◇ 6
「じゃあまたね、ビューティ」
「うん、ありがとう」
家の前で手を振ると、祐午は笑顔を浮かべて去って行った。
夜の住宅街の暗がりにその後ろ姿が見えなくなってから、華恋はようやく家に入った。
「ただいまー」
「帰ってきたっ!!」
正子の声が響く。その大声に呆れながら廊下を進んでリビングへ入ると、家族と藤田姉弟が揃って華恋を出迎えてくれた。時刻は、二十一時五分。
「なにしてんの……みんな揃って」
「お前、今日は帰りませんってお知らせ待ってたんだぞ? なんだよホント、肩透かしだぜ」
良彦のセリフには、父がゴホンと咳払いをした。
「すいません」
「どうだったの華恋ちゃん。祐午君とのデートは」
優季が目をキラキラさせながら身を乗り出してくる。その隣で、正子も早く話せとうずうずしている様子だ。両親は落ち着いているフリをしながら、娘がなにを話しだすかチラチラと視線をいったりきたりさせている。
「デートの内容をイチイチ家族に公表する二十歳の女子がいると思うわけ?」
「いるかもしれないだろー? いるとしたら感心な娘さんじゃないか?」
「うるさいよ藤田は。ホント」
好奇の視線を無視して、まずは手洗いとうがいをしに洗面所へと向かう。戻ってみれば全員がマイカップを前にウキウキと主役の帰還を待っていた。
「おねーちゃん、その服どうしたの?」
「これはよう子さんが作ってくれたんだよ」
「よっしー君、メイクの腕がすごいな。よく見たら全然、いつもの華恋じゃないぞ」
「それは祐午君にも言われたよ。っていうか、いつもと違いすぎてたまに目の前にいるのに見失われたし」
これには藤田ブラザーズが爆笑した。つられたのか、父も笑って、すぐに慌てて口を押えた。
「で、見失った挙句はぐれたとかか?」
「そこまではしてないよ。ったく、面白がりすぎ」
「早く本日の詳細を教えてくれ!」
「ご飯食べて帰ってきたんだよ、今」
プンプーンと言い放つ華恋に、全員、こりゃダメだと思ったのか無言のコーヒータイムが始まった。
カップが空になって、藤田姉弟も帰っていく。
メイクを落とし、風呂に浸かってから自分の部屋に戻り、華恋はベッドに倒れこんで、ふわあーっと息を吐いた。
まだ少し寒さの残る春のはじめ。今日の出来事を思い出して、目を閉じる。
長い一日だった。疲労がどっと噴き出してきて、そのままいつの間にか華恋は眠りに落ちていた。
「で、昨日の詳細を教えろよな!」
次の日の朝は、挨拶の前にこんな言葉から始まった。
「藤田君、おはよう」
「おう、おはよう!」
朝の食卓には朗らかな笑顔の青年の姿がある。
あいも変わらず図々しくあがりこんできた近所の男に、華恋は肩をすくめて答えた。
「教えないってば」
「いいじゃんか。いいじゃんかーいいじゃんか。俺の卒業祝いに教えてくれよ」
専門学校の卒業式は、あと五日でやってくる。
「じゃあさ、就職祝いに教えてくれ」
月末になれば、良彦は「株式会社ドーリィガールハウス」の開発部の所属になる。
「ミメイー、ミメイー、いいだろ、なあいいだろー?」
「うるっさいな、ホントに、藤田は。家族の前でそんなの全部話すわけないでしょ?」
「じゃー喫茶店でも行くか。たまにはサシでどうだ? 俺と一杯!」
「わかったよっ! じゃあ今から行こう、駅前にっ」
あまりのしつこさに大きなため息をついて華恋が返事をすると、良彦はいつもの笑顔をニカッと浮かべた。
駅前の大手チェーンのコーヒーショップは客が少なかった。通勤前のラッシュが済んで、店内はようやく落ち着いたところなんだよね、といった様子だ。
その店の奥に二人で座り、朝食代わりのサンドイッチとコーヒーを口にする。
「まあ、いい感じだったよ。昨日は」
「マジか。ユーゴはなんなの? お前のこと、好きなの?」
黙りこむ華恋に、勘のいい良彦がニヤリと笑う。
「そうかそうか! 青春だな、ミメイ!」
「なにも言ってないじゃん」
「お前のその四角い顔が雄弁に物語っているぜ。ピュアッピュアなラブストーリーがあったってことをな!」
「声が大きいっ!」
制してはみたものの、この相手に効果があるかどうか。
諦め半分でシーっとしてみたが、この後何回同じ注意をしなければいけないだろう。
「告白されたんだー、そうなんだー」
「うーん、されたっていうか、なんていうか」
「ハッキリ教えてくれ。俺に、お前の心の友の俺にさ!」
どこのガキ大将だよ、と都合のいい親友に呆れる。
良彦はおかまいなしで、期待に満ちた顔で待っている。
「白いバラ、もらったんだよね。それで、そのー、花言葉がさあ」
「ユーゴ、花言葉なんか詳しいの?」
「ふふ。そう思うよね。事前に一生懸命、調べたんだって。デートのための台本も書いてもらったって言ってた」
「台本? 劇団の人に?」
「……多分、部長にだよ。半年かけて作ってもらったんだって」
去年よりはだいぶお値段のお手ごろな、カジュアルな雰囲気の、夜景のキレイなレストランで二人は向かい合って座っていた。
最後に出てきたデザートに手をつける前に、祐午が口を開いた。
「ねえビューティ、僕は本当に気が利かないんだ」
その告白に、どう答えようか華恋は悩んだ。
うん、知ってるよ! というのが正直な答えだが、さすがに面と向かって言うのは憚られる。
「今日だってね、こういう時にはこういうセリフを言うんだって、考えてもらったんだよ」
「誰に?」
この質問に、珍しくイケメンは答えなかった。
そのかわりに、持っていたカバンからノートをチラっと出して見せてくる。
深い青色の表紙のノートには、見覚えがあった。あのクリスマスのボウリング大会用に買った、あれだ。
そう思った瞬間、ノートはまたカバンに吸い込まれて見えなくなってしまった。
「半年前から考えてた、デートでの模範解答集。ビューティとだったらどんな会話をするかって、僕はどうかっこよく答えるか、ここに書いてもらったんだ」
誰に、とは、祐午は言わない。
華恋も、誰に? と聞くことはできなかった。ノートの持ち主の心当たりに、胸が痛む。
祐午は目を伏せたままふふっと笑って、少し小さな声でこう話した。
「だけど全然、使えなかった。やっぱりお芝居とは違うよね。決まった通りに話が進むわけないんだから」
しばらく、静かな時間が二人の間に流れた。
デザートのシャーベットが、ゆっくりと形を失っていく。
「ビューティもそう思う? 僕のこと、本当はどう思ってる?」
「え?」
顔をあげて質問をしてきた祐午の瞳に、自分の姿が映っている。
いつもとはまったく違う華やかな自分と目が合って、それにドキっとしながら華恋は答えた。
「まあ、気が利かないっていうのは、否定できないかな。だけど、別にそれでガッカリしたりはしないよ。むしろ……」
「むしろ?」
「急にキザなセリフとか言い出したら、落ち着かないかも。いつも通りの祐午君の方が安心できる」
「そう」
力がふっと抜けて、華恋の目の前に幸せそうな、美しい笑顔が現れた。
「ありがとう、ビューティ」
その顔を見ていたら、同じように思ってくれる女性はいくらでもいるんじゃないかと思えた。
よっぽど女運がないとかなのかな。
のんきな考えで顔の熱を払いながらデザート用の細いスプーンを手にしたところに、声がした。
「やっぱり僕には、ビューティしかいないみたいだね」
ガラスの皿とスプーンがぶつかる音が、テーブルの上にやけに大きく響く。
「今日、僕と朝帰りしてもらってもいい?」
「で、お前はそんなの無理無理超ダメーって、ロマンもなく断ったのか」
「いや、まあ、なんていうか、あのー、うーん、そういうのはまだ早いんじゃないかなーってさ。よく考えたら、お互い詳細に関しては実はあんまり知らないんじゃないかって気がしてきてそれでまあ、お付き合いみたいなものをお試しで始めてみることにしてみようかちょっと考えてみたらどうかなー、くらいになったわけで」
「照れすぎだろ、ミメイ! お前は、あはははは」
ゲラゲラと笑う良彦に、華恋は久々に舌打ちをしてしまう。
自分に向けられた人差し指をグイっとつかんで無理な方向に曲げてやると、ようやく笑い声が収まった。
「いててて! はは、めでたいな」
「別に確定したってわけじゃないんだよ。お試しだよ、お試し」
「わかる。わかるぜ! 付き合うって言ったら、ユーゴなら即、結婚式どうするか考え始めそうだもん!」
無責任にまたゲラゲラ笑う良彦に、華恋は思いっきり顔をしかめた。鼻のあたりにメチャメチャに皺を寄せた顔に、更に笑い声が浴びせられる。
「でもいいじゃんか、ユーゴはそんなブルドッグみたいな顔でもいいって思ってんだろ?」
「……そうなのかな。正直、そこだけは疑問だよ。こんな四角い地味な顔で祐午君の隣にいていいのか、全然自信がない」
「バッカ、お前、大丈夫に決まってんだろ? あいつ、お前のこと見失ったって言ってたじゃないか。変身しすぎて。いつものお前の地味な顔がいいんだよ」
それはただ単に、見慣れているだけじゃないのかな、と四角い顔が呟く。
「愛着があるんだよ」と返され、華恋は首をかしげた。
「ミメイ、自信持てよ。人は見た目じゃないって、お前だってわかってんだろ?」
「うん?」
「祐午のいいところってどこだよ。見た目じゃないんだろ? 気が優しくて、嘘がつけなさそうで、ちょっとアホなところじゃないのか?」
「藤田、言いすぎ」
相変わらずの鋭い言葉に、ふっと笑う。それに安心したように良彦が続けた。
「お前はいい女なんだから、自信持てよ。自分なんかって考えは、お前がいいって言ったユーゴに対して失礼だぞ」
モゴモゴと口が動く。しかし、言葉は出てこない。そもそも、なんと返そうか華恋の脳はまったく決めていなかった。
ぬるくなったコーヒーを口に入れると、自分がひどく乾いた状態だったことに気付かされる。
湿度が戻り、ようやく落ち着いた気分になって華恋は答えた。
「わかった。もう、無駄に自分を卑下するのはやめておく」
「それがいいぜ。俺だってお前のこと、親友だって思ってるし……」
華恋の微笑みに、良彦が笑顔を浮かべる。
出会った頃と変わらない、朗らかで眩しい、ついでに可愛い笑顔だ。
「もしお前がユーゴとうまくいかなくなって、お互い相手が見つからなかったら俺が責任とってもらってやるからよ!」
明るい声に、華恋が思いっきりむせる。もうちょっとタイミングが早かったら、飲んだコーヒーを全部吐き出してしまうところだった。
「あんた、もしかして私のこと好きなの?」
「好きだぜ? 好きじゃないヤツにこんなこと言うかよ。ただ、恋しちゃうような感じじゃないけど。お前が家にいても全然イヤじゃないから、いざとなりゃゴールインしても問題ないかなって」
「なにそれ」
まだ軽く咳き込みつつ、華恋は笑う。目の前の小粒な男も、ケラケラと笑った。
「将来の保証ができたわけだし、安心して交際をスタートしろよな」
「……あんたの武勇伝はどうなってんのよ?」
「はは。俺も結局、まだお前ほど器のデカい女には会えてないんだよ。みんなちょっと正直に話しただけで泣いて逃げちゃうわけ。ミメイ、お前はすげえんだぞ。言ってるだろ? 初めて会ったころから、ずっと」
優しさの色を濃くした笑顔に目を向けていられなくて、華恋は横に視線をずらした。
そして、思う。
この男に、随分たくさんのものをもらってきたな、と。
初めて会ったあの屈辱の日。
人生で最悪だと思っていた出会いからもう七年。
心のおもりは、全部、この男の笑い声に吹き飛ばされていく。
「ありがと藤田」
「よっしーでいいぜ?」
まだそれを言うんだ、と華恋はケケケと笑った。
「ユーゴに言っといて。テレビに出るようになって、ダイアン・ジョーと仕事することがあったら呼んでって。会社休んででも行くから」
「調子いいなあ」
「いい調子と言ってくれ!」
本当にこいつには敵わないなと思いながら、華恋は伝票を取って立ち上がった。
「今日は奢るよ」
「お、なんだ。随分気を良くしたんだな」
「卒業祝いなんでしょ? 入社祝いは、また今度なにか用意しておくよ」
やったぜ、と良彦も立ち上がる。
そして二人は、なんだかんだいつも通り、並んで歩いて家へと帰った。