マリーネの幸福6
ゆっくりと身体が床に沈んでいく。
どうやらピクリとも動けない瀕死のマリーネを死んだ者として、ダンジョンは取り込むことに決めたようだ。
ダンジョンで生まれた魔物はダンジョンで死ぬとダンジョンに還るのだとラルフは言った。
では人はどうなるのかと聞いたら、ラルフは寂しそうに笑ってこう言った。
「ただ消えるだけだよ。装備品は稀にドロップ品となってポップすることがあるようだけど」
では、生きたまま取り込まれた人間は?
目の前では『死の使い」たる吸血虫が狙いをゴブリンに定めてその尻の棘をつきさそうとしていた。
あの尻の棘で痛みや不安やそういうものが全部わからなくなったとしても、あのずらりと逆向きに生えた棘の生えた口の中に捕えられて、身体中に針をつきさされて死ぬのは嫌だなぁ。
だんだんと身体がダンジョンに溶けていく。
思ったより苦しくなく怖さもない。
ああ、でもここには誰もいないなぁ。
置いていかれて、不安で恐ろしくてエドを恨んだけれど、誰もいないならいいかもしれない。
ふとそう考えてマリーネは低く、最後に笑った。
そうだ。こここそラウルもアリッサもカーラもシェイラもエドも誰もいない世界。
ほろりと最期にマリーネであったものの意識がほどけて、ダンジョンはいつもの静けさをとりもどした。
いずれ、さっき虫に吐き出されたゴブリンも同じように溶けてなくなるだろう。
虫はさらに空腹を満たすために縄張りを巡回しに行ってしまった。
工房をたたんで借金を返し終わったエドは冒険者になっていた。
いや、ならざるを得なかった。悪評が出回っていて、再び職人としては何処も雇ってくれなかったのだ。
曰く、愛人に入れあげ、糟糠の妻を毒殺した。
鼻もちならないうぬぼれやで、若くして工房を持った事を鼻にかけていた為客から見放された。
甘ちゃんで、悪い知人に身上を食いつぶされた。
どれもこれも言われてみればあたらずとも遠からずで真実に近いものであった。
冒険者になってみると、一部の冒険者を除けば、冒険者は他に手に職のない半端者がなる職業だとわかる。
あんなに強くて尊敬していた『兄貴分』であるラルフも冒険者としてはたいした事のない存在だったのだとわかる。
自分が荒れていた頃にその目に映っていた彼は、自分に語った武勇伝も皆に豪快に酒を驕りまくるという磊落さも、冒険者という明日にはどうなるかわからない職業についた男のただの去勢だったという事を身を以て知る事になった。
ただ寂しかった。自分の寄る辺ない身の上が。
知る人もいない酒場で一人酒をのむ寂しさが。
あのあたたかい腕に抱きしめられ、あの黄昏色の目で瞳を覗き込まれた過去を知っているだけにそのぬくもりが永遠に失われてしまったと知っている事が寂しかった。
与えられて当然だとそう驕っていた自分が愚かで惨めだった。
エドより若いかけだしの連中は、パーティを組み、冒険に一喜一憂し酒場で悔し涙や勝利の涙でいくぶんしょっぱくなった杯を交わし合う。
最初から冒険者を目指している奴と、仔細があって冒険者になるしかなかった奴との差は歴然で、やもすると、自然と己の嗅覚から自分の同族を好むと好まざるを得ないまま見つけ出してしまう。
結果、お互いにお互いの負け犬の目を見ないように目を逸らして、別々の席へポツンポツンと間隔をあけて座る事になる。
「逃げて悪かったな。アリッサとカーラの事はどうとも思わなかったが、お前にだけは謝っておきたかった」
あるダンジョンの町で行方不明のはずのラルフと出くわす。
シェイラは?と尋ねれば死んだよと返される。痴情のもつれで3年前と続けて言いながらエドの杯に酒を注ぐ。
「これ、少ないけど返すな」
そう言って握らせられたコインが数枚。
「あの時の怪我、ちゃんと治らなかったんだ。もう稼げなくてな。…そのもつれって奴に俺は全然関わっていない。この町にきてすぐに別れたからな」
静かにそんな事を言うのだった。
「『いい女』だったのにつまらない死に方をして…もったいなかったな」
飲んでいるうちにラルフはいつの間にか消えていた。
幻だったのかと思って手の平を開いてみればチャリリとコインが数枚寂しく鳴った。
つまらない死に方をしたのはマリーネだ。
恋のさや当てのキャットファイトに巻き込まれて死んだ。
死んでしまうって知っていたら、もっと大事にしたのに。
そう思うと酒の杯が増えていく。
無償の愛が永遠にただ与えられるものではないと、そう気がついていたのなら。
いやな酒だ。
全然楽しくない。
いや、あれから『楽しい事』なんかあったか?
妻の愛し方を知らず、結果追い詰めて自分の手で最後は息をとめさせてしまったあの可哀そうな妻を失ってから。
今日も背中を丸めて一人でダンジョンへ潜る。
最近、ダンジョンに潜っていると心が安らいでいる時がある。
妻の死体を取り込んだダンジョン。
そこに俺もいると。
「ただいま。会いにきたよ」
俺はそっとダンジョンにそう告げる。
今日も母は鼻歌を歌いつつ、料理をする。
僕が美味しいねっていうととても喜ぶんだ。
魔物の癖にダンジョンに畑や果樹園、牧場なんかを作っちゃう変わり者。
時々母は編み物もする。
そんな時は尚幸せそうだ。
「あなたがちっちゃい時、小さな爪で頬ややわらかい肌をひっかかないように手袋を編んだのよ」
「じゃ、今編んでいるのは誰用なの?」
「うふふ。あなた。かわいいあなたの他に誰にプレゼントすると思うの?」
母は今日も上機嫌だ。
そうだ今日は僕からもお母さんにプレゼントがあるよと言えば、なにかしらとうれしそうに聞いてくる。
「はいこれだよ。この冒険者」
「あらいやだわ。人間じゃないの。」
そこに虫がいるという塩梅に母は言う。
よほど人が嫌いなようだ。
「ふふふ。ただの人間じゃないよ」
僕はたっぷりとためを作って言った。 母はキラキラとした複眼で僕を見てくる。
「なんと僕のお父さんですー」
「まぁいやだ、元あったところに捨ててきなさい」
「まぁまぁまぁ、人間だったころの僕は母さん一人じゃできないからさ、僕に人間の父さんというものを教えると思って」
僕はペットでも飼っちゃだめ?とでもいうように母にねだる。
母は仕方ないねぇと牢に入れられた人間を見る。
「ちゃんと面倒を見るのよ」
牢に入れられた人間はそんな母と僕を交互に見て驚いている。
「マリーネか。マリーネなのか?そうなんだな」
「ねぇなんて鳴いているの?」
母は僕に不思議そうに聞く。僕は教えてあげることにした。
「かあさんの名前を呼んでいるよ」
そうすると母は触覚をふって、わたしの名前?とつぶやいている。
浚ってきた人間は結局は母さんが甲斐甲斐しく面倒を見ている。
『おとうさん』は時々、母さんの頬の線を愛しげに撫でている。それに対して母さんは
「人間に触られるのは嫌なんだけどこの人間の触り方は嫌じゃないわ」
と言って、手造りの料理を食べさせている。
僕は母さんの作ったホーンラビットの肉団子とダンジョン産の野菜のスープを飲みながら言う。
「母さん、僕魔王になるよ」
「まぁそれは素敵ね」
母さんはうれしそうに言う。僕が人間だった時の父さんもうれしそうだ。
「そうと決まれば、ごちそうを作らなくっちゃね」
人間達の暮している 足元のずっと奥の方。
ダンジョンには多くの憎悪や怨嗟や恐怖が今日も集まってくる。それらの負のエネルギーを糧にして、僕達魔物は成長していく。
そして僕はそのエネルギーを取り込みつつ魔王へと変異の途中だ。
でも不思議だね。母さんの料理を食べているときだけはそんな僕でも安らぐんだ。
「美味しいよ。美味しいね。マリーネ」
僕が人間だった頃の『父さん』が母の料理を食べながら一生懸命鳴いている。
「ああ、いい声だね」
「愛してる。愛しているよ。マリーネ」
いい拾い物をしたねと母は笑う。
僕もいい拾い物をしたねと母さんに笑いかける。
「マリーネ。マリーネ。愛しい人」
今日も鳴くいい声が聞こえる。
僕は縦長の瞳を細めてくすくすと笑った。
了