表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
25/38

第二十四章 青い縫い目のあと


 翌朝、都市は崩壊していなかった。

 空は落ちていない。ビルは立っている。道路は割れていない。——裂け目が歌って、全部が終わる未来は、ひとまず採用されなかった。

 代わりに、うるさかった。

 うるさいのは音量じゃない。出来事のノイズだ。順序のズレだ。予定の狂いだ。言い間違いだ。遠回りだ。——生活が生活に戻るときの、あの雑さ。

 中心部の朝の歩道で、人がぶつかった。

「すみません!」

「いえ、こちらこそ!」

 そのやりとりが、やけに眩しかった。ぶつからない都市は安全だ。ぶつかる都市は生きている。どちらが正しいかは、いまは決めない。決めないことが、呼吸になる。

 カフェの注文は揃っていなかった。

「甘いやつ」

「苦いやつ」

「いつもの……いや、今日は違うの」

“いつもの”が崩れた。崩れたのに、崩壊ではない。崩れは余白だ。余白があるから意味が生まれる。意味は整合からではなく、干渉から生まれる。——誰かの言葉が誰かに引っかかって、そこで初めて出来事が起きる。

 事故も起きた。

 転んだ人がいた。信号で揉めた人もいた。救急車のサイレンが一度だけ鳴った。ゼロじゃない。ゼロにしない、という選択の代償だ。

 それでも、白化は止まった。

 街のあちこちに残っていた“白い滑らかさ”が、剥がれ落ちるみたいに薄くなった。言葉が揃いすぎていた会話が、少しだけ噛み合わなくなった。噛み合わなさは疲れる。疲れるのに、息ができる。

 薄められていた人々の一部が、戻った。

 戻る、というより「戻ったことにできた」。記録が復元されたわけじゃない。完全に整合したわけじゃない。だが周囲の人間が、思い出すことを許された。許された、という言い方も変だ。——思い出すための余白が戻った。

 定食屋の女将が言った。

「あれ、あなた……最近見なかったね。どこ行ってたの」

 言われた本人は笑った。笑いながら泣いた。理由は説明できない。でも泣ける。泣けるのは、薄められていない証拠だ。

 戻らない者もいた。

 空白は残った。名前のない喪失は残った。椅子が一つ空いたままのテーブルが、街のどこかに必ずある。都市はそれを“なかったこと”にできない。できないことが、今回の結果だった。

 不完全さを抱え込む。

 抱え込むと重い。重いのに、生きている。

 ——そして、アオはいなかった。

 いない、というのも正確ではない。居場所が、都市の側にない。都市の側にないのに、都市の中に痕跡がある。痕跡はプロトコルに残る。呼吸の周期に残る。

 ソウタは運用局の窓辺で、端末のログを眺めていた。

 青い整合性ログが、以前ほど滑らかではない。数字が小さく揺れる。揺れがある。揺れがあるのに、破裂しない。

「……あいつ、やりやがったな」

呟いて、ソウタは笑った。笑いがちゃんと笑いになっている。胃袋の笑いだ。

 ユズは監査室で、引き出しのメモリチップを握っていた。2018/11/07。白い光。空白。名前のない喪失。

 ユズは初めて、その空白を“空白のまま”机に置いた。埋めない。整合しない。——そのまま抱える。抱えることで、守る。

「……曖昧さは、事故の母だと思ってた」

ユズは誰にでもなく言った。

「でも、曖昧さは……人間の母でもあるのね」

 廊下の向こうで、誰かが言い間違えて、誰かが笑った。笑いは軽いノイズだ。ノイズは呼吸だ。

 ミナは工房のシャッターを半分だけ開けた。

 半分だけ開けるのは風のためだ。風が入ると、油の匂いと外の匂いが混ざる。その混ざり方で一日が決まる。——決まらない日があることも含めて。

 今日は匂いが濃かった。濃いというか、バラバラだ。バラバラなのに、嬉しい。

「やだな」

ミナは言って、笑った。レンチがカチンと鳴った。返事みたいで腹が立つ。腹が立つのが、久しぶりだった。

 信号が青になった。

 いつもの青。誰も気にしない青。

 でも時々、その青が——ありえないほど鮮やかに見える瞬間がある。目じゃないところで見える。判断の奥で、青が鳴る。

 縫い目がほどける音は、もう助けのふりをしていない。

 縫い目は、ほどけながら縫われている。

 ほどけることを許す縫い目。

 呼吸する縫い目。

 都市はそれを抱えて、今日も少し不便に、少し騒がしく、少し痛みながら歩いていく。

 ——その歩幅のどこかに、アオの不在が混じっている。

 不在は穴ではない。

 余白だ。

 そして余白は、青い。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ