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4-4(恐慌)

 アムナ・ハーツは魔力を感知する力が薄いらしい。彼は臆せずに、目前に降りたった男に噛みついた。

「何者だ貴様! 邪魔をするなら斬りすてる!」

 黒い長衣(ローブ)に身を包んだ男は、アムナに背を向けている。背丈と肩幅があるので一瞬ひるんだが、よく見ると痩せぎすだ。腰の幅が狭い。アムナは憤然と男の肩に手をかけた。

「どけ!」

 彼の体が揺れて、黒髪の頭がゆっくりアムナにふり向いた。

 アムナは息を呑んだ。

 吸いこまれそうな輝きをたたえた紫の瞳に、呑まれたのだ。

「うわっ!?」

 途端、アムナが吹き飛んだ。

 ドォン! と激しい音がして、中年艦長の体は兵らの中にめり込んだ。ぶつかられた者たちも5、6人が倒れた。違う意味で叫声が上がった。かろうじて気絶しなかったアムナは部下の頭に手を突いて、うめきながらも身を起こした。何が起こったのか分からないという顔をしている。

 それを見ていたクリフは、無意識のうちに呟いていた。

「殺さなかった」

 殺さないことの方が人として普通だ。だが相手は人じゃない。目前に立つ男の衣服や行動は、クリフが長年知っているものではない。邪魔する者は皆、無造作に殺した男だ。彼が手をかけて殺そうとした人間は……自分(クリフ)だけだった。

 クリフの脳裏にまた、まだ何も終わっていないのだという言葉が思いだされた。そうしてから、ふと「髪が伸びたな」などと思った。紫がかっているように見える。自分と同じか。

 クリフは内心で苦笑した。

 ──俺もお前も、踊らされてるらしい。

 体も痩せた。心なしか肌の色が悪い。あの傷が癒えるのに、どれほど長く辛い日が続いたのだろう。

「オル、セ……」

 クリフの声がかすれた。

 どう考えても聞こえなさそうな小声だったのに、声と同時に黒い男がクリフを見た。

 オルセイの目で。

「もう何年も会っていなかったような気分だ」

 感慨深げなオルセイの声は、オルセイのものだ。かつて聞いた、無機質な響きではない。告げられた自分の名前も。

「クリフ」

 昔から聞いてきた、耳に馴染んでいる呼び方。この時も、すっと耳に入ってきた。オルセイの声で、オルセイの目で。

 なのに。

 なぜ彼は、そのような表情をして立っているのだ?

「久しぶりだな」

 オルセイは薄い笑みを口元に浮かべたままだった。

 やもすれば嘲笑か冷笑かと思えるほど、情のカケラも感じられない笑みだった。

“彼”と対峙したことのあるクリフには分かった。

 これはダナじゃない。

 だが彼のしていることは、まるきりダナだ。言い方もダナ神が言いそうなそれで、思わず『おいおい、どうしたんだよ』と軽口を叩きたくなるほど、現実味がない。クリフは知らず知らずのうちに自分の口元が、こわばった笑みを作っていたことに気付いた。

 望んだ者が、そこにいる。

 望んでいなかった姿で。

 俺のせいか? と思った。

 クリフが斬ったから。

 ダナを滅することができなかったから。

 だが。

 だが生きている。

 クリフは顔をしかめた。

 夜が明けて、海に反射した光がまぶしかった。石畳に広がる惨劇と黒い男の立ち姿と朝日があまりに不釣り合いで、何だか笑いが洩れてしまった。でなければ、なぜ出てしまった涙なのか分からない。

 誰も動けないでいた。

 正規軍側はおろか、反乱軍側も。

 魔力が感知できるユノライニは真っ青な顔をしたまま砦に立って、ダナを凝視している。目をそらしたくとも、そらせないのだ。皆こわばっていた。魔力を感じられなくても、吹き飛んだアムナ・ハーツを見れば、誰も下手に動けない。

 だがアムナは大物だった。

「おのれ!」

 立ちむかったのだ。

 手にした剣を大上段に振りあげて、気合いを入れながら男に突進する。

 自分を平民だと思っていない、特別な者だと自負したいのはユノライニでなく、アムナだった。自分が人の上に立てる人間だと、皇帝になれる者だと自分に暗示をかけ続けて今に至るのだ。思いこみは、そう簡単にくつがえせない。

 小さな自分と向きあわなければ、人は大きくなれない。

 アムナの剣が落ちた。

 皆の見ている前でアムナは、体一つ分、上空に浮きあがった。そのまま空中にとどまるアムナに、男は指一本触れていない。皆が恐怖におののいた。

 自分の背後に迫ったアムナのことを、黒い男は物ともしなかった。背中に目がついているかのように、ゆっくりとふり返って手を上げたのだ。優雅と言えるほど、ゆるりとした手の上げ方だった。

 上げられた手の動きに合わせて、アムナもゆるりと浮きあがったのだった。

「ひっ……」

 思わず声を出してしまったのは、誰だったか。アムナの顔も引きつっていた。

「オルセイっ」

 クリフが叫び、動いた。声を出すのが苦しいほど喉が詰まったが、それでも絞りだした。ゴーナを反転させて走りだそうとすると、ゴーナが怯えた。すぐに飛びおりた。ゴーナ上にルイサが取り残された。

 けれど、それ以上クリフは走れなかった。

「動くな。この男を殺すぞ」

 中空に浮かんでいるアムナは身動きできない。呼吸もできないのだろうか、彼の顔は徐々に赤く、苦しいものに変わっていた。

 思わず固まってしまった自分に、内心クリフは可笑しくなってしまった。今の今まで殺す覚悟で戦ってきた相手を人質に取られて「殺す」と脅されて躊躇するなんて。

 クリフの足が止まったのに合わせて、アムナが「ぶはっ」と息をついた。窒息しかかっていたらしい。だが体はまだ浮いたままである。指一本、動かせない。

 薄く微笑むオルセイの横顔に、朝日が当たった。波の音が高くなった。明けの満ち潮が近いためもあろうが、海戦も地上戦も、この奇異な男の登場によって静まったため、海の音が際だったのだ。港の石畳に広がる黒い液体が、朝日に赤く染めあげられた。雲一つない青空に登った、いやに明るい太陽が、港に長い影を作った。

 どうしてだろう、とクリフはぼんやり思った。

 死の神なのに。黒い男なのに、こいつが現れる時はいつも、清々しいほどの朝日が昇る。世界がダナを歓迎しているかのような……いや、それは考えすぎだろう。単にそういう時間だったに過ぎない。

「何しに来たの?」

 ゴーナ上からルイサが声を上げた。

 その言葉に、クリフは我に返った。

 そうだ。

『ダナ神』がここに来たのだ。例え『オルセイ』が自分に会いに来たのだとしても、だったらなぜ、このような態度のままなのか説明がつかない。

「欲しいものがあったのでね」

 オルセイはルイサに満足げな笑みを向けてから、手にしたブローチを日に透かして眺めた。花を模した細工の中心に、丸く青い石がはめ込まれている。海の底を思わせる深い青は、ルイサの瞳に似ている。美神マラナが示す色……。

「まさか」

 呟いたのはクリフだった。神の色を持つ石。丸く、あざやかな光沢である。イアナザールから借り受けた剣の柄尻にも似たような石があったことを思いだす輝きだった。最初にオルセイは「これに吊られたのか」と言いながら、あれを拾いあげた。力ある石。

 だがクリフの思惑を否定するように、オルセイがふっと笑った。笑いながらブローチを胸の中心に着けたものの、彼は言った。

「俺の欲しいものは人だよ。クリフ」

 オルセイの声音が少し熱い、艶を帯びたものになった。低く放たれた「人」という言葉に、クリフは悪寒を覚えた。

 ──誰だ?!

 バッと砦にふり向いたクリフの視界に、顔を上げた反乱軍の者たちが映った。成りゆきを見守るルイサに、硬直しているお姫様もいる。ガレキの向こうに、ラウリーも見えた。“ピニッツ”の男らに守られ、運ばれかけている……。

 いや、王女だ。

「ルイサ、王女を!」

 クリフは背を向けて走りだそうとした。

 迷いなくオルセイを無視して逃げるつもりだった。自分の体はもう限界で、今のオルセイと対峙していられる余力がないのだ。元に戻っていないオルセイに何を言えば良いのか、ダナとして立つオルセイに何をすれば良いのか分からなかった。

 立ちむかうことは、できなかった。

 もう2度と斬りたくないのだ。

 クリフは背中に重圧を感じた。

 ルイサが、少女が、砦がやけに遠い。

 だが。

「わああぁぁっ!!」

 突如まき起こった叫声が、クリフの呪縛を解いた。正規軍の連中ではなかった。反乱軍でもない。石畳を揺るがすほどの足音と怒号は、街の中から聞こえてきたのだ。声は丘を下って通りを抜けて、この港に向かっていた。

 通りから溢れて港に流れこんできたのは、普通の格好をした男たちだった。(くわ)や斧を持った姿は、これから畑か山に行くのかという風情である。違うのは皆、目を血走らせて正規軍に向かっていることだった。

 かつてジェナルム国で目にした、戦いに身を投じる平民の集団を思いだす光景だった。

 だが、あの時とも違う。目前に迫る者たちは皆それなりの年になった男ばかりで、そしてあの連中と違い、生きた目をしている。百人ほどしかない軍勢だったが、その雄叫びには千人分の力があった。

「加勢に来たぞ!」

 誰かが叫んだ言葉に弾かれて、反乱軍側の誰かが叫んだ。

「“キエーラ・カネン”だ!」

 吊られるようにして皆が走りながら、口々に声を上げた。

「やはり他人のふりなど、しておれんっ」

「俺たちの国から出ていけ!」

「苦しめられるのは沢山だ!」

 男たちは慣れた鍬を振りまわし、慌てふためいている正規軍に襲いかかった。オルセイの魔力から解放されたアムナ・ハーツが叫んだ言葉を、そこにいた全員が耳にした。

「投降したければしろ! 捕虜も置いていく、撤退だっ。まだ(こころざし)のある者は船に乗れ、私がしんがりを務める」

 それが自分の役割だとでも言うように。アムナの目は力強かった。逃げる者の目ではなかった。

 アムナはいつでも立ちむかう男なのだ。

 敵に突進しようとした艦長を遮った一群には、ユノライニの側近を任された青年もいた。投降しても良いと聞いた瞬間、彼の足は反乱軍に向いた。

 だがアムナという一軍の大将が、謎の男に振りまわされた無様な姿を払拭するかのように見せる勇姿に、彼の心が傾いた。捨てようとした剣に力がみなぎった。若者はまだ自分の正義がどこにあるのか、よく分かっていない。今、目の前で自分の上官が自分たちを守って戦っている、それだけが真実だったのだ。

 今この連中に投降して、助けてもらえるのかという不安もあった。他国だ。まともな暮らしどころか“生”を与えられるかどうかも保証がない。

「数はこちらが上だ、弓矢隊、並べ!」

 青年は叫んだ。

 彼は向かってくる“キエーラ・カネン”の向こうに一瞬だけ、ユノライニ王女の姿を見た。わずかに通じ合えなかった彼女との隙間が、大きな隔たりになってしまった。ユノライニの方は露ほども自分のことなど気にかけていないだろうが。

 青年はすぐに視線を王女から引きはがして、反乱軍たちと剣を交えた。だからユノライニが自分を見たことには、気付かなかった。

 弓矢隊から放たれた矢の雨が、皮の鎧すら着けていなかったヤフリナ国の平民を襲う。それでも退くことのない反乱軍たちとアムナらしんがりが衝突しながら、港に戻ってきた一隻の船に乗りこんだ。入り江では正規軍の残り2隻が、港からの合図によって突進していた。反乱軍の船もろとも沈む気なのだ。

 正規軍が最後に見せた決死の攻撃は、反乱軍をひるませた。

 相打ちになって沈むつもりはない。

 元々こちらが、王女が奪還できたら撤退するつもりだったのだ。

 船は争いを避けて、退いた。

 地上戦は正規軍が退いた。

 自軍の船に詰めこまれるようにして正規軍の者は、次々に退いていった。

「アムナ様!」

 本当にしんがりとなって、アムナは最後に船に乗りこんだ。彼の体には傷一つなかった。黒い男相手に見せた醜態は、男があまりにも不気味だっただけに避けられなかった事態だったのだ。彼の力を見誤った早計な者が、斬られてうめいた。

 剣を一振りして血を振りはらったアムナは、港を離れる船の上からカーティンたちに向かって叫んだ。

「私はこのまま終わらぬぞ!」

 厄介な相手を逃がしてしまった……という思いは、皆が持っただろうか。

“キエーラ・カネン”の援軍が来て正規軍が撤退するまで、さほどの時間ではなかった。港を制圧した反乱軍の男たちは突然訪れた勝利に戸惑い、じわじわと喜びを噛みしめて声を上げる──といった風だった。

 誰も黒い男が消えたことに気付いていなかった。

 気付いた時には、遅かった。

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