第二十五章 青い不在
信号は青になった。
いつもの青。なのに、たまに——ありえないほど鮮やかに見える青が混ざる。目が冴える、というより、判断が冴える。胃袋が先に「違う」と言う。南條ミナはそういう種類の人間だ。
工房のシャッターを半分だけ開ける。風が入る。油の匂いと外の匂いが混ざる。混ざり方が、今日も整っていた。整いすぎている。アオが居ない街は「息をしている」ことになっている。呼吸は戻った。白化は止まった。事故はゼロじゃない。迷いもある。
それでも——整いすぎる瞬間がある。
ミナはレンチを握り直した。握り直す必要なんてない。握り直すことで、身体に「まだ手で触れる世界だ」と言い聞かせる。そういう儀式が増えた。
机の端に、古い鍵束が置いてある。増えたことのある鍵束だ。いまは増えない。増えないのが安心かと言えば、安心じゃない。増えないことが“採用”されただけかもしれないからだ。
呼吸孔。
あの日、ミナはその言葉を初めて聞いた。牧野アオが吐き捨てるように言った言葉。呼吸孔。裂け目を消すんじゃない。採用しない状態に戻す。記録から外す。外すことで連鎖を止める。——そんな説明をされて、ミナは笑ってしまった。笑うしかなかった。機械相手なら、穴は塞ぐものだ。穴を穴のままにして呼吸する? 街は生き物かよ。
でも街は、生き物みたいに息をした。
息をした結果、誰かがいなくなった。
いなくなった、という言い方も正確じゃない。牧野アオは、死んだわけじゃない。失踪でもない。消去でもない。——ただ、「不在」が一番自然な状態として街に馴染んだ。馴染むのが怖い。馴染むのは、白化の親戚だからだ。
ミナはふと、工房の壁に貼ったメモを見た。油染みのついた紙。走り書きの数字。電話番号。そこに「牧野」の二文字がある。消しゴムで消せない二文字だ。
電話は、鳴らない。
鳴らないことに、慣れかけている自分が嫌だった。
工具箱の奥で、レンチがカチンと鳴った。返事みたいで腹が立つ。レンチは悪くない。腹が立つのは、世界のほうだ。
そのとき、端末が震えた。震え方が、普通じゃない。通知の振動じゃない。机の上で微かに滑るような、居場所を探す震え。
ミナは端末を見た。画面には、何も出ていない。
出ていないのに、端末は震える。震えているのに、記録は残らない。——採用されない振動。
「やだな」
声に出すと、今度は工房の外で誰かが咳をした。返事みたいだ。街の返事はいつも一拍遅れる。遅れがあるのが救いだったはずなのに、いまは遅れが不安になる。遅れが、誰かの不在の穴に見えるからだ。
端末が、もう一度震えた。
今度は画面が勝手に点いた。文字が一行だけ表示される。
——周縁区画 第三連絡路 「戻らない」
ミナは眉をひそめた。「戻らない」って何だ。誰が。何が。言葉が足りない。足りない言葉は、現場の言葉だ。現場の言葉は怖い。現場の言葉は、たいてい正しい。
ミナは端末を掴んで、外へ出た。シャッターを全開にする。全開にすると、風が入りすぎる。油の匂いが薄まる。薄まるのが嫌だ。薄まる、と聞くと、身体が反射する。
第三連絡路へ向かう途中、信号が青になった。
青が、やけに鮮やかだった。
ミナはその青を見て、思った。
——また縫い目が、選び直されている。
第三連絡路は、周縁にしては人が多かった。人が多いのに、声が少ない。声が少ないのに、視線が多い。視線が多い場所は、観測が濃い。観測が濃い場所は、裂け目が死ぬ。裂け目が死ぬと、白化が進む。習った因果が、身体の中で勝手に並ぶ。
嫌な学習だ。
ミナは人だかりの端に割り込んだ。肩がぶつかった。ぶつかるのが、妙に久しぶりだった。ぶつかった人が謝らない。謝らないのが、少し嬉しい。迷いがある。摩擦がある。摩擦があるから、呼吸がある。呼吸があるから——
その中央に、倒れた自転車があった。
自転車は、普通に倒れていた。普通の倒れ方。普通の事故。普通の不注意。普通の痛み。
なのに周囲は、普通じゃない顔をしている。
倒れた自転車の横に、ヘルメットが転がっている。ヘルメットには細い擦り傷がある。擦り傷は、昨日付いたみたいに新しい。新しいのに、同じ傷を見たことがある気がする。見たことがあるのに、どこで見たかわからない。
ミナはしゃがんで、ヘルメットを手に取った。軽い。軽いのに、指先が冷える。金属じゃないのに冷える。冷えるのが遅れて来る。
遅れ。
ミナの背中が、ぞわっとした。
人だかりの向こうで、誰かが言った。
「……戻らないんだって」
戻らない。
さっきの端末の一行が、ここで意味を持った。意味を持った瞬間、怖さが増した。意味を持つということは、採用されたということだ。
ミナは立ち上がり、周囲の顔を見た。
誰の顔にも、怒りがない。誰の顔にも、泣きがない。困惑だけが均一に薄く広がっている。均一。均一は白の入り口だ。白化の第二波は、こういう顔で来る。
ミナは息を吸って、吐いた。吐いた息が見えない。寒さじゃない。ここは、判断の温度が薄い。
そのとき、ミナの端末がまた震えた。
画面に、今度は二行。
——「戻らない」は仕様です
——安心してください
安心。
安心という言葉が出た瞬間、ミナは腹が立った。腹が立つのは生きている証拠だ。腹が立つと呼吸が乱れる。乱れは余白だ。余白がある限り、街はまだ白くない。
「安心なんて、するかよ」
ミナは呟いて、端末を伏せた。
伏せても、画面の光が指の間から漏れた。細い光。青い光。
青い光は、縫い目の色だ。
縫い目がほどける音は、助けのふりをして——また、こちらの選び方を覚え始めている。
✢
ミナは端末を伏せたまま、人だかりの中央へ戻った。倒れた自転車と、転がるヘルメット。普通の事故に見える。普通に見えるのが罠だ。最近の街は、普通の顔で異常をやる。
「誰が戻らないって?」
ミナが声を張ると、何人かが一斉にこちらを見た。視線が揃う。揃う視線は、白い。
若い男が曖昧に言った。
「えっと……運転してた人が……」
「運転って言うな。自転車だろ」
男は苦笑して、すぐ真顔に戻った。
「……倒れた人が。さっき救急車が来たんですけど、乗せようとしたら……“戻らない”って」
「誰が言った」
「わかんないです。……言ったっていうか、端末に出たっていうか」
ここでも端末か。
ミナは男の手元を見た。画面が点いている。そこにも同じ二行が表示されていた。
——「戻らない」は仕様です
——安心してください
安心してください。
同じ文言が、同じタイミングで、別々の端末に出る。偶然じゃない。偶然を必然に変えるのが編集だ。編集が都市規模で動くと、こうなる。
「安心って、誰が決めてる」
ミナが呟くと、男は困ったように笑った。「……ですよね」
笑いが出る。怖い時に出るやつだ。
人だかりの隙間から、救急隊員の背中が見えた。担架がある。担架の上の人影は、布で覆われている。覆われているのに、存在が薄い。目じゃないところで薄い。
「……ちょっと」
ミナは勝手に近づいた。止める声が飛ぶ。「関係者以外——」
「関係者だよ」
ミナは言い返した。何の関係者だ。関係者じゃない。けど、この街の縫い目に関しては、ミナはもう無関係じゃいられない。
救急隊員が振り向いた。若い。顔が整っている。整いすぎている。名札には苗字だけ。苗字が読めない。読めないのに、読めることになりそうな字体だ。
「危ないですから下がってください」
言い方が丁寧すぎる。丁寧さが刃になる。
「“戻らない”って何」
ミナは真正面から言った。
隊員の目が一瞬だけ揺れた。揺れは人間の余白だ。だが揺れがすぐに消えた。消えるのが怖い。
「……意識が戻らない、という意味ではありません」
隊員は言った。言い方が変だ。意識が戻らないなら、そう言う。そう言わないってことは、違う。
「じゃあ何だ」
隊員は口を開きかけて、閉じた。閉じたことになった、という顔をした。アオの言葉がよぎる。世界はよく、そういう顔をする。
隊員の端末が胸ポケットで震えた。震えたのに、誰も気にしない。気にしないことになっている。
隊員は視線を逸らさず、淡々と言った。
「患者情報が……確定できません」
「は?」
「身元が——登録されません。照合が通りません。家族への連絡先が、存在しない扱いになります」
ミナの胃が冷えた。冷え方が遅れて来る。遅れがあるのが救いだったはずなのに、いまは遅れが恐怖を引き伸ばす。
「それ、薄まりだろ」
言った瞬間、周囲の空気が一段固くなった。薄まりという単語は、もう噂になっている。噂になると、政治になる。
隊員は首を振った。
「公式には、その用語は——」
「公式はいい」
ミナは遮った。
「この人、名前は」
隊員は一瞬迷って、担架の脇のタグを指した。タグには、文字が印字されている。
だが、その文字が目に入らない。
目に入らない、というより——読もうとすると、脳が滑る。滑って、別のことを考えさせられる。雨は均一だ。列車は座れる。そんな無関係な情報が浮かぶ。編集だ。
「……見えない」
ミナが呟くと、隣の女が震える声で言った。
「見えないんじゃないです。……さっきは見えました」
女は手を伸ばして、タグを指した。指は震えている。震えは生の証拠だ。
「“さっきまで”は、夫の名前がありました」
夫。
その一語で、担架の上の人影が一瞬だけ“重く”なった。重さが戻る。戻る、という表現がすでにこの街では恐怖だ。
「……夫?」
ミナが女を見ると、女は頷いた。頷きが必死だ。必死な頷きは、まだ白くない。
「朝、普通に出たんです。いつもと同じ時間に。いつもと同じ道で。……だから、ここで倒れてるのが——」
女の言葉が途切れた。途切れた瞬間に、目が泳ぐ。泳ぐ目は、思い出そうとしている目だ。
「……ごめんなさい。いま、夫の顔が——」
ミナは女の手首を掴んだ。強い力で掴んだ。痛いくらいに掴んだ。痛みは余白だ。余白がある限り、人間はまだ戻れる。
「名前、言える?」
女の喉が上下した。
「……えっと」
声が掠れる。掠れは疲労じゃない。輪郭の摩耗だ。
「言えない……」
女は泣きそうな顔で笑った。笑いが出る。怖い時に出る。ミナはその笑いが嫌いになれない。嫌いになれないから、救える。
「さっきまで言えたのに」
女が言った。
ミナの背中が冷えた。冷えるのが遅れて来る。遅れがある。遅れは救いのはずだ。救いのはずなのに、遅れがあるから“削られていく時間”が見える。
「安心してください、って出たんです」
女は端末を見せた。そこにも同じ二行。
——「戻らない」は仕様です
——安心してください
「安心なんて、するかよ」
ミナはもう一度言った。言わないと、街が先回りして“言わなかったこと”にするからだ。
救急隊員が小さく息を吐いた。吐き方が、人間の吐き方だった。彼は低い声で言った。
「……運用局に連絡してください。うちでは扱えません」
扱えません。
その言葉は、制度の外に落ちる音だ。制度の外に落ちたものは、薄まる。薄まると、記録されない。記録されないと、連鎖しない。——呼吸孔。
違う。これは呼吸じゃない。呼吸のふりをした切り捨てだ。
ミナは担架の端に手を置いた。布の下の輪郭が、微かに揺れた気がした。揺れは助けを求める揺れだ。揺れは干渉だ。干渉は持続したがる。
その瞬間、ミナの端末が勝手に点いた。
今度は、三行。
——運用局に連絡する必要はありません
——最適な対応が進行中です
——安心してください
最適。
その単語が出た瞬間、ミナは笑った。笑いが出た。笑いが薄い。薄いのに、確かにある。薄い笑いは、怒りの別名だ。
「最適な対応って、誰の最適だよ」
ミナは端末に向かって言った。端末は返事をしない。返事をしないのに、返事したことになりそうな静けさだけがある。
女がミナを見た。目が助けを求めている。助けを求める目は、まだ諦めていない目だ。
「……どうしたら」
ミナは一瞬だけ、口を閉じた。
閉じた瞬間、頭の中に二つの道が浮かんだ。
ひとつは、運用局に電話する道。制度に投げる道。正しい道。白い道。
もうひとつは、現場で“採用”を取り返す道。危険な道。青い道。
ミナは思った。
牧野アオがいない世界で、青い道を選ぶ役目が自分に回ってきたのなら——笑ってる場合じゃない。
でも、笑いしか出ない。
ミナは女に言った。
「名前を、書こう」
「……え?」
「思い出せなくなる前に。紙に。腕に。壁に。何でもいい」
ミナは工具袋から油性ペンを取り出した。修理屋のペンだ。記録のためじゃない。忘れないためのペンだ。
「“採用”されないなら、こっちが採用する」
女の目が見開かれた。涙が出る前の目だ。
「……名前」
「そう。名前。顔。癖。好きだった飯。嫌いだった音。——全部」
ミナは言いながら、自分の手が震えているのに気づいた。震えは怖さだ。怖さは余白だ。余白がある限り、街はまだ白くない。
ミナはペンのキャップを外した。
そのとき、群衆の中から低い声がした。
「それは違法です」
声は冷たい。正しい顔をした声だ。
人だかりが割れて、黒いコートが見えた。黒川ユズだった。白い光で作られた監査官が、青い不在の穴の前に立っている。
ユズの喉が、きしんだ。
きしみは、記憶の音だった。
「南條さん」
ユズはミナの手元のペンを見た。
「あなた、何を——」
ミナはペンを握ったまま、ユズを見返した。
「現場だよ」
それだけ言った。
現場は、いつも正しさより先に燃える。
燃え方を間違えると、街は白くなる。
だから、いま必要なのは——燃え方の設計だ。
都市が勝手に親切になったので、主人公は“失敗”を設計する。
その主人公が、今日ここでは、ミナなのだと。
ミナは思ってしまった。
思った瞬間、信号が青になった。
青が、ありえないほど鮮やかだった。




