4-5(戦慄)
「加勢に来たぞ!」
“キエーラ・カネン”の声に跳ねあがったクリフは、そちらを見た。迫ってくる男たちの姿は頼もしかった。反乱軍の男たちも、こぞって砦を飛びだして正規軍を攻めにかかった。
だがクリフは流れと逆に走った。
砦へ。
オルセイがいなくなったからだ。
アムナ・ハーツを放した瞬間だろうか。“転移”をしたのか空高く跳躍したのか、ふり向いて“キエーラ・カネン”の連中を見たクリフの視界に、オルセイがいなかったのだ。
数人の男らが王女を守っていた。
ルイサもゴーナから下ろされ、拘束を解かれているところだった。
ラウリーの側にも人がいたが、皆、戦いに気を取られていた。
そんなクリフの視界に。
オルセイが舞いおりた。
クリフは足がもつれてしまい、転びそうになった。それほどオルセイの顔が近かったのである。転びかけたクリフの左腕を、オルセイが掴んで支えた。「あいかわらずドジだな」とでも言いそうな顔をして。
だが表情とはうらはらに、クリフの体中を鈍痛にも似た黒い感情が駆けぬけた。全身がしびれて、クリフは思わず体をくの時に曲げた。掴まれた腕から流れてきたものだった。
オルセイの手からクリフに向けて注ぎこまれた強い痛みは……この感覚は、分かる。
──“憎悪”だ。
故意に向けられたものなのかは分からない。
無意識にあふれ出た思いかも知れない。
誰に向けられたものなのかも不明だ。
クリフに向けられたものなのか、イアナを指して発せられた感情か。
掴まれていない方のクリフの手が、空を泳いだ。思わず剣を欲してしまったのだ。ただの剣でなく、赤い輝きを持つ神剣の方である。あれでないと、これに抗うことができない。それほどオルセイに威圧感があった。
見慣れた顔をしているのに、正気だと分かるのに、左腕から流れこんでくる感情が痛い。
薄く笑うオルセイが至近距離に迫り、クリフの顔を覗きこんだ。目をそらすことができなかった。喜びに満ちながら憎悪を放つ爛々とした瞳が、クリフを捕らえて放さない。
クリフは歯の根が合っていないことに気付いた。ぐっと噛みしめたが、震えが止まらない。歯がガチガチと鳴らないようにするのが精一杯だった。
イアナの剣が欲しかった。
「俺の欲しいものが人だと聞いて、」
降りたっても、オルセイの方がわずかに上背がある。見下ろされて、クリフは懸命に睨みあげた。
「お前は、微塵も自分のことだとは思わないのだな」
「!?」
元々動けなかったが、クリフは混乱してさらに硬直してしまった。
「お前らしいよ」
だがオルセイはクリフを一笑に伏して、手を放した。クリフは驚愕するより先に、放されたことに安堵を覚えてしまって出遅れた。体が軽くなり、思考が戻ってきた。
からかわれた。
オルセイがアムナを放して跳躍し、クリフと話して離れるまでは、本当に刹那だったろう。だがクリフには、とても長い時間だったように思えた。
オルセイが次に降りたった先も、彼が紫髪の娘を抱きあげる光景も。
「え?」
オルセイはユノライニ王女の姿など、カケラも見ていなかった。慈しむ視線がラウリーにのみ注がれており……クリフの心は、真っ白になった。
ほんの一瞬のできごとが、永遠の長さで脳裏に焼きつく。
黒いローブがふわりと浮きあがっている、その裾が地に着かないうちに。
横抱きにされたラウリーの肢体はまだ濡れたままで、体の線が露わでなまめかしかった。
仰向けで頭を落としているラウリーの首が白くて無防備で、やけに目についた。
皆の喧噪もまだ、そのままで。
誰もオルセイに気付かないうちに。
最後に記憶に残ったのは、やっぱり薄く笑っているオルセイの顔だった。
どこか勝ち誇ったような表情にも見えた。
その顔なら、遠い記憶の中にもある。
グールを狩り終わった時。手合わせをした時。遊びに興じた時。
食卓で。山で。部屋で話をして。好いた女の話をしたこともあった。
互いに「お前には敵わない」と口で言いながら、心でもそう思っていたはずだったが、どこかで勝っているものを見出そうとしていた若い頃があった。
謙遜しながら、少しだけ勝ちを味わっているに違いない顔を見せた、オルセイ。自分はといえば、ここぞとばかりに勝ちを喜んではばからなかったものだが……。本当の意味で優劣を意識していたのは、どちらだったのだろう?
オルセイは言ったものだった。
「俺はお前になりたかった」
クリフも負けじと言い返した。
「俺だってお前になりたいぞ」
不毛な問答だなと言って笑ったが、あながち嘘じゃない。2人のこうしたやり取りは子供の頃からずっと続いている。何かにつけて話しあい、お互いの違いをすり合わせて楽しむのが常だったのだ。
「お前はラウリーを嫌いなのか?」
「は? 好きとか嫌いとか、考えたことなかったよ」
「顔を合わせるとケンカしてる気がしたんでな」
「あれは向こうが突っかかってくるんだよ。何とかしろ兄貴」
「何ともならんな、お前たちが今のままじゃあ」
そう言ってオルセイが笑った、そんな会話は確か2年ほど前だ。ラウリーが魔道士になると言いだした頃だったが、あの時から3人はまったく変わっていない気がする。つかず離れず、ただ狩りの腕を磨くことに没頭した、奇妙だが充実した日々だった。
今も違う意味では充実しているだろう。
あの日々を抜け出したのだから。
「!?」
直後クリフは、その思考が自分のものではないことに気付いた。左腕に残る感覚が、オルセイの思いを伝えてきたらしかった。置き土産のような思念。「あの頃」が遠くなる。
クリフはオルセイが消える時、以前もこうして昔を思いだしたなと思った。
かつてクリフに刺された、血みどろのオルセイが姿を消した瞬間。今回もまったく同じ消え方だった。表情はまるで違うものだったが。あの時と同じく、煙のように消えてしまったのだ。
ラウリーを連れて。
「ラウリーっ!」
クリフが叫んで走りだした時には、すでに2人の姿はなかった。正規軍に気を取られていた皆が黒い男の登場と退場に気付いたのも、クリフの声がした後だった。そのくらいオルセイがいた時間は、わずかだった。
死んだのではなかった。
瀕死の状態で消えたが、死んだわけではなかったのだ。
同じ光景を見たクリフの記憶が、ずるりと音を立てるかのように引きだされた。
生きていたオルセイ。
自分も同じことをしたではないか。
消えて、違う場所に現れることができる魔法だった。
そうだ、あれは……。
「“転移”」
クリフはオルセイが消えた跡に立って、呆然と呟いた。呟きは皆の騒ぎに埋もれて消えた。ラウリーとオルセイが消えたことに騒然となっている者たち以外は、歓声を上げていた。まさか正規軍側が逃走するとは思っていなかったのだ。狂喜乱舞する誰かがクリフにぶつかったが、クリフはぶつかられたことにも「ごめん」という言葉にも反応しなかった。
「クリフ?」
気付いたマシャが、クリフの側に駆けよった。けれど、それでも返答する気力が持てなかった。マシャはラウリーを気遣っていたため近い場所にいたのだが、最後の攻防に気を取られていたので、オルセイの姿すら確認できなかった。
「何が起こったんだい、今」
クリフのシャツを掴むマシャの手は、震えていた。オルセイに斬られた当事者なのだ、また遭遇して恐れない方がおかしい。
クリフも。
クリフが呆然と突っ立って動けないのは……怖かったからだ。
「お前、クリフというの? 本名は?」
突然、濡れそぼったままの少女が、ひょこんとクリフの横に立った。後ろ手を組んで見あげてきている。クリフの反対側にいるマシャが見咎めて、
「あ、こら」
と少女を威嚇した。
「クリフも疲れてるんだ。あんたは船に入って着替えろよ、お姫様」
わざと語尾が強調されていたが、お姫様もひるまない。
「お前が話しかけてるのに私が話しかけてはいけない道理でもあるの? 得意の早口で理由をまくしたててごらんなさいよ、誰が話しかけたって彼の疲れは一緒でしょ」
「む」
珍しくマシャが詰まった。マシャも疲れているらしい。
戦いが終わったからだろうか、ユノライニに元の高慢さが戻っていた。体はすっかり、くたくたの様子だが。日が昇ったせいで気分が明るくなったのかも知れない。闇は人の心を沈ませる。
皆が歓声を上げながら、桟橋へと進む。港には、ようやく入港できた4隻の船が仲間を乗せるべく近づいているところだった。
清々しい朝と爽やかな勝利、だ。
皆にとっては。
クリフはラウリーの消えた跡を見つめたまま、その同じ場所に別の者が立ってクリフを見ても、やっぱり反応できないでいた。
立った者はオルセイと同じ出現をした。
だがオルセイではない。
ラウリーでもない。
服も同じく黒ずくめだった。ローブではない。頭をすっぽりと覆って顔が見えない、黒いマントだ。だが、それでもクリフにとっては何の意味もなかった。周囲のどよめきが他人事のように耳の表面を撫でていった。
自分にしがみついてきた2人の少女のせいで体が揺れたが、硬直した自分の体すら他人のもののようだった。
「翠……」
男を下から見上げたユノライニが、フードを覗きこんで呟いた。クリフにも見えた。男のフードは深くかぶられていたが、さらりと揺れる緑色の束は髪だった。
男は出没してすぐ周囲を一瞥したが、後はずっとクリフに焦点を合わせているようだ。視線を感じる。視線でない『力』も感じる。自分以上に感知しているのはユノライニだろう。彼女はクリフの腕にしがみついてしまっている。黒いローブの男が再来したかと思える魔力だ。
いや、オルセイよりは弱いか……。
思ってからクリフは、マシャとユノライニ両者の背に自分の手を乗せた。少女らの熱を手の平に感じる。
「誰だ?」
自分の声が耳に響く。夜明けの体が濡れた体を撫でて、クリフは徐々に自分を取り戻した。顎を引いて、翠の男を見すえる。
男が、クリフに言った。
「お前を連れに来た」
まるで、連れて行かれる場所は天国なんじゃないかと思えるほど、現実味のない声だった。




