第二十三話「空の行き先」
朝は、騒がしかった。
「……カインがいない?」
格納庫に入った瞬間、聞こえた声。
「今朝から姿を消した」
「部屋も空だ」
短い報告。
だが、それで十分だった。
「王国から逃げたか…裏切り者め…」
誰かが吐き捨てる。
「最初からそのつもりだったんだろ」
「やっぱりな、あの野郎」
空気が荒れる。
当然だ。
情報を扱う立場の人間が、何も言わずに消えた。
それだけで、裏切りと見なされてもおかしくない。
(……逃げた、か)
そう考えるのが自然だ。
でも。
(それだけか?)
妙に引っかかる。
あいつは、もっと計算して動くタイプだ。
何も残さず消えるとは思えない。
自室に戻る。
扉を開けた瞬間、気づいた。
机の上に、紙が置かれていた。
見覚えのない封筒。
けれど、差出人は分かる。
(……カインか)
手に取る。
軽い。
中には、薄い紙が数枚と、短いメモだけだった。
封を切る。
最初に目に入ったのは、地図だった。
海路。
空路。
補給線。
そして、見慣れない印。
次の紙には、細かい文字で記録が書き込まれている。
ゼフィラ帝国南部造船区画。
飛行艇建造計画。
試験運用段階。
搭乗員候補、空兵部隊より選抜。
(飛行艇……)
思わず、眉が寄る。
ワイバーンでもドラゴンでもない。
人が造る、空を飛ぶもの。
最後の紙を開く。
数行の文。
空は、誰のものでもない。
だからこそ――誰の空にするかを、人は争う。
その下に、続きがあった。
ゼフィラ帝国は、飛行艇の建造を進めている。
ワイバーンと共に飛ぶための空を、“帝国の空”として確立するために。
彼らは空を自由にする。
ただし――自分たちのために。
そこで一度、読むのを止めた。
窓の外を見る。
朝の空は、やけに高い。
(帝国の空……)
その言葉は、妙に現実味があった。
ヴァルターの言葉を思い出す。
――神に縋る者は、空に不要だ。
あれは、ただの否定じゃなかったのかもしれない。
自分たちの空を守るための言葉だったのかもしれない。
だが、その先に続く文を見て、喉の奥が少しだけ乾いた。
対して、王国はどうだろう。
神を降ろし、空そのものを手放す代わりに、全ての争いを終わらせる。
どちらが正しいかは、私には分かりません。
君なら、どう選びますか。
紙を置く。
答えなんて、すぐには出ない。
帝国は、自分たちの自由のために他国の空を奪う。
王国は、全ての平和のために全ての空を差し出そうとしている。
どっちも、何かを守ろうとしている。
どっちも、何かを捨てようとしている。
(……重いな)
小さく息を吐いた。
その時だった。
「先輩」
扉が二度、軽く叩かれる。
「入っていいですか」
「……ああ」
入ってきたのは、リゼルだった。
いつものように資料を抱えている。
だが今日は、少しだけ表情が硬い。
「どうした」
「調べていたことが、少し繋がってきました」
机の上の紙に目を落とす。
だが何も聞かず、持ってきた文献を広げた。
「神の降臨の周期についてです」
古い紙。
観測記録。
星図。
年代ごとの印。
「過去の降臨記録を、星の公転周期と照らし合わせてみました」
指先が、丸く線を描く。
「やはり、降臨周期があります」
「……降臨しやすい時期、か」
「はい」
頷く。
「神は、勝手には来ません」
「鍵を持つ人間が呼ばなければ、降りてはこない」
「でも」
そこでリゼルが一枚の紙をめくる。
「“来やすい時期”は確かにあるんです」
そこには過去数百年分の記録が並んでいた。
空の状態。
星の位置。
そして、降臨の記述。
「今が、その時期に入っている可能性が高いです」
「ここ数十年は、特に条件が揃いやすい」
「数十年……」
「前回の降臨も、その範囲です」
静かな声だった。
けれど、その言葉は重かった。
つまり、今は特別な時代なんだ。
偶然でも、誰かの気まぐれでもない。
世界そのものが、“呼びやすい時期”にある。
「だから、王国は急いでいるんだな」
「たぶん」
リゼルは少しだけ視線を伏せた。
「もし今を逃したら、次がいつになるか分からない」
「逆に言えば」
「今なら、本当に呼べてしまう」
沈黙が落ちる。
机の上には、カインの手紙。
その隣には、リゼルの文献。
人の思惑。
世界の法則。
どっちも、同じ場所に置かれている。
「……先輩は」
リゼルが少し迷ってから口を開いた。
「どうしたいんですか」
「王国のため、とかじゃなくて」
「先輩自身は」
まっすぐな問いだった。
だからこそ、すぐには答えられない。
「……分からない」
正直に言う。
「でも」
カインのメモを見下ろした。
「どっちの空も、綺麗事だけじゃないってことは分かった」
帝国の自由は、自分たちのための自由だ。
王国の平和は、全ての空を犠牲にする平和だ。
どっちも正しい。
どっちも怖い。
リゼルは小さく頷いた。
「私も、そう思います」
「だから、余計に難しいんです」
その声は、どこか安心しているようでもあった。
自分だけが迷っているわけじゃない。
そう感じたのかもしれない。
その時、外が少し騒がしくなった。
廊下の向こう。
兵の足音。
慌ただしい声。
「……何かあったか」
立ち上がる。
扉を開けると、ちょうどガイアスが走ってくるところだった。
「クロノス!」
「いたか!」
「どうした」
「軍部が騒いでる」
珍しく、ガイアスの顔から熱血っぽい余裕が消えていた。
「ノクティア教国から使者が来た」
その言葉に、思わずリゼルと顔を見合わせる。
軍部会議で聞いたばかりの名前。
神を絶対視する国。
味方にはなるが、扱いを誤れば敵より厄介だと言われた国。
「使者だけか?」
「今のところはな」
ガイアスが低い声で言う。
「でも、普通の使者じゃないらしい」
「護衛も、全員武装済みだとよ」
嫌な予感がした。
外交の空気じゃない。
試しに来たような、そんな感じだ。
「上は何て?」
「知らねえ。でも」
ガイアスが眉をしかめる。
「“ついに来たか”って顔してた」
それだけで十分だった。
ノクティア教国は、ただの協力国じゃない。
世界の均衡を壊すための札なんだ。
王国がそれを切るかもしれない。
そこまで追い詰められているということだ。
廊下の窓から空が見えた。
高く、青い。
どこまでも続いているようでいて、実際にはいくつもの意思で引き裂かれようとしている空。
帝国は、自分たちの空を求める。
王国は、全ての平和のために空を手放そうとしている。
教国は、神のためなら人すら燃やすだろう。
連邦は、その全部を利用して利益を得る。
その真ん中に、自分がいる。
「……クロノス先輩」
リゼルの声が後ろからする。
振り返る。
「星の周期は、待ってくれません」
「人の事情とは関係なく、進みます」
「だから」
少しだけ、息を吸う。
「選ばないといけないんです」
「たぶん、もうすぐ」
静かな言葉だった。
でも、それが一番響いた。
選ぶ。
その言葉を、最近ずっと聞いている気がする。
ユークスは未来を選んだ。
ウェナスも、それを選んだ。
レグナ女王は世界を選んだ。
ヴァルターは自国の空を選んだ。
カインは結果を選んでいる。
ノクティアは信仰を選ぶ。
じゃあ、俺は何を選ぶ。
まだ答えはない。
でも、前より少しだけ分かることがある。
何を守るかより先に。
何を捨てるのかを考えなきゃいけない。
厩舎へ向かう。
自然と、足がそっちを向いていた。
ヴェントラは、いつもの場所にいた。
俺を見ると、静かに頭を上げる。
「……お前なら、どうする」
手を伸ばす。
鱗に触れる。
冷たい。
けど、生きている温度が、その奥にちゃんとある。
ヴェントラは何も言わない。
でも、逃げない。
それだけで十分だった。
空を飛ぶために必要なのは、たぶん正しさだけじゃない。
選んで、それを引き受ける覚悟だ。
風が吹く。
遠くで鐘が鳴った。
使者の到着を告げる音かもしれない。
世界が、また一つ動く。
俺はその音を聞きながら、ヴェントラの首に手を置いたまま、しばらく空を見ていた。




