「一緒に暮らそう、リサ」
それから三日が経った。
「おいトッド、おまえフランツさまと知り合いだったのか?」
星祭りの飾りを屋敷の門扉に取り付けながら、商店の主が首を傾げた。
上の方からかかった声にふと顔を向ければ、先日の吹雪が嘘のように空が青い。
店主が乗った梯子を下で支えながら、トッドは「まあな」と呟いた。
「こないだ知り合ったばかりだけどな」
「何日経っても荷物はうちに置きっぱなしだしよ、どうしたのかと思ってたんだぜ」
「そういえばそうだった」
「ここで厄介になってると知ってりゃ、ついでに持ってきてやったのに。いつまでも店の奥に転がしとくわけにもいかん。場所取りでしょうがない」
「そいつは悪かった。あとで取りに行くよ」
「ところでおまえ、逃げた内儀さんはどうなった」
ちらりと上に視線をやる。
話すべきか。話さざるべきか。
だがまあ、隠す必要もないだろう。正直に教えておこう。
「あいにくだが、あいつは内儀さんなんかじゃないよ」
「あんな真っ青になって探してたのにか」
「寒かったからな。顔色も悪くなる」
「ふーん。で、結局どうなった。見つかったのかい?」
ああ、とトッドは頷いた。
「おかげさまで」
もちろん、それが鉄格子の内側だとは思わなかったが。
「良かったじゃないか。カッチコチに凍ってなかったかい?」
「凍ってた。釘が打てるくらいには」
「溶けたのか?」
「ああ、どうにか」
心の方もな。
呟いた声は、店主には聞こえなかったらしい。
おい裏門もやるから手伝ってくれ──そう言ってえっちらおっちら荷物を抱えていく。トッドも梯子を担いで後に続いた。
庭ではヨセフとリサが雪で人形を作って遊んでいる。はしゃぐ声につられて視線を向けると、リサと目が合った。
「トッドさん」
頬を上気させて駆け寄ってくれば、上下にはずむ乳房が意識せずとも目に入る──なるほど、これはシシィが劣等感を抱くわけだ。
思わず苦笑いするが、リサは気づいていない。
ここにあいつがいれば、即座に見咎めて口を尖らせるだろうに。
「シシィはどうしてる」
「落ち着いています。今はばあやさんが見てくれてるの」
「そうか」
「あの、色々とありがとうございました」
そう言ってぺこりと頭を下げる。
「あなたがあの子を助けて下さったのだわ。本当にありがとうございました。私ではなんの御礼もできないけれど……」
「礼なんか。あいつが自力で生き延びたんだ。俺は何もしていない」
「いえ、『黒い森』でのことです。あなたがあの子を見つけてくれなかったら」
「それだって、あいつが俺に見つけさせたんだ」
それよりも、と言葉を繋げる。
「あいつが動けるようになったら、あんたはどうするんだい」
リサの表情が引き締まった。
シシィと同じ黒い瞳が、まっすぐにトッドを見据える。
「私は、ここに残ります」
しばしの沈黙があった。
絡みあった視線はそのままに、トッドは静かに訊ねた。
「だったら、あいつは俺が貰って行っていいんだな」
リサの瞳がじわり、と揺らいだ。
赤い唇から紡いだ言葉もかすかに揺れるようだったのは──気のせいではないだろう。
「……そうして下さるのですか」
「あんたのためじゃない。俺のためだ」
「トッドさん。私、何と申し上げればいいのか……」
どんなに思い合っていても、どんなに互いが大切でも、離れた方が上手く行くことだってあるだろう。リサとシシィが正にそれだ。
だが、そんな建前はどうだっていい。
俺があいつを連れて帰ると決めた。それだけだ。
早く来いよ、と向こうの方から声がする。梯子を担ぎ直し、「じゃあな」と言って歩きだす。
リサはゆっくりと頭を下げた。
建物の角を曲がる時に横目で見ると、まだ、頭を下げていた。
* * *
浅い眠りと短い目覚めを、どのくらい繰り返しただろう。
ふっと目を開け、シシィは自分がまだ生きていることを思い出した。
体が強張っている。自分のものではないみたいに。
ずっと横になっていたせいだ。
ひとつ瞬きをして視線を巡らすと、枕元ににこにこと笑う老女がいる──誰だろう。悪い相手ではなさそうだけど。
「具合はどう?」
と訊ねられ、シシィは「だいじょうぶ」と唇を動かした。喉が渇いて上手く声が出ない。
軋む体でどうにか起き上がると、老女が白湯のはいったカップを口許に運んでくれた。手渡しでは受け取れなかっただろう。指が強張って、動かないから。
「……ありがとう」
「いいえ、いいのよ」
のんびりした口調で、老女は語りかける。
なんでも言ってちょうだいね。体に元気が戻るまで、ゆっくりしてお行き。旦那様もそう言ってるわ。あとでスープを持ってきましょう。皆にも知らせてあげないと、とても心配していたから。
──皆って、誰だろう。
「ねぇ……」
遠慮がちに問いかけて、シシィは口をつぐんだ。少し前なら、まちがいなく「リサは?」と訊いていただろう。
だけど、なぜなんだろう。
胸が詰まって、その先が続かない。
「大丈夫よ」
老女はそう言ってまた笑う。
「誰もあなたを嫌ったりなんかしやしないわ。仲間はずれでもないし、置いてきぼりにもならない。だいじょうぶ」
「……私、まだ何も言ってない……」
「一人ぼっちで『神の家』に帰らなくてもだいじょうぶ。時代は変わるわ。女たちの生き方も」
戸惑うシシィをよそに、老女は立ち上がって窓際に向かった。カーテンを開けると、午後の強い光が差し込んだ。
眩しさに目を細めていると、光の中で老女が問いかけた。
「シシィ。あなた、歳は幾つ?」
唐突に訊ねられ、口ごもる。「十六」と小さく答えると、老女は窓を開けながら尚も訊ねた。
「背は、まだ伸びてるの?」
「……なんで急にそんなことを」
「私は十三で伸びなくなったわ。リサもそのくらいだったそうよ。赤ちゃんを産める体になったのもその頃で、お乳がどんどん大きくなり始めたのも同じくらい」
「なんの話……?」
「星神様のお声を初めて聞いたのも、その頃だったかしらね」
はっとして、シシィは息を飲んだ。
「わ……わたし、背、伸びてない。秋までは伸びてたの。だけど冬になってからは伸びてない。靴の大きさも変わってない」
「そう。だったらもうじきよ」
「赤ちゃん、産めるようになる?」
「なりますよ、女なんだから」
「おっぱい大きくなるかな? リサみたいになれるかな?」
「心配しなくても、平たいままじゃないから安心おし。くよくよするのをやめて、たくさん食べてたくさん眠ること」
「うん」
「それから、たくさんお喋りするの。恋をするのも素敵なことよ。そうしてるうちに体はちゃんと育っていくし、自然とお乳も膨らむわ」
うん、とシシィは頷いた。体も心もカラカラに乾いているはずなのに、ゆらり、と涙で景色が揺れた。
どこから溢れてくるんだろう。
あんなに冷え切っていたはずなのに、頬が温かく濡れるのは、どうして。
「それにね、あなたの樵さんは、あなたがどんなでも構わないって言うはずよ」
涙が頬を伝い、窓から入る風がひんやりと冷やしていく。
新しい空気が部屋中に満ちて、シシィはその中で泣いた。
生まれたての赤子のように、声を上げて。
* * *
「いやーまいったまいった」
そう言って館の主が帰ってきたのは、昼下がりのことだった。
「ほら一応さ、シシィは牢破りをしたわけだろ? まさかうちに脱獄囚がいる、なんて言えるわけがないからさ」
「とかなんとか言っちゃって、隊長さんにカマかけられて結局白状しちゃったんですよね、お館様は」
まあな、とフランツは苦笑して見せる。
まったくお館様らしいや──胸中で呟きながら、ヨセフは“光の快速号”の飼葉桶に干し草を足していく。
先日はその名にふさわしい走りを見せてくれた領主家の老馬は、今は静かに草を食むばかりだ。
「さすがに御咎めなしというわけには行かなくてな。あいつの立場もあるわけだし。
保釈金を多目に納めてきたよ。うちが身元引受人として、正規の手続きにのっとって保釈されたってことにしてもらった」
「じゃあそっちはもう心配いらないんだ」
「ああ、そうだ。いやー肩の荷が一つ降りたよ」
そう言って大きく伸びをする。一仕事こなして満足げな主を横目に、ヨセフは“光の快速号”の背にブラシをかけ始めた。
「あ、そういえばシシィ起きたって。おばあちゃんが言ってたよ」
「おおそうか! だったらあとで見舞いに行くか」
「僕らは明日か明後日だって。一度にたくさん会うと疲れちゃうから」
祖母に言われたとおりに伝えると、なるほど、とフランツは素直に頷いた。
目覚めたとは言え、凍死寸前だったのだ。身の回りの世話を焼くゾフィによって面会は制限されている。
「だってリサもまだ会ってないんだよ。僕らの順番は一番最後だってさ」
「それはずいぶん徹底しているな」
「でもね、トッドさんはさっき会ったって」
えっ、と主は目を丸くする。
顎に手をあて、そうか、そうなんだ、と一人でぶつぶつ呟きながら厩舎を後にして──くるっと振り返った。
「なあヨセフ」
「なんですか」
「あー……えーと、ありがとな。あの時、馬で追っかけてくれて」
そう言って、照れくさそうに頭を掻きながら出て行った。
ヨセフはしばらくぽかんとしていたが──“光の快速号”が催促するように尻尾を動かしたので、ハッと我に返った。
改めて礼を言われると、妙にこそばゆい。
恥ずかしいわけではないが、面はゆい。
思わずブラシをかける手に力が入ってしまう。だが悪いことではないだろう。
その証拠にほら、“光の快速号”は満足そうだ。
* * *
それからまた幾日か経ち、シシィは少しずつ回復していった。
立って動けるようになり、炊事や掃除を手伝えるようになった。
初めは険しい顔をして涙ぐむこともあったが、やがて笑顔が増えてきた。
リサやゾフィとくすくす笑っていることもあったし、ヨセフと軽口を交わしあうこともあった。
星祭りの日までいればいい──フランツからそう提案された時だけ、静かに首を横に振った。
「ありがと、フランツさん」
手負いの獣のようだった娘が、変われば変わるものだ。
暖かくしてご飯を食べさせてぐっすり寝かせてやれば、きっと落ち着いて話し合える──ばあやの言うとおり。亀の甲より年の功。
「私たち、やっと本当の姉妹になれたような気がします」
リサはそう言って微笑んだ。
「今までは何かに縛られていたような気がします。目の前が曇って、よく見えていなかったように思います。あの子のことも、私のことも」
「そうだろうねぇ」
暖炉の前の揺り椅子に腰かけ、いつ終わるともしれぬ編み物を続けながら、ゾフィも微笑んだ。
「『神の家』は、昔は女たちを守る砦だったけど、今はそうではないからね。神仕えで有り続ける必要は無いし、皆がそれぞれに生きていければそれが一番。『家』が砦から牢獄に変わる前に、外に出て色んな幸せを探しましょう──星神様も、そうお考えだもの」
「ばあや、ずいぶんはっきり言い切るね」
「言い切りますとも。私が十三の時に、頂いたお言葉です」
リサが目を丸くしている。フランツも半分開いた口をぱくぱくさせた。
うちのばあやは、『神の家』の女だったのか。
なぜ今まで知らなかったんだろう。こちらが聞かなかったせいだろうか。それともあまりに昔のことすぎて、話す必要がなかったからか。
そういえば、ばあやも立派なおっぱいの持ち主だ。若い頃はリサ以上の迫力だったかもしれん。いやいやそんなことはどうだって宜しい、それにしても何て水臭い──
「ばあやさん」
フランツの思考を中断したのはリサの声だった。それが少し震えていたものだから、フランツはすっかり口出しの機会を失った。
「今でも、星神様のお声は聞こえますか」
ばあやはにっこりと微笑んだ。
「そうね……本当に、本当に、時々ね」
* * *
星祭りを明日に控えたその朝──シシィとトッドは夜が明ける前に出立した。
フランツが馬を貸そうかと言うと、寡黙な樵は意外なほど素直にその申し出を受け入れた。
新年に向けた品々と、領主家からの大量の餞別を荷台に積みこむ。最後は病み上がりのシシィだが、別れを惜しむように抱き合ったリサがなかなか離れない。
「元気でね、シシィ」
「うん」
「手紙書いてね」
「うん。でも郵便屋さんが来ないよ、森の奥だから」
「じゃあ時々会いに来てくれる?」
「トッドがいいって言ってくれたら」
「……ふた月に一度だな」
「待ってるわ。私、待ってるわ」
「うん。リサに会いに行く。必ず」
そんなやりとりを二度三度と繰り返す女たちの横で、フランツはトッドと顔を見合わせ、肩をすくめた。
ほらあ早くしないと今日中に帰れないよ、また雪の中で野宿することになっちゃうよ──ヨセフが後ろからそう言うので、リサはようやくシシィを解放した。
「世話になったな」
「こちらこそ」
差し出された右手を握ると、ちょっとびっくりするくらい男らしく力強い。
ああなんだこの樵、よくよく見れば結構ないい男じゃないか。シシィを受け入れるくらいだから懐もおそろしく広いんだろうし、これはちょっとやそっとじゃ太刀打ちできないぞ──
そんな考えが一瞬よぎったが、務めて顔には出さないようにする。横でにこにこしているゾフィにはたぶんばれてるが──気にしない、気にしない。
自分は自分。
他の誰かと比べるのではなく、過去のおのれと比べるべきだ。
視線を少し動かすと、隣では女たちがまだ名残惜しげに見つめ合っていた。
「リサ」
「なあに」
「ありがとう……大好きだよ」
私もよ。
リサが涙混じりに答え、“光の快速号”は荷台を曳いて動き出した。
どんどん遠くなる二人に、リサは大きく手を振った。
やがて豆粒のように離れて見えなくなるまで、ずっと。
「……行っちゃったね」
「ヨセフ。ばあやと中に戻って、明日の準備を始めておいてくれるかい」
ヨセフは素直にはーいと答える。ばあやの手を引いて屋敷に入るのを見届けて、フランツはぽんとリサの肩に手を置いた。
「リサ」
ぐすっ、とリサは鼻を鳴らした。シシィたちが帰っていった森の方を、いつまでもいつまでも見つめている。
日の出はもうすぐだ。
徐々に明けていく薄明の空には、明けの明星が輝いている。
「リサ、明日は忙しいぞ」
リサはきょとんとしてフランツを見上げた。
朝の色と夜の色、どちらにも染まった空の下、フランツの胸中で一つの決意が固まった。
「星祭りの日は、領主としての仕事始めだ。姉たちも家族連れで遊びにくるし、そちらの相手もしなきゃならん」
リサは神妙な様子で聞いている。目じりが赤くなっているのも、また不思議と可愛らしい──が、見とれているような時ではない。
あのとき最後まで言えなかったことを、今度こそ伝えなくては。
濁すのではなく、正直に、はっきりと。この家の使用人になる気満々のリサに、きちんと伝えるのだ。
「その席でだな、えーと、おまえのことを、そのー……家族に紹介しよう、と思っているんだ」
ここが正念場だ。がんばれフランツ、男を見せろ!
「おまえをだな、そのー……私の妻になる女だと、紹介しようと思っている!」
ひゅっ、と変てこな音がした。
リサが息を飲んだのだと気づくと同時に、彼女の頬から耳がパーッと朱く染まる。
驚いたように手を口元に添え、「フランツさま……!」と声を絞る。
「本当に? 本当ですか? わ、私を……私を、その、あの」
そして胸元を手で押さえ、すーはーと呼吸を整えて叫ぶように、訊いた。
「あなたさまの、妻にして下さるのですかッ!?」
「そうだよ」
「ほ、本当に……?」
「うん」
万感の思いを込めて、フランツは頷いた。
「一緒に暮らそう、リサ」
涙混じりの笑顔で、はい、とリサも頷いた。
そのとき、東の地平に朝日が昇った。
御来光が二人を照らしだす。
長い夜が明け、朝がやってくる。
リサとフランツは並んでそれを眺めていたが──やがてどちらからともなく、手を繋いだ。
さあ、新しい年がやって来る。屋敷に戻って準備をしなければ。
「ようし」
やらなければならないことは山積みだ。
だが、気分は最高だ。
なんて清々しいのだろう。
「忙しくなるぞー!」
フランツはこの上なく幸せだった。
隣の美しい婦人も、同じ気持ちでいてくれる。
微笑みを交わし、手を取り合う。
東の空にはまだ明けの明星の姿があった。
慈しむような光はこれからも、彼らとともに輝くだろう。
『リサ、その乳房にまつわる物語』
** 完 **