、その空気をはねのけた。
「何が目的なの?」
単刀直入な問いだ。オルセイは口の中で「短気だよな」とか何とか呟いたようだった。
冗談じゃない。これでも一つ一つ、ゆっくり問いただしているつもりだ。本当なら泣きながら矢継ぎ早にわめきたい気持ちなのだから。
兄のこともだし自分のこともあるが、あれから戦争がどうなったのか、クリフがどうなったのかも気にかかる。ちゃんと助かっているのかどうか。勝ったのかどうか。
13歳の少女。ユノライニ王女。結局、顔を合わせては話さなかったが……あの子も意志の強そうな目をしていた。
無事に助け出せたのだろうか。反乱軍と合流して手を取りあって、ソラムレア国再建に力を尽くせるのだろうか。そうでなければ困るのだが。そのために命をも投げだす覚悟で挑んだのだから。
ダナ神が何をする気なのか、後ろの老婆ラハウが何を考えている人なのかは、まったく分からないが……ヤフリナ国でくり広げた、あの戦を無駄にするようなことだけはしないで欲しい。ラウリーはそう思った。
「皆、殺すの?」
さすがに少し、声が震えた。オルセイは妹の不安を取りのぞくように、
「殺さないよ」
静かに応えた。
「でもジェナルム国での、あれは……」
「あれは小国に閉塞されて生きてきた者たちの心を解放した結果さ。彼らは自分たちをおびやかす大国の脅威から逃れたがっていた。王ダナザの心がダナ神に捕まったのも、そのためだ」
「あれを……解放というの?」
ジェナルム国での戦いを思いだしたラウリーの背に、寒気がぞわりと走った。人の心を忘れた集団だった。自分の意志では動いていなかった。あのような戦いを──『解放』を、あの人たちが望んでいたとは思えない。思いたくない。
「人の心に潜む欲望は果てしない。ソラムレア国に攻められ、ネロウェン国の属国になるしか選択肢がなかったダナザ王の無念と鬱屈は、どれほどのものだったろうな。ダナの意志たる石を持ったダナザ王の心が爆発し、あの群衆を作りだした。ダナの欲は“死”。相手を亡き者にしたい、相手の意志を殺したい、自分に従わせたい支配欲だ」
「支配欲」
兄の口上に、ラウリーは呆然となった。ダナ神に欲などあると思わなかったし、そんな意志に引きずられて人間があのように変わるのだと言われても納得できるわけがない。
そもそも魔力は、無欲になるところから生まれるのではなかったのか。魔力を高めようとする魔道士が目ざす『無欲』と、ダナ神が持つ強烈な『支配欲』が明らかに矛盾しているように感じられる。
「兄さんは、」
ふと気付いてラウリーは兄の目を見つめた。
「兄さんもダナに負けたの?」
降りてきたダナの意志。石が分離していたダナの心。オルセイの心が、欲が反応してダナを呼んだ──と? ラウリーには、そのように考えられた。ダナを引きよせる心。支配欲。
そんなもの……私にも、ある。
「負けたという言い方は適当じゃないな。ダナは元々すべての者の心に潜む。ダナだけじゃない。マラナもクーナもニユも、7神の心は、すべて自分の中にある。俺の中にあるダナが、ラハウの魔力によって覚醒した──と考えるのが、一番近いな。神には、形も個もない」
オルセイは勉強好きの妹に諭すように、言葉を句切った。
「ロマラール国は、神話の中に。クラーヴァ国では大地に、神がいるらしい。ソラムレア国の皇帝は我こそ神だと言いだして、ネロウェン国の王族は神などおらぬと思っている」
オルセイはあぐらを掻いて、楽しそうに天を仰いだ。天と言っても、薄暗く冷たそうな石の天井にランプがぼんやりと灯っているだけなのだが。ここにいると、天の存在を忘れそうだ。
オルセイが続けた。
「天なる父よ。我らの神、ファザ神」
絶対神ファザ。7神の頂点に立つファザだけは、人から神になった存在ではない。実体がなく石もなく、守護月も色もない。無いに等しい神だ。けれど『名』がある。
「ヤフリナ国の宗教だ」
オルセイは指先でトントンと床を叩きながら言った。
「神は天になどいない。いないんだ」
静かに言いながらも、どこか吐き捨てるような口調だった。元々の兄が持っていた思考ではなさそうだとラウリーは思った。やっぱり『オルセイ』と『ダナ』は別のものなのだ。兄はダナに負けたのだ。
「神にすがるな。自力で生きろ。だが神名を忘れるな。魔力を失うな。そのために俺は呼ばれたのだ。魔力の脅威を、神の過ちを人々が忘れぬように。世界が無に帰さぬよう……いや、」
兄の笑みが凄絶なものになった。
「無になるものなら、それも良かろうが」
「止めてっ」
泣き叫びそうになるのを無理に鎮めながら、ラウリーはオルセイにしがみついた。
「嫌よ兄さん、何を言ってんだか全然分からないわ! 元の兄さんに戻ってよ、こんなの嫌よ。そんなに人は愚かなの? 信じられないの? 過ちを犯してる? ただ普通に、平和に暮らしたいだけなのに!」
「その“普通”というやつが、な」
オルセイは組んだあぐらの膝に肘を置き、ラウリーの顔を覗きこんだ。その手を取り、甲に唇を当てる。兄なのに──半分ダナだからだろうか、口づけをされた手の甲から背に、ぞわりと悪寒が走った。兄の唇がやけに艶めかしく見えた。
「すべての者にとっての“普通”とは……一人残らず平和でいられる世界とは、何なのだろうな」
伏せたまつげに憂いが見える。
ラウリーだって、守護にダナを持つ。
髪にまで神の色が現れているほどなのだ。兄より、その力は強いと思っていた。だが今ラウリーには、兄の気持ちもダナの心もまったく分からなかった。言っていることの意味が分からないわけではない。
「兄さん。帰ろうよ。父さんも母さんも……クリフも心配してるわ」
急に兄が手を放した。
「それは、お前次第だな」
「私?」
「お前の力が役立つかどうか。俺の側にいられるかどうかで、俺の力加減も変わる」
それがラウリーの連れてこられた理由らしい。
首を傾げたラウリーの脳裏に、老婆の声が響いた。
「あたしの力だけではダナの魔力を御しきれないのさ。この坊やとダナの相性は完璧じゃあない。お前さんにもっと力と欲望があれば、ダナが降りた先はオルセイでなく、ラウリー、お前さんだったかも知れないね。お前さんにはダナの器になれる素質があるよ」
ラウリーは目を見開いた。
が、心当たりがないわけでもなかった。
誰かから──“あの人”から、そのような説明を受けたことがある。気がする。
ラハウに記憶を解かれたせいで、ラウリーは色々と思いだした。だが、まだ“あの人”の姿や名がはっきりと思い出せない。きっと“あの人”も自分に術をかけたのだ。無理に忘れさせられた顔は漠然としていて、まったく像を結ばない。
「側にいられるかどうかって……そんな力、私にないわ」
「それがお前の良いところかな。自分の力を過信してない」
オルセイは兄の顔をして、ラウリーの頭をポンと一度だけ撫でた。子供にするような仕草だ。
何をされても何を聞いても、何を話しても、ラウリーは泣きたい気持ちになる。言動のすべてが兄であり、兄でないから。
すべきことが分からず、ラウリーは心中でクリフの名を唱えた。